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マノーリンはかもめの夢をみる(10/10)

 灯台の向こうの空が明るみ、今まさに夜が明けようとしている。白く光る水平線を背後に背負って、灯台のフレネルはますます明るく輝いた。
 リョウヘイは自分の体が光を吸って、ぶるぶると振動するのを感じた。世界が明るさを増していくのを、リョウヘイは全身で知覚する。リョウヘイが胸いっぱいに朝を吸い込み、はっと一息に吐き出すと、肺から放出された息は光線を浴びて雲母色に凝固し、空中に砕け散った。
 いまや、リョウヘイの体は全身が星の粒子であるかのように輝いていた。そしてリョウヘイは、点火されたマグネシウムのようにはじけ飛ぶと、濡れた靴を脱ぎ捨て、ざぶざぶと青黒い波に駆け込んでいった。
 もう一度「やめとけって」と声をあげかけ、しかしトモキはその言葉を飲み込んだ。沖へ向かって駆けていくリョウヘイのまわりの波が、青白く輝いている。その光の中でリョウヘイは真っ黒いシルエットになり、光の粒をまき散らしながら駆けていた。リョウヘイを包んだ光はリョウヘイの足もとからまっすぐに海にむかってのび、防波堤の切れ目を通って、灯台まで真っ直ぐに伸びていた。
 リョウヘイは、光の道の上にいた。そして、灯台へと伸びていく真っ直ぐな道に向かってリョウヘイはざぶりと身を投げ込んだ。
 勢いにまかせて海に飛び込んだ後に、まだ自分が服を着ていることにリョウヘイは気がついた。これでは、いくらリョウヘイといえども泳げない。防波堤までは問題なくても、それから先にこのまま進むのは無謀だった。リョウヘイは、背中にトモキの視線を感じつつも、浅い砂に一度足をついて立ち上がり、濡れてべっとりと肌に張り付いた重いシャツを脱ぎすてた。そして、今度こそはと、濡れて光る少年の胸をもう一度海に投げ出した。
 波に潜って、一心にクロールをかきつづける。朝の海は冷たかった。目を開けると、午後に泳ぐ時なら真夏の強い日差しに照らされた明るい世界が飛び込んでくるのに、今見えるのは濁った青の深淵ばかりだ。リョウヘイは一瞬、方向を失いかける。平泳ぎに切り替えて波の上に顔をあげ、防波堤の灯標の点滅している方を確かめて、リョウヘイはもう一度面かぶってクロールで泳いだ。
 やがて、リョウヘイの突き出した手が防波堤のコンクリートの手触りを掴んだ。いつもより早いペースだ、とリョウヘイは胸を躍らせる。リョウヘイは防波堤によじ登ると、朝の海をぐるりと見回した。前には、泡だった群青の海に、あの光の道が灯台にむかって真っ直ぐ伸びている。そして後ろを振り返ると、小さくなったトモキが、こちらに向かって合図するように両手を振っていた。リョウヘイも両手を振って合図を返す。そして、灯台の方に向き直ると、深呼吸をひとつして、またざぶりと海に飛び込んだ。
 勢いよく身を投げたリョウヘイは、いったん波の下に沈んでから、ゆっくりと海面にあがり、そこでもう一度深呼吸をした。そして、自分が泳いでいくべき方向を、しっかりと見定める。もう、後戻りをする気はない。
 濡れた視界の向こうにゆれる灯台は、今度は小さく見えた。そして、朝日の影である光の道の中に飛び込んだはずなのに、リョウヘイの体が浮いているのは、青黒いただの海だ。防波堤の外の海へ出るのはもちろん初めてだが、案外と波が高いことにリョウヘイは驚いた。いつも防波堤の上から見下ろしている限りは、そう違いはないように感じられたのだが。
 しかしリョウヘイは思い切ると、ざぶりと面かぶってクロールで泳ぎ始めた。どんなに遠くだって、少なくとも自分の両目で見える場所ならば、たどり着ける。図書館と市営プールのある街から家までだって、リョウヘイは歩いたではないか。
 リョウヘイは、しばらく無心に泳ぎ続けた。そして、もうかなり遠くまで泳いだだろうと思ってクロールをやめ、平泳ぎになって位置を確かめてみる。しかし、まずリョウヘイの両目が見たのは防波堤で、それはまだすぐそこにあり、灯台はどこにいったと頭を巡らせれば、遠くの方でじっと黙り込んでいた。
 方向を間違えないように、リョウヘイは向きをしっかり決めてから、もう一度クロールを始めた。高い波は、リョウヘイの両腕にからみついて、泳ぐのを邪魔してくる。最初は気にならなかったのに、だんだん疲れてくるに従って、波は煩わしく感じられた。それでもリョウヘイは、無心に波をのぼり続けた。また十分に進んだだろうと思ったところで顔を上げると、しかし、思った距離のまだ半分も進んではいなかった。
 リョウヘイは、泳いでは止まって向きを確かめるのを、何度も繰り返した。確かに少しずつ灯台に近づいてはいたが、疲労と進んだ距離はまったく釣り合わない。リョウヘイは海のど真ん中まできて、荒い息を休ませようと、立ち泳ぎになった。そこはもう、戻るのも嫌になるほど防波堤からは遠いのに、灯台にはまだまだだった。
 遠くに、操業している漁船が見える。小さな船影に、かもめがたかっていた。それはいかにも長閑な、漁師町の風景であるようにリョウヘイには思われた。せっかくここまで泳いできたけど、やっぱりあちらへ泳いでいって、ひろってもらおうか。きっと大人には叱られるだろう。しかし、もうそうしてもいいかもしれない。リョウヘイの心を、そんな弱気がよぎった。だが、もはやその漁船までたどり着くだけの体力だって、リョウヘイに残っているだろうか。リョウヘイは、自分の両腕がたちまち頼りなくなるのを感じた。そして、そう思った途端に、リョウヘイは大きな波をかぶって溺れかけ、あわてて両手両脚を動かして姿勢を立て直した。
 とにかく、ここで止まって浮いているだけでは話にならない。いずれの方へ向かうにしても、リョウヘイはまだ泳がねばならないことを自覚した。そして、ここまで出てきたからにはもう、やはり灯台へ向かわないわけにはいかないとリョウヘイは決めた。灯台まで行って一体どうしたいのか、そもそも灯台にたどり着いてその後どうするのか、リョウヘイにもさっぱり分からなかったけれど、そこは少なくともここよりはましな場所で、行きさえすればどうにかなるだろうと、根拠もないのにリョウヘイにはそう信じられた。
 リョウヘイは、今度はクロールではなく、平泳ぎでゆっくりと泳ぎだした。
 クロールに比べると好みではない平泳ぎであったが、時々犬かきになって方角を確かめながら泳ぐことができるので安心感はあった。しかし、平泳ぎで進む速度は、我ながら苛立たしいほど遅い。もういい加減、近づく気配ぐらい見せてくれてもいいのに、灯台は相変わらず遠いままである。やっぱりクロールで一息に距離をつめた方が・・・リョウヘイは焦ってそんなことを考えもした。けれどリョウヘイの両腕はすでに重たかったし、一体クロールで何本泳げば灯台までたどり着けるのかも分からない。リョウヘイは、早く何か手応えのあるものを掴みたいという欲望をねじ伏せて、無心に泳ぐことを心がけた。
 気がつけば、日は高かった。水面に顔を出すと、頬を撫でる風が熱い。リョウヘイは、今は一体何時だろうと考えた。すると、急に空腹が襲ってきた。喉も渇いている。ひょっとしたらもう昼飯の時間かもしれない。そう思った途端に、リョウヘイの腕はまたぐっと重くなった。いや、腕だけではない。肩は疲労でこわばっているし、胴回りから腿にかけては海水をつめたビニール袋のようだ。
 リョウヘイは泳ぐのをやめて、あおむけになり、ぷかぷかと波間に体を浮かべた。皮膚は海水に洗われて冷え切っている。まるで水死体になったようだ。熱をもったところと、冷えて感覚を失ったところが体の中でまだらになっている。あおむけに浮かんでいると、初秋のまだ強い日差しがリョウヘイのへそのあたりをあたためた。リョウヘイは徐々に、疲労のためにもうろうとしていた意識が晴れ渡っていくのを感じた。
 なんてことを企てたのだろうと、リョウヘイは悔いたが、しかしリョウヘイが漂っているのは海の真ん中だし、とにかくどこかへ泳ぎつかなければどうにもならない。そしてまた周囲を見渡せば、防波堤も漁船も灯台も、もはやすべて遠かったが、それでも一番近いと思われるのは、ずっと目指して泳ぎ続けてきた灯台であった。
 あとどれぐらい泳ぎつつければ、灯台のたつ岬にたどり着けるのかは分からない。でもここまで来た以上は、とにかく灯台を目指すしかない。リョウヘイはぷかぷかと波に浮いて体を休ませながら覚悟を決めた。もう体はばらばらに分解してしまいそうなほど疲労している。そして、休めば休むほど、疲労は重くなってリョウヘイを海底へ引きずり込もうとしてくる。
 リョウヘイはまた泳ぎ始めた。腕のひとかきごとに、どれだけ体が進んでいるのか、その実感はまるでなかったが、それでもとにかく一度水をかけば、そのひとかき分だけは自分の体が前に進むものと信じるより他になかった。
 少し近づいたかなという希望と、やっぱりまだまだ遠いという絶望が、何度も何度も、交互にリョウヘイを襲った。リョウヘイはやがて、期待することに疲れて果て、できるだけ何も考えないようにすることにした。もはや海に溶け出してしまったかのように、手足はしびれきっている。リョウヘイにはもはや、灯台にたどり着けるかどうかなどどうでもよく、ただ手応えのあるものを掴みたい、とにかく生きてさえいればいいと念じ続けた。
 そしてどれくらいの時間が経ったか、もう分からない。意識すら遠のきかけて、自分がどちらの方へ泳いでいるかも分からなくなった時、漁船のエンジンが吐き出す油臭い匂いがリョウヘイの鼻をついた。
 泳ぎを止めて振り返ると、一艘の小さな漁船がリョウヘイの方へ向かってゆっくりと進んできた。漁船の上には人影が見える。その人影が、オレンジと白に塗り分けられた浮きをリョウヘイに投げ、リョウヘイは何も考えずに、波に落ちた浮きにつかまった。
 リョウヘイは船に引き上げられた。そして硬い手触りの大きな布を濡れた体にかぶせられた。その布を渡したのは、ガッキーだった。叱られるんだろうな、とリョウヘイは覚悟したが、ガッキーの一言目はこうだった。
「よく、こんなところまで泳ぎましたねえ」
 そう言って先生が眩しそうに空を見上げるので、リョウヘイも顔を上げた。すると、目の前には岸壁があり、そこからずうっと見上げ行くと、眩しい空を背に白い灯台がたっていた。リョウヘイは、いつの間にか灯台のすぐ足もとまで泳ぎ着いていたらしかった。
 リョウヘイは目を細めて灯台を見上げた。灯台は、想像もしなかったほど大きく、高い場所にある。そしてその先端では、フレネルが海の反射を吸い込んで虹色に輝いている。
「まさか、本当に泳ぐとは。しかし、これからが大変ですよ」
 先生が感心したように言ったが、その声が高いところから降ってくるので、まるで灯台がしゃべったようだった。しかし、リョウヘイはもうその声を聞いていなかった。眠ってしまったのだった。

雲の峰のてっぺんにとどまったままのかもめが、ふと海を見下ろすと、真下の灯台の近くに一隻の船がとまっている。めずらしいことだ、とかもめは思う。でも、以前にもああやって灯台のところに船がとまっているを、かもめは見たことがあったような気がした。
 そしてかもめは、湾と陸地を見る。すると、青々とした大地が秋風に吹かれてゆれていて、稲の穂先についた実は風をはらんで大きくふくらもうとしているところだった。

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