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マノーリンはかもめの夢をみる(8/10)

 着替えて町営プールを出ると、強い潮の香りを含んだ風が踊るように吹いていた。リョウヘイは、風に髪を逆立てながらバス停に向かって歩く。泳ぎに疲れた体は重かったが、運動で熱をもった筋肉と水で冷えた肌が、風に撫でられてだんだんに馴染んでいく感触は心地よかった。
 県道のバス停からは海が見えた。強い風のせいか、波が高い。砕けた波頭の飛沫が風にのって舞い上がり、リョウヘイの肌を濡らした。夏の終わりにはよく、こういう風が吹いて、こういう波が海にたつ。リョウヘイは、季節が過ぎ去ろうとしているのを感じた。来週あたりにはもう、海水浴場は寂しくなっているだろう。
 バスの時刻表を確かめると、バスはちょうどさっき出たばかりらしかった。次のバスまでは、かなり時間がある。ならば歩こう。リョウヘイは本の入ったリュックを担ぎ直すと、家のある湾の町へ向かって歩き始めた。次のバスを待った方が早く帰宅できると知ってはいたが、海風を浴びる心地よさは格別で、リョウヘイはいつまでも風に吹かれていたいと思った。幸いにも、日はもう傾いているとはいえ、日没までにはまだ時間がありそうだ。東の水平線は暗くなりかかっているものの、十分に明るいように見えた。
 県道には、歩道がない。路側も、余裕をもって車をよけられるほどの幅はない。だから、リョウヘイを追い越そうとする車はリョウヘイの肩すれすれを走り抜けていく。リョウヘイは道の端ぎりぎりに寄って、路側からはみ出さぬように注意して歩いた。両親からは「県道を歩くのは危ないからちゃんとバスを使え」と言われていたのを、今さらリョウヘイは思い出した。しかし、自分さえ気をつけていれば、そう大きな危険はないようにリョウヘイには思えた。だから、とにかく車道に体を出さないようにだけ気をつけてリョウヘイは歩き続けた。
 海風は強いままだ。その風の中に、ほのかに秋の匂いがした。リョウヘイは、風の吹いてくる方に顔を向けて、髪を逆立てながら歩いた。借りた本を入れた重いリュックは肩に食い込んでくる。背負い紐を少しずらすと、汗の染みとおったシャツに風が当たって、心地いい。リョウヘイはリュックを背中からおろし、手に提げた。風がシャツの中に入って、背中を大きく膨らませる。よし、これでいい。リョウヘイは上半身を袋のように膨らませて風を蓄えながら進んだ。
 竹藪と蜜柑の木の生えた崖を過ぎ、いくつかのトンネルを抜けたところで、さっきまで鼻の影になっていた灯台と、自分の家が見えた。頼りないほど小さく見えるその家が、本当に自分の家なのかどうか分からなくてリョウヘイは目を細めたが、やはりその佇まいは、自分の家に間違いなかった。
 その頃にはもう、あたりは随分暗かった。灯台のフレネルにはもう灯が入っている。家の方に向かうバスには、三度追い越された。早く家に帰り着きたいとリョウヘイは思ったがしかし、リョウヘイは淡々と歩いた。走ればかえって疲れ果ててしまいそうな気がしたからだった。平泳ぎをする時のようにまどろっこしくリョウヘイは感じたが、それでも家は少しずつ近づいてきた。そして、日の入りまで吹く海風がすっかり止んだ頃、リョウヘイは家の玄関をくぐった。その時には、なんだか不思議な心地がした。
「ただいま」
 さすがに叱られるかという気がしたが、リョウヘイが努めていつも通りにそう言うと、いつも通りの声音で母の「おかえり」が聞こえた。玄関には、夕食の味噌汁の香りが漂っていた。食卓のある部屋に顔を出すと、テーブルにはもう夕食が並んでいて、母がご飯をよそっているところだった。父も帰宅している。
「遅かったな」
 父がリョウヘイの顔を見て言った。リョウヘイは「ごめん」と応えた。すると父は、「飯だから手を洗ってこい」と言いながら、広げていた仕事の書類を畳んだ。
 食事を終えて風呂に浸かると、今日一日の疲れがどっと出た。風呂上がりに仏間で横になったままタブレットで動画を見ていると、リョウヘイは寝落ちしかかった。母がお供え物を下げに来た足音ではっと目が覚めた。リョウヘイは、タブレットを片手に提げて部屋に戻り、布団に入った。
 しかし、さっきまであんなに眠かったのに布団に入ると不思議に寝付けなかった。二階の奧にある書斎で何か仕事をしている父の叩くキーボードの音が、やけに耳につく。リョウヘイは布団を出て、父の書斎に入った。
「何してるの」
 そう尋ねると、父はディスプレイのバックライトに照らされた青白い顔を上げてリョウヘイを見上げてた。
「昔撮った写真を整理してるのさ。撮りっぱなしで、全然整理してなかったから。・・・ほら、見るか? これ、小さい頃の、お前だよ」
 リョウヘイはちょっと緊張しながら父の隣に並んで、画面を見た。格子状のサムネイルになった写真がディスプレイ上に敷き詰められている。父がカーソルを動かしてそのうちの一つを選ぶと、父の膝の上で絵本を真剣な顔でのぞき込んでいる、小さなリョウヘイの写真が拡大表示された。
 それから父は、これはいつ頃の写真、これは何をしている写真と言いながら、いくつかの写真を開いていった。まだ生きていた祖父と写っている写真もいくつかあった。そして、画面の中のリョウヘイは、少しずつ成長していって、だんだんに今のリョウヘイの姿に近づいていった。
 リョウヘイはしばらく黙って父の開く写真を見ていたが、なんとなく黙っているのが息苦しくて、「今日は帰りが遅くなってごめん」と言った。すると、父はマウスから手を放して、リョウヘイをまた見上げた。
「ちゃんと帰ってきたんだから、それでいいんだよ。図書館とプールに行ってきただけだろ? 別に悪いことをしてきたんじゃないんだし、それにもう、ちょっと遅くなっただけで叱らなきゃいけないような歳でもないだろ」
 リョウヘイは、鼻先がつんとするのを感じた。そう感じたことを父に感づかれるのが嫌で、鼻をすするのを我慢したら、くしゃみが出た。父が笑った。
「早く寝ろよ。ちゃんと布団をかけてな。死んだヤゴじいちゃんがよく言ってた、腹が冷えると力が出ねえって。だから寝る時は、足と頭は冷やしてもいいが腹は出すなって。分かったか」
 リョウヘイは肯いた。父は、昔よくやったように、リョウヘイの頭を撫でようと手を伸ばしかけて、でも案外リョウヘイの頭が高い位置にあったので届かなかったので、リョウヘイの肩にその手を置いて「おやすみ」と言った。だからリョウヘイも「おやすみ」と言い返して部屋に戻った。
 その後の記憶はない。気がついたら朝で、開け放った窓から早起きのカモメたちの騒ぐ声がしていた。

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