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マノーリンはかもめの夢をみる(2/10)

 仲間の群れをぬけだした一羽のかもめが、翼端から雲をひきながら風の上を滑っていく。くちばしの彼方には白い灯台が建っていて、その虹色のフレネルがぐんぐん近づいてくる。あの灯台は、空の案内標識だ。かもめは灯台のたつ岬の岸壁ぎりぎりのところで尾羽を動かし、水平飛行から上昇に転じる。すると、矢のような彼の体は、銀の鏡のような太陽めがけて、入道雲の尾根を駆け上がり始めた。
 気圧の急激な変化のために、きいんと耳鳴りがする。
 徐々にスピードがおちる。彼は速度を維持するためにはばたきを開始する。あと三〇〇メートル、二五〇メートル、・・・二〇〇メートル・・・。しかし、ついに失速したかもめは、やむなくゆるやかな降下姿勢をとる。ああ、今日も頂上にはとどかなかった。しかし、自己ベストは更新している。それに、まだまだ上れそうな手応えも感じられた。明日はもっと高く飛べるだろう。
 はるか下にひろがる海面には、漁船をかこむ彼の群れが張り付いている。十分高いところまできた。かもめは満足である。しかし、同時に不満である。もっと高く飛べるはずの自分が、まだこの高さにとどまってしまうことが、かもめには喜ばしくない。彼はため息をついて、世界を見回した。青い海と、緑の陸が、湾のある町を通る県道によって半々に隔てられている。これが、このカモメにとっての世界だ。ツバメのようには旅をできぬカモメの、世界すべてだ。この島国の一部をなす、ひとつの湾とその周辺の大地が。

陸の方へ少しくぼんで海の入り込んでいるところが、リョウヘイの住む湾の町で、湾の両端には角のように岬が張り出している。灯台の建っているのは、湾を抱き込んでいる長い岬の方。それは、町からみて太陽の上る方角にある岬だ。県道は、途中から国道へと引き継がれつつ、灯台とは反対のほうにある隣町や、そのさらに先にあるいくつかの大きな街、それからたくさんの小さな町々を数珠つなぎにしている。そして、霞んだ地平へむかって広がる一面の緑は田畑で、今そこは夏を迎えて、溶けたエメラルドのように鮮やかに輝いている。
 湾の町の歴史がいつ始まったかは定かではない。しかし、その開闢から漁師町であったことは確かだ。湾の陸側には崖がせまり、内地とは違って農地にできるような平地はない。県道に沿った細長い町はバナナのような形をしている。湾は南向きで、県道は町の両端にある岬のところでトンネルになっており、そこが町の両端でもある。国道は、東側のトンネルをぬければ県庁のある大きな街につながり、西側のトンネルをぬければ町営の図書館やプールのある隣町につながっている。行政区分上は、湾の町は独立した町ではなく、隣町をふくめたいくつかの集落から構成される自治組織の一部にすぎない。
 小さな町なので、人口も少なく、すると当然子どもの数も少ない。通学の便のために小学校が町の東の端にあるのは、湾の町の意地と言うべきだろう。しかし、湾の町の子どもは中学生になると、隣町の中学校までバスで通わねばならない。私立中学へ進学するとなれば、家族ごと引っ越すか寮住まいをするしかない。辺鄙な土地なのだ。
 しかしそれでも、湾の町には湾の町なりの暮らしがあり、歳時記がある。
 町の湾には、漁港と砂浜があり、町と漁港は湾の入り口にしつらえられた防波堤によって高波から守られている。
 防波堤は、湾の内と外の境界線でもある。町の漁船は、この防波堤の切り欠きから外海に出て操業するのがきまりだ。湾内を移動する船のルートは決まっていて、他のエリアを通ることは許されない。というのも、湾の海は遠浅になっていて、ある程度深さのあるルートを外れると座礁してしまうからである。
 漁船のルートになっていない湾内と砂浜は、ふだんは子どもの遊び場だ。町の子どもはよく泳ぐ。桜の木が裸でない季節であれば、海水に浸かっていくらでも遊ぶことができる。漁師の町の子どもにとって泳ぐことは、生活上欠くべからざることとさえ言えるかもしれない。なので、湾の町の子どもは物心つくとすぐに、湾で泳ぐことと、泳ぐ時に守るべきルールを覚える。ルールと言っても大した物ではない。防波堤の外に出て泳いではいけないとか、漁船のルートに入ってはいけないとか、安全上の簡単なことだ。そして、小学校に入学する頃にはほとんどの子どもが泳ぎを覚え、三年生頃までには防波堤まで泳ぎ着けるようになり、高学年になるとむしろ泳ぎに飽きてしまって、あまり海には入らなくなる。
 とは言っても、公園もないような町だから、子どもが表で遊ぶとなれば砂浜と海ぐらいしか行くところはない。役所と漁協の前にひろがっている小さな砂浜を、湾の町では短く浜と呼んでいて、その浜には年がら年中、子どもが遊んでいる。
 ただし、真夏だけはちょっと話が別だ。なぜかと言えば、世間の学校が夏休みの間だけは、浜に海水浴場が設置されるからだ。七月になると浜では工事が始まり、砂を平したり海の家を建てたりする重機が入る。そして海の家が建つといよいよ、浜の前には四角にサメよけのバリアが張られ、近隣の町から海水浴客が押し寄せる。
 バリアは湾の内側の半分ほどの面積を切り取る。その四角のエリアが、海水浴客の遊泳区域として設定される。このことによって、湾の不文律を知らぬ海水浴客は、漁船と衝突する事故から守られる。だから、バリアによって海水浴客が何から守られているかと言えば、サメというより、漁船である。実際、この湾にサメなどいないのだから。
 リョウヘイが生まれる前のこのバリアがなかった頃に、海水浴客が湾の外から戻ってきた漁船にぶつかって頭を割られたことがあったそうだ。しかしリョウヘイにとってそんなことは、歴史の教科書に載っている戦争と同じで、危険の実感などない。よく考えもしないで、泳ぎの下手な海水浴客が漁船のルートに入ってくるのがいけないのだ、などと考えることもある。
 リョウヘイがそんな風に思うのは、海水浴場が設置されている間は町の子どももバリアの内側で泳がなければならないと大人にきめられてしまうのを憤るからだ。道理としては当然である、海水浴客が泳いでよいのはバリアの内側だけと決められているのに、町の子どもがその外で泳いでいたのでは、ルールにならない。けれど、町の子どもにしてみれば、せっかくの夏、せっかくの海の季節なのに、思い切り泳げないとなれば、いくら理屈が通っていたってつまらないものはつまらない。
 だから湾の町の子どもは、真夏の間だけはあべこべに、よそ者で芋を洗う混雑の浜から逃げて、隣町の町営プールへ泳ぎにいったりする。
 しかし、だだっ広い海で泳ぎ慣れた湾の町の子どもにとって、狭い町営プールはつまらない。二十五メートルの片道だってろくに泳げない隣町の子どもたちに混じって泳ぐのは窮屈だ。でも、湾の町の子どもでも泳ぎの好きな者は、仕方がないので時々町営プールを利用する。そして夏が終わったら、夏の間一度も泳がなかった連中と海に出て、水を蹴る脚がすっかり鈍っている仲間たちをばかにしてやろうと目論んでいる。
 そういう子どもが町営プールで泳ぎたい時には、隣町の町営図書館によって本の貸し借りをしてから町営プールへ流れるのがいつもの順番で、もちろんリョウヘイもそうしている。そして、カルキ臭いプールの水に吐き気を催しながら、湾の町ならどこからでも見える灯台のことを思い出している。
 そう、灯台は湾の町からなら、どこからだって見える。リョウヘイの記憶に残る一番古い灯台は、リョウヘイがやっと物心ついた頃、母の自転車のうしろに乗せられて行った隣町の町営図書館からの帰り、借りた絵本をぎっしりつめた母の背のリュックごしに見た灯台だ。隣町から帰ってくる時に、一番最後のトンネルを抜けると見えた、フレネルからまっすぐな虹の光線を海に向かって投げかける灯台だ。
 灯台は、別に町のシンボルだとか、そういうものではない。あまりにも当たり前に岬の先で光るので、それが特別なものだという意識は、湾の町の住人の誰にもない。しかし、夕方になって灯台に灯がはいると「ああ日が暮れる」と口にしたり、靄のために灯台の輪郭がかすんでいたりすれば「今夜はきっと雨だ」などと思ったり、誰もが心の奥底では、灯台のことを気に留めているのも確かだ。
 湾の町の子どもたちは、灯台にまつわるひとつのジンクスを信じている。
 それは、浜から灯台まで泳いでいくことができたら、何かいいことがある、というジンクスだ。何かいいこと、のその何か、が何なのかは、はっきりしていない。湾の町の子どもに「それは、願い事が叶うということ?」と尋ねれば、きっとみんな首を横に振るだろう。「それは、天国に行けるということ?」と尋ねても、やっぱりみんな首を横に振るだろう。でも、もし灯台まで自力で泳ぎ切ることができれば、灯台のフレネルから放たれる光線がさっと夜闇を薙ぎ払うように、心の中でもやもやしている何かがさっと帳消しになるような出来事がきっと起こる。そういう根拠も結果もはっきりしないジンクスが、この町の子どもたちにはなぜか信じられている。
 本当かどうか定かではないが、リョウヘイを学校で担任している先生のガッキーは、本当は石垣先生というのだけど、灯台まで泳いだことがあるらしい。町のルールで子どもに禁止されていることを学校の先生がするわけはないはずなのだが、この噂もまた、なぜか湾の町の子どもたちには本当のこととして信じられている。そして、ガッキーの趣味で書いている小説が去年の「おらが町」文学賞に入選したのは、灯台まで泳いだからだと、子どもたちだけでなく大人たちもそう囁き合っている。
 もちろん、ガッキーが本当に泳いだのか、ジンクスが本当なのかどうか、それは誰にもわからない。真偽を確かめようとする者もない。灯台について、いくつかの確かなことは、そういう噂やジンクスが存在すること、でもあの海域は暗礁だらけで近寄るには危険であること、噂やジンクスの真偽がどうであるにしてもとにかく防波堤の外に出て泳ぐのは禁止されているのだということ、そして灯台は日暮れとともに点り、夜明けには消灯するのだということ、これだけだ。
 そして、当の灯台はというと、湾の町の人間が何と言おうと、誰の手も届かぬ暗礁だらけの岬の先端で、夜になれば点って光りを放ち、朝になれば黙って眠ることを、秋も冬も春もそして夏も、ただただ繰り返している。

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