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若さ信仰へのラブレター(批評小説、中編並み長さ)

ほったらかしにされ、残された文章と、批評遊び


 ぼくはあちこちで営業するから、そこここに顔見知りがいて、まあタクシー運転手なんてみんなそんなものなのだけど、ろくすっぽ連絡先も、名前すらも知らないような相手と仕事の話だの世間話やらを長々としたりするもので、でも何の前触れもなく姿が見えなくなったなと思ったら、それ以来もう二度と会っていない、なんて人も珍しくなくて、彼女も、そんなふうに突然に姿を消しちゃった。まあ、羽田空港のタクシー待機所で月に一度か二度、顔を合わせたときに話す程度の間柄だったしなんてことない……はずだったんだけど、彼女は姿を消す前に、ちょっとした相談を持ち掛けてきていて、だからこっちはその返事をけっこうな時間を費やして用意したっていうのに……まったく。
 女という動物は自分から持ち掛けてきたくせに必要なくなると平気でほったらかしにするから困る。確かぼくよりも二歳年上だといっていたから五十五、六歳だと思うが、少しはお姉さんらしくしてくれたっていいのに……。まあ、女のそんなところは年齢とは関係がないんだろうけど。

 彼女は浅草の出身、だからか樋口一葉に心酔していた。バツイチで、元旦那さんが「ほんっっとに生活力がないヤツでさぁー」とかで、だから一人娘を引き取り、でタクシーにたどり着いて、「もう必死よぉ~」と会ったころは言っていたんだけども、最近は、「やっと娘も社会人になったからさぁ~。よーやく自分の時間が持てるわ」と喜んでいるところで、……まあ、そんな程度の情報で仕事のことや世間話を適当にしていたんだけど、でもその相談事で、もう少し彼女のプライベートを知ることができた。連絡先は次に会った時に聞こうと思っていたところだったので……もう言ってもしょうがないけど。
 相談事というのは、彼女の書いた文章についてで、何やら、「別に出版なんてしなくたっていいんだけどさ。タクシーでやってきたことを本にしたいんだよね。ブログとかじゃなくて」と話すので、だからぼくが「本を出版したことあるんだよ、オレ」と言ったら、「どんな? 貸して!」という流れになって、でそれを返すときに自分の書いたものを一緒に持って来て、「他にもまだ書いてあるんだけどさ、これはねプロローグ的なところなの……」と言っていたが、原稿用紙にしたら五、六枚程の短いものを手渡され、「とりあえず読んでから。それでね、いろいろと聞きたいんだけどさ……」ということだった。

 彼女がその時一番知りたかったのは、「どうやって出版社に話を持って行ったのよ?」というような出版社へのアプローチのところだったので、ぼくは当時のメールを掘り起こし、断られたり断ったりした事実を具体的に紙に印刷してまでして返事を用意した。そして、同じ道をたどろうとしている彼女を他人事とは思えなかったから、その文章も何度も何度も読み返して、その感想だの意見だのいろいろと考えていて……だってのに、全ては不必要なものになってしまった。
 だからこの際、その流れの続きを文章に表して、無駄になってしまった時間を取り戻そうと画策するのも悪くない。彼女に感想を届けるという目的は叶わなくなってしまったが、彼女からそれまでに聞いていたことや、ぼくの想像なんかを接続して、その文章の内側にいる彼女自身を鑑賞して楽しんでやろうではないか! 男は、女のする化粧やファッションをしっかりと見つめなければならない、とは持論であるが、彼女の書いたそのプロローグ的な文章とやらには「若さ信仰」という題が付いていたけども、それはある意味、彼女が表現したいコンセプトなんだろうし、いってみれば彼女の思想を彩るファッションみたいなものなのだろう。だからそれをぼくがじっくりと見て、そしてそれをどんなふうに表現したって文句はないはずだ。できれば彼女にだって読んでもらいたかったけど……もう会えないっぽいから仕方ないし。

 まあ、彼女とした会話を思い浮かべたり、内容に関連する自分の経験を振り返ってみたりしながら、誰にというわけでもなく、でも誰かに話しているようなつもりになって目的を果たしたい。おそらく、彼女が原稿をぼくに渡す時に見せた、思いのたけやら、言い訳やら、恥ずかしさやら、褒めてほしさやらを話す、あのしどろもどろの姿が、「若さ信仰」とかいうものと重なるんじゃないかと思うんだけど……


文章 1/4 《プロローグ的、はじまりの部分》

  

  若さ信仰

中央フリーウェイ 調布基地を追い越し 山に向かって行けば
        黄昏が フロントグラスを 染めて広がる
中央フリーウェイ 右に見える競馬場 左はビール工場
         この道はまるで滑走路 夜空に続く 夜空に続く……」
 
黄昏時じゃないけれど、真夜中の中央道、この歌詞の、この場所を通る私は、中学生の頃に逆戻りする。口ずさむだけで……

 わたしはタクシー運転手なのです。女なのに。最初、こんな仕事なんて一刻も早くやめちゃいたいって思っていたのだが、一年経ち、二年経ち……もう慣れちゃって、今では他の仕事なんて考えられないほどなのである。もう七年目。
 でもそんなことが言えるのも、男どものおかげなのであった。だって、お客さんも、同僚も、管理職も、なんだかんだいっても女には甘くって、失敗しても、お願いしても、それを許してくれるんだから本当に助かった。女のタクシー運転手ってまだまだ少ない。
 しかし、許せないのも男どもだ。まずお前ら! わたしを「お前」って呼ぶな! ……というのは冗談だけど(半分は本当だ)、でもどうしてみんなわたしを見下すのか。女だからか? それとも、オバサンだから? どちらにしてもわたしを見下すのは間違っている。どこが間違ってるのか? それを一言で説明ができないから、これまでにこの職場で出会ったそんな出来事を紹介して、その上で、どこが間違っているのかをしっかりと証明したいのです。真実のためにねっ!
 まずは自己紹介をしなければならない。

……と、これから自己紹介に入っていくわけだけど、彼女はこんなふうに書き始めていた。最初のくだりはユーミンの唄の歌詞で、まあ最後まで読むと、「ああ、だからか」とわかるようなものだった。もう何度も読み返しているので、あらためてその歌詞に目を向けるとそのときの感情が浮かんでしまうので、ここはひとまずスルーするとして……確かに、女の人がタクシーを仕事とするには、大変なところもあるだろうけども、甘やかされている部分も多いような気がする。
 正直な話、ぼくは女の人にはあまりタクシー運転手をして欲しくなくて、それは、女の人に仕事自体してほしくないからだ。「女は黙って家にすっこんでろ!」とかそんなんじゃないけど、仕事とは、誰かのために「してあげる」もので、女は、「してもらう」のがいいんじゃないか、という考えを基調に持っているから。でもまあ、今の時代にてらせばそんなことも古い考えなんだろうし、「したい」といってるんだからそれを「させない」なんてナンセンスだし……でも、そもそも女の人は、強い立場から男に仕事を「させてた」ってわけなのに……。まあとにかく、うまく説明はできないけど、「女の人はタクシーなんてしなくていいのになぁ」なんてぼんやりと思っている。

 とはいうものの、目の前に仕事をしている女の人がいたら応援したくなるのも男の性で、ついつい仕事について何かと教えたくなっちゃうんだけど、そんな男の態度が彼女には「見下している」と映るのかもしれない。けど、タクシー運転手ってコミュニケーション下手が多くて、だからタクシー運転手になった、なんてところもあるんだけど、よく言えばシャイで、シャイだから上手に話すことができなくて、そんなシャイな変人がこのような職場に長くいたりすると、女の人と接することも少ないわけで、でもたまに身近に女の人がいたりすると、たまにだからこそ気持ちも高ぶってしまうってもので、恋心に火がついたり、その女の人と話している他のオッサン運転手がいれば過剰なジェラシーを燃やしたりするし、その女の人にだって突然プロポーズ! なんてことだって何度も耳にしたことがある。彼女からも実際に聞いたんだけど、「バラの花束をもらったんだけどさ~。冗談じゃないわよ~」とテレて言っているわけでは全然なく、普通に気持ち悪そうに話していた。

 女性の多い職場ではそんな現象はあまり起こらないだろうけども、ものの価値の大半は相対的に発生するもので、美人がたくさんいたらあまり美人と感じることが少なくなる現象と似て、太っていようがガリガリだろうがオバサンだろうがクソガキだろうが、女でありさえすればもてはやされるのがタクシー業界の常識といえるのかも。まあそんなことを言ったら彼女は怒っただろうし、そもそも、タクシー運転手にモテたいなんて目的で業界入りする人はいないだろうけどもね。

 まあ、この文章でいう男女間の損得とは、恋愛とは別なことなのだけど、幾ばくかのそういう色恋に似た感情が影響しているのも確かだ。同じ条件のもと働く男どもと比べたら得な立場に女があるのは事実だろう。
 只、彼女は強くて、「なるべく女を理由に出したくないんだよねぇ~」なんてことをいつも言っていて、「平等に男と対抗して勝ちたいのよ!」という気持ちが強い人だった。売り上げについても実際にそうだったし、「お前ら! わたしのこと『お前』って呼ぶな!」という言葉は冗談なんだろうけども、そもそも彼女には「お前」とは呼びづらい雰囲気があって、ぼく個人的にはそんな呼び方はありえなかった。
 只、そんなこといったって彼女には女らしさが過分にあって、髪なんかは長くて結ばずにいつも下ろしていて、化粧もすごく丁寧にしていた。そんな気持ちを逆なでするようなタクシー運転手の女性用の制服がすごく痛々しかった。彼女は、自分のことを「もうオバサンだからさ~」とよく口にしたけども、若いとかどうとかとは関係なく、そんなこと言わなくたっていいのにな、と感じていた。良くも悪くも女らしさの強い女の人だった。
 では、「まずは自己紹介しなければ~~」の続きを……


文章2/4 《自己紹介と、浅草と》


 わたしはバツイチ女タクシー運転手。年齢はあえて書きませんが、みんながオバサンと思っても「オバサン」とは言いづらい年代である(笑)。前職はある大手の運送会社で事務をしていて、でも大学生の頃は国語の教師になりたかった(八王子の高校に教育実習まで行ったけど)。が、自分には向かないと気づき断念。中高生の頃は真面目っ子だった。それはその時の親友がそうだったからだと思われる。異性に対しては奥手で、でも男の子のことばかり話していた時代だった。小学生の頃はやんちゃだったらしい。でも高学年になると両親が離婚して、父のことが大っ嫌いになってしまって、それがその後の真面目っ子な時代に繋がった理由だとも思われる(普通逆?)。
 そんな少女時代を東京の下町で過ごし、今の仕事でも浅草を中心に走っている。わたしは浅草に誇りを持っている。それも父の影響だったかもしれない。町内の顔役だった父はお祭りではいつも目立っていて、わたしもそんな浅草のお祭りをすごく楽しみにしていた(口紅を塗ってもらう時の快感が今でも強烈に記憶に残っているの!)。この街の情緒をわたしの生活から切り離すことは決してできない。そんな過去が、「わたし」という人物を造ったようである。社会に出てからは、のんきに過ごしていたかと思ったら、急に超苦労して、そしたらまた、のんきに戻れた。どうしてタクシーに乗るようになったかはこれから追々話すとして(笑っちゃうかも)、わたしの見た、世の中の男どもの勘違い、理不尽、不思議(?)をこれからここに記したいと思います。
 まず第一回目は、やっぱり世の中の男どもの若さ信仰についてだろー!
 

……さて、「若さ信仰」という題が否定的なことだということがわかり大いに気になるところだけど、ここはひとまず自己紹介について見てみたい。とはいっても、彼女の言い回しはとても軽やかだから、深く読み込むのはかえって邪魔になりそうだし、現代的な下町っ子をただ頭に浮かべて読み進めた。でも、実際の彼女は、チャキチャキしたところはあったけども、それを気取って下町っ子ぶるようなところは全然なかったから、浅草に対してそんなに強い思いがあったなんて、ちょっと意外だった。
 浅草は、ぼくにとってあまり重要な街ではなくて、だから何度もお客さんを乗せて足を運んでいるっていうのに、街の様子がパっと浮かばない。まあタクシーの運転手としては長い方だからお客さんにその辺りの行き先を告げられれば常識を外れない程度にコース取りできるけども、下町に漂う江戸情緒を説明するなんてことはとてもできない。だというのに一度、中国人カップルを案内しなくちゃいけない羽目に会って焦ったことがあった。そのことは彼女にも話したんだけど……今となっては思い出の一つとなってしまった。

 よく行くホテルに並んでいた時だった。よく話をするポーターが、まだ順番じゃないぼくのところにやって来て、「二名様お願いしたいんですけどいいですか?」と言ってきて、個人タクシーを希望するお客さんだと思い、「よし来た!」と意気揚々と正面玄関に車を向けた。こういう仕事はタクシーチケットとかの役得なことが多い。
 そこには三人の男女が待っていて、コロコロのトランクを持った若い男女二人が乗るようだった。荷物を載せようと車の外にでると、年配の手ぶらの男の人が駆け寄って来て、「いやぁ~、お呼びしてすいませーん! 個人タクシーの運転手さんはみんな経験豊富で優秀な方ばかりだからホテルの人に言ってお願いしたんですよぉ~」なんて調子よく言ってきて、この時ぼくもうっかり「ええまあ」みたいな顔しちゃったもんだから悪かったんだけど、「浅草辺りのね、名所の幾つかに連れてってあげてほしいんですよ、この二人を。今回初めて仕事で日本に来たんですけどね、もう忙しくってねぇ~。どこにも行けずにもう帰さなくっちゃいけなくって……あっと、もう時間もないんですわ。羽田まで十時に着けば間に合いますから……」なんて具合に頼まれて、断る言葉が見つからなかった。
 時間は二時間ほど。その年配の男の人はすぐに立ち去ろうとするから、せめて少しは責任を負わせてやろうと思い呼び止めて、具体的にどの名所に行けばいいか決めてもらおうとしたんだけど、「そりゃあもう、運転手さんにお任せしますよ。わしは大阪人ですさかい、ようわかりまへんのですわ。大ぃ~丈夫ですわ。写真の2、3枚も撮れたらそれで満足しますやろから! じゃあよろしゅう」なんて急に調子よく関西弁になりやがって……、だからもう、ニコニコと笑いながら待っている若い中国人二人を苦笑いで迎え入れた。
 まあ、二時間しかないんだから雷門の辺りに車を止めて、後は二人で浅草寺を自由に写真でも撮りながら観光でもしてもらって、そうすればもういい時間だろうと考えていたんだけど、道中話がはずんじゃって、まあ会話はぼくの出鱈目な英語と彼らのスマホに話し掛けるタイプの中英翻訳アプリで画面を見ながらのヘンテコなコミュニケーションだったんだけど、でも、だからか盛り上がっちゃって、「あなたも一緒に行きましょうよ!」みたいなノリになっちゃった。でも車の中だったら恥ずかしくもない出鱈目な英語が外だとそうもいかず人目が気になるし、赤面している分余計に変な英語になっちゃうし、車も路上に止めっぱなしで気になったし、でも二人を楽しませたいし、成り行き上テンションは下げられないし……そんなこんなで、もう十二月だっていうのに汗だくになってしまった。
 飛行機の出発時間も気になるし、目の前がぐるぐるし出して、でも、もう一箇所どこかへ行く時間があったから、どこかいいところないかな、と考えたら、力士ののぼり旗がはためいている両国国技館の光景が浮かんできて、相撲は知っているか聞いたら「大好きです!」と答えるので、今は場所中じゃないからなんてことは少しも考えずに向かってしまった。
 まあ相撲は江戸時代のままが今でも行われている数少ないものだし、これ以上のレアものもないだろうと自信満々に近づくと、そののぼり旗はズラリとパタパタとはためいていて、二人も「おおっ」と声をあげた。まあ夜だからその雰囲気はないけどもインスタ映えは間違いないだろうと思い、二人をその前に立たせて、国技館をバックにぼくはしゃがんで下から二人を見上げて色とりどりの旗がしっかり入るように撮って、で二人に見せるとなんだかすごく喜んでくれた。その雰囲気に飲まれてその時はまあ別に平気だろうと思えちゃったんだけど、今思い返すと、そののぼり旗の文字が全部「さだまさし」だったのは、何か嘘をついたようで今でも気になっている。年末のコンサートか何かだったみたいだけど……

 この話をしたとき彼女は、「さだまさしはマズいっしょ~」と最後には笑ってくれたけども、最初は「個人タクシーさんはいい仕事が来てようございますわねー」と嫌味交じりだった。だからこっちも、それを挽回しようと一生懸命面白おかしく、あることないこと織り交ぜて笑わせようと頑張って、おそらくその頃から少し心を許してくれるようになった気がする。確か名前もこの時初めて聞いたような。あの時、最初そんなふうに不機嫌だったのが、バカになってお道化られたきっかけだったろうけども、男はやっぱりバカがいい。たぶん、利口よりもバカの方がモテる。まああんまりバカだと他人に紹介もできやしないからダメなんだろうけども、うまくバカを出せる男の価値は高いのかもしれない。だから今、お笑い芸人がもてはやされるのだろう。まあ簡単に他人を笑わせることができたら苦労はないけど、その時はたまたまうまくいって、そしてそれから、顔を見たら笑い掛けてくれるようになったんだから、この話がなかったら、ここに至る流れは存在しなかったはずだ。
 でもさて、女のバカはモテるだろうか……まあカワイイところもあるかもしれないけど、それは男の都合によるもので、やっぱり女がバカを演じるのは似合わないとぼくは思う。文章を作るのに男も女もないけども、彼女の文章は、「~~わたしの見た、世の男どもの勘違い、理不尽、不思議(?)をこれからここに~~」などと書いてあるんだから、この文章の属性は女だし、この先、文章でお道化ることが難しくなるんじゃないか、という一抹の不安が心をよぎった。あと、「わたしは浅草に誇りを持っている」という言葉もちょっと堅い気がするし。でもそんなことを感想として言ったら怒っただろうな、きっと。
 そういえばぼくは、浅草をバカにしたような話を彼女にしちゃったことがあったんだけど、あの時もおそらく心中穏やかじゃなかっただろう……
どうもぼくは浅草に白々しさを感じてしまうんだけど、それは、雷門とか仲見世通り辺りの外国人や観光客を相手にしている店や人力車などがかもし出す、ある種の偽物感で、本当に残っている文化ではなく、観光のために作ったってだけなのに、それをあたかも今の日本を紹介しているかのような、あの商売っ気から来ている。まあ、只の個人的な印象なんだけど、それを街全体に結び付けてしまっていて、ひいては全ての江戸情緒みたいなものを否定してしまっているところがある。でそれを調子に乗って彼女に話しちゃったことがあったんだけど、ちょっと気になる。本当のところどうなのだろうか。ちょっと気になるから電車に乗って行って確かめてみようか……時間は山ほど持ってるし………………

 ……というわけで丸一日つぶしちゃったけど、浅草は、色眼鏡を外して歩いてみたら、けっこうなかなか、すごく面白い街だった。
 確かに世界各地の観光名所にありがちな嘘っぽさは歴然と見られるけども、それとて、そこにそれが残る所以によるものだし、何よりも強く感じたのは、江戸時代の遺物なんかにではなく、それらの歴史が、明治、大正、昭和と連綿と継がれていくその様子にだった。小さな蕎麦屋とか草履屋、劇場やお寺などを背景に、文明開化を迎え、大震災や戦争を潜り抜け、高度成長期を喜び、ゆとりの時代を楽しむ、ここに暮らす人と訪れる人によって閉じ込められた、ここにしかないレアな空間がそこにはあった。観光名所という立場がなければ残ることはなかったろうし、観光客をだまくらかそうという商売っ気が街を保存するのに一役買ったのも間違いないだろう。歴史は、あえて残そうと尽力しなければ残らないもので、でその残そうとした姿が現在の浅草なのかもしれない。まあ、長い歴史の中でも今は外国人観光客がピークだし、より偽物感はすごいけども、見るべきものは経過中の時間だと思えば現在の混雑も面白く目に映る。
 途中、浅草演芸ホールというところがあったので入場料を払ってのぞいてみたんだけど、そこにもやっぱり浅草の空気は継続していて、そんな浅草の特徴が演じられていた。ついつい長居してしまったが、そこには女のお笑い芸人も多くいて、でバカを演じていたけども、面白くて大笑いしてしまった。女はバカを演じるのは似合わない、という考えは変わらないけども、女にも、男を演じることができるようだ。ともかく、おかげで変な先入観を払拭できたし、もう何度も読み返したこの文章にもまだまだ新しい発見があるかもしれない。
 自己紹介も終わり、「第一回目は、やっぱり男どもの若さ信仰にについてだろー!」といよいよ彼女のいいたいことの核心部分へ、ということになったわけだけど……


文章3/4 《若さ信仰?》


 まず第一回目は、世の中の男どもの若さ信仰についてだろー!
 別にこれは、わたしがオバサンだからやっかんでるってわけでは決してない。だって、わたしだって若いことのすばらしさはちゃんとわかっているんだから(涙)。だけど、若いからって只それだけでいいと決めつける現在の風潮が許せないのである(特に男!)。しかも! わたしのような立場の人間がそのことを指摘すればさらにその風潮は膨らむような気がするから、なおさら腹が立つのだ(爆)。
 そもそもわたしは、女だろうが男だろうがそんなことには関係なく、若さのみを信仰することに疑問を持っているのである。だって、若いっていうことは未熟ということで、経験不足で、さらに言葉悪くいえば、「バカさ」みたいなことなんだから。
 でもなぜ? どうして男たちは、そんなバカさに盲目なのか。
最初わたしはビックリした。だって、いくらお酒を飲んでいるからって、こんなにあからさまに他人(わたし)の目の前で、恥ずかしげもなく自分をさらけ出せるもんだ、と。よくもまあ自分のナリを棚に上げて、おめでたい態度に出られるのか、と。女の子はあんたのことを騙そうとしてるんだよ。でなきゃあんたなんかに好意があるわけないじゃない、と。それをどうして本気と受け止められるのか、と。
 わたしだからわかるってわけじゃない。女になら誰だってわかる。嫌だけどしょうがなくそう言ってるだけなの。何のために? 仕事のためだよ。お金のためよ。自分のスタイルを守るためよ。しょうがなくなの。女なら誰だってわかるよ。それをまあ、「デレデレと真に受けちゃって、ホントにバカ丸出し!」というのがわたしの見解なの。だというのに、照れ隠しなのか何なのかよくわからないが、「ねぇ運転手さんもそう思うよねぇ~」なんて、わたしに言葉を振るんじゃないよ! というわかりやすいサンプルがこの間ありました。
 そのお客さまはナント! わたしに向かって、「運転手さんはもう女としては終わったかもしれないけどさ……」などとおっしゃいました。……ご安心ください。わたしは、呆れはしましたが少しも怒ってなどおりません。だってそれは世間の男の若さ信仰のあらわれであるし、タクシーの中は世間の縮図なのでありますもの。そんなことでいちいち怒ってなどいたら女タクシー運転手などとても務まりませんから。
 わたしにも覚えはありますが、女のする「バカさ」って意図的にしているのです。そういうものなのです。それを気づかないのが一番愚かで、それがその時のお客さんで、その具体的な話を書きたいと思いますが、次回に「つづく」とさせて頂きとうございます。今回は最初なので気分よく終わりたいから、あしからずということで、夜・露・死・苦!

 と、この「プロローグ的な文章」は、まだあと少し別な話で続くんだけど……けどナント! ここまでの流れは次回に持ち越されてしまった。一体お客さんはどんなバカな「若さ信仰」をさらしたのか、もう次の文章が手に入らない今となっては、全ては藪の中へ。
 でも確かに、初回にしては激しくなり過ぎな感じもするし、これからこの本全体を読もうとしている人たちのことを考えれば、ここでクールダウンするのは得策なのかもしれない。それに、次に続く彼女の文章もまた本全体の雰囲気を十分に匂わせるものだったから、まさにプロローグともいえるし。でもここは、若さ信仰について、少し。

 あまり考えたことなんてなかったけども、確かに彼女のいうとおり「若さ」とは未熟ということだ。経験不足だから失敗も多いし、間違えるんだからバカだといえなくもない。
 只でも、まだ伸びしろがあって、それにハツラツとしたものを感じるし、失敗することを恐れずに挑戦してこそ思いもよらない大きな成功を収めたりするし、それにまた、若さゆえの失敗は美しくさえ映る。まあ見た目についても、未発達なところを若さと呼ぶんだろうけど、それを美しいとかカワイイとかの基準としている人も多いし、それでなくても女性の場合特に、たくさんの人の目を引こうという過剰な美意識までが加わるんだから、「若さ」を見る側の人がそれになびいてしまうのも仕方ないところでもある。
 ……でも、「老い」ということもまた悪いと決めつけたものでもないんじゃないか。歳をとるということは、死に向かって劣化していくことだと決めつけているから、だから若さに対して羨ましく思えてしまうんだけど、死を悪いことだとしなければ、余分なものが段々となくなっていくだけのことだし、人間は誰もがいつかは死ぬんだから、善き死を迎えるためには、そういうものに素直に従っていくのが望ましいわけで、その余分なところこそが「若さ」という悪いところだと見ることもできる。
 ……とはいっても、死にたくないと思うからこそ生きられるってものだし、「若さ」とは、なかなか捉えどころのないものだ。まあ彼女も、「若さ」などというものを眩いと認めながらも、年齢さえ若ければそれでいいと思っている人が多くて、それを滑稽に思って、そんなところを「若さ信仰」と揶揄しているんだろうけども、よくわかる。
 彼女のいう「わかりやすいサンプル」がどんなものだったのかは藪の中だけども、ぼくにもそんな「若(バカ)さ」を悪く表すサンプルがこの間ありましたので、ここに記したいと思います。ちょうど下町の方での出来事だったし。

 夜の九時頃だったか、台東区上野の辺りでお客さんを降ろしていた時だった。その時はたまたまその辺りにタクシーが少なかったみたいで、お客さんらしき人が何組もキョロキョロと空車を探している雰囲気だった。
 乗っていたお客さんがまだ会計をしている最中だっていうのに、大学生っぽい一団がぼくのタクシーを取り囲み「一台確保ぉ!」なんて叫んでいた。「何言ってんだ。お前らなんて乗せねぇぞ」なんていう意地悪な気持ちも湧くところだけども、でも仕事だし、仕方なくドアを開けたまま確保された。一人が、大袈裟に前に立って両手を広げて塞ぎやがって、「現実はお前らのためだけにあるわけじゃねぇんだぞ!」と説教をしたくなるのを抑えて、でも素直にはなれないから挨拶はひかえた。
 なかなかタクシーが捕まらなくて二次会の会場への時間が遅れてしまっている様子で、「まずは幹事から先に行け!」「かたじけのうござる!」なんていう、こっちが恥ずかしくて周りを見渡すようなセリフとともに、男三人女一人が乗ってきた。「本郷三丁目の駅まで大至急!」なんて言って、飲み会を取り仕切るのは大変だゼ! とばかりに助手席に座った男はガクッとうなだれた。後ろに乗ったトッポジージョのような顔の男が、「お前はよくやった。今は休め!」なんて真顔で言って、ぼくはそれよりも、こっちの方はあまり詳しくないから、本郷三丁目なんていう地下鉄の駅は出口が複数あるし、どの辺で止めればいいのか勝手がわからず、「本郷三丁目のどの辺りですか?」と尋ねたんだけど、小芝居でうなだれているヤローに「駅って言ったでしょっ!」と叱られた。
 ぼくはこういう世間知らずにはやんわりと諭す方なんだけど、どうせ四、五分で着くんだし、勢いにも押されて、「ハーイ」という嫌味な返事をするにとどめた。でもコイツらの勢いは止まらず、後部座席のトッポジージョじゃない方の目立たなそうなメガネの男が「んあぁあー気持ちわりぃ~」なんて言い出しやがって、トッポジージョは「わかる!」なんてわけわからない返事をするし、真ん中に座ったわりとカワイらしい小さい女の子が、「運転手さん、ビニール袋はどこですか!」なんてこっちには迷惑なものを有ると決めつけて言うから、有ったけども「ないよ」とぞんざいに答えた。するとメガネが「心配するな……」なんてかすれ声で大袈裟にほざいて、チビ助は「運転手さん、こういうこともあるんだから、ちゃんと用意しておかなきゃダメですよ」なんて、子供のくせにお母さんのような口調で言ってきて、……ぼくはもう何も答えなかった。
 彼らは、「我ら落研は……」なんてことを連発していたから落語研究会なのだろう。でその行き先の本郷三丁目の居酒屋らしきところもよく使う店みたいだったから、たぶんすぐそこにある最高学府の大学生だと思われる。まあそんなタイプに見えた。おそらく彼らは、小、中、高と教室でみんなを笑わせるような役割はなかったはずだけど、その時に、みんなの前ですべって恥ずかしい思いをした経験を積まずに今お笑いをしようとしていて、そんな経験不足を理屈で乗り切ろうとしているふうだったが、そんな人間たちがフレーズだけを真似したところで笑いが取れるわけがない。ほんの四、五分のことだったけども、面白くもなんともない面白ワードを繰り返しやがって、ぼくにとってそれがどれほどの苦痛だったか。彼らが今一番勉強しなくちゃいけないことは、「世の中には他人がいる」ってことを知ることなのではないだろうか……
 助手席で疲れ切った演技をしているヤローが「ココで!」と突然叫んだので止めると「支払いは頼んだ」と告げ、トッポジージョが「ガッテン承知の助っ!」と真剣に答え、ヤローはドアを開け飛び出す……が、シートベルトを外してないから引っ掛かって、それこそ笑いにつなげるところだっていうのに経験不足なので気づかず、只落ち着いてシートベルトを外して仕切り直して飛び出した。後ろの三人が、「四で割るけど今は三だから一人三百二十円な」とかと話して、トッポジージョが「俺がとりあえず出しとく」というと二人は「了解!」と声を揃えて、トッポは五千円札と端数は七十円なのに十円玉二枚を出した。二人は飛び出し、トッポはお釣りを待っていて、でもぼくは、算数の方が経験不足であれだから、騙されてお釣りを多く払わせようとしてるんじゃないか、とか余計なことが頭に浮かんじゃうし、幾ら渡せばいいのかわからなかった。でもトッポジージョは「あっ、六百円は百円玉で!」と助け船をくれたので、普段はそんな希望はあまり素直に受けないんだけど、余計なことは言わずに、三千六百五十円を堂々と渡した。亀の甲より年の功だ。
 ぼくが「忘れ物しないでよぉ~」と促すとトッポは「がっ……承知ぃー!」とガッテンを言いそうになるも、でも威張りたいもんだから「の助」も省いて変な言葉でいうので、ぼくは咄嗟に「さむいわっ!」と返してやった。トッポは即座に「すみません」と素になって反応したが、ぼくは言わなくてもいい、青いことを言っちゃったと自己嫌悪した。ぼくもまだまだ若いみたいで、今こうして振り返ってみると、けっこう言わなくてもいいことを言ったり、態度にも表してしまっていたし、まあ「若さ」って、やっぱし「バカさ」なのね。

 みんな、いいものだと信じ切っているけど、「若さ」とは決して褒められるようなものではないってことはよくわかった。でもそれでも、羨ましく思ってしまうのはどうしてだろうか。まあよくわからないから、そんなものだとするとして、でもそうすると、「わたしのような立場の人間がそのことを指摘すればその風潮は更に膨らむような気がするから尚更腹が立つのだ(爆)」と繋げたのは、ストレートにはいわずに、ちょっと自虐を絡めてうまく表現している。他人に自分の意見を伝えるためには一歩へりくだった方がすんなりいくような気がするが、そういえば現実の彼女も大人だった。彼女はよく、アイドルや女子アナのバカさ加減を言いにくそうに批判していたけども、ズバズバと言ってしまったら反感を与えてしまうし、そしてそれが自分への攻撃のきっかけとなりうることも考えての仕草だったように思うけど、相手のことを意識して、でも自分も大切にした実にいい表現だ。
 ……なのに、世の男どもの中には、そんなふうに気を遣っている女の人に対しても、容赦なく普段男同士でしている会話を押し通したりする人がまだまだいて、彼女のタクシーに乗った「若さ信仰」のお客さんはその典型的な例だった。まあ、「俺は客なんだから」というふうに自分を高みに置いているから気づきにくいんだろうけど、相手をまったく見ていない。だから、男同士でする会話の常識が全てにおいて通用すると勘違いしてしまうのだろうけども、実にみっともない。男の間でされる女の悪口って、女のいないところでしてはじめて面白く成立するものなのに、あたかもそれが共通の真実であるかのように発言をするのは、今や社会は女の方が押している状況なのにどうかしていると思う。

 男の世界が全てだと思う浅はかさって、女の人が聞いたら面白く思わないのは当たり前だけど、まともな男が聞いたって同じで、時には腹さえ立つものだ。実は彼女が姿を見せなくなる少し前に、彼女のことをバカにする運転手(男)がいて、その時は男だけで話していたとはいえ、その物言いにはちょっと過ぎたものを感じた。こういうセンスが男の立場を悪くしているような気もするんだけど、女性と平行な目線で話したことがないという経験不足が起こした「若さ」だと捉えることもできる。奇しくもその男は、「もう女としては終わってる」という同じ言葉を口にしていたのだった。

 彼女と話した唯一の場所羽田空港のタクシー待機所には滅多には行かないんだけど、ものすごい台数が順番待ちをしていて、かなり時間が掛る。だから暇を持て余して、他の運転手と話し込んでしまうんだけど、その男は、ぼくらが話していると、白々しく、これ見よがしにキョロキョロと彼女がいないのを確かめる素振りをしながら寄って来て、「この前さー、○○交通の女いるじゃん。偶然客として乗せたんだけどさー」なんて具合に唐突に話しに割り込んできた。
 顔を見たことはあったけど、口はきくのは初めてだった。ちょっと図々しい感じで、あまり空気を読めるようなタイプではなかったが、まあでも、タクシー運転手同士というのは、最初はとりあえず話し相手としてフランクに受け入れるのが常だから、そこに居合わせた運転手たちはとりあえず耳を傾けた。その男が車から出て他の運転手と話している姿なんか一度も見たことがなかったけど、よほどこの事を話したくて仕方なかったのだろう、こっちの相槌も待たず高揚して、そして何故か、うれしそうに彼女のことをけなし出した。
 その男は彼女と面と向かって話したことはなかったので、彼女の方は自分のことを知っている運転手だとは気づかなかったらしいんだけど、男の人と一緒だったそうで、それはどうやら高校時代の同窓会の帰りだった。でその時に彼女は「先生」と呼ばれていたということだったが、彼女は先生として参加していたようだった。
 最初からぼくらは少しうんざり気味だった。それでもまだペラペラと「あれは降りた後に間違いなくヤルな」とか「いい歳こいてよー」とか一方的に話すもんだから、そこにいた一人が「別にいいじゃねーかよ」とつっけんどんな態度をとって、そしてまた一人が「あの人はオレらの仲間なんだからよぉ。何で悪く言うんだよ」と突き放した。ぼくも、冷めた顔を作って無言の「もうどこか行けよ」で男の顔をまじまじと冷たい視線を送った。
 男は、ぼくらが同調してくれるものだと決めつけていたようで、だからその意外な反応に言葉を失って、「……いや別に、あったことを只話しただけなんだけど」なんて言いながら頭を掻き、すごすごと自分のタクシーに戻って行った。
 その空気を読めない男の話では、乗って来た時に彼女たちは、普通の職場の同僚のような雰囲気で、でも車内で元生徒の方が酒の勢いを借り「オレは先生のことが好きだったんだぁ」なんて告白めいたことを言って、会話は段々と思いもよらぬ展開に進んで、「今でも先生は特別なんですよ、女として」なんてふうになったらしいんだけど、彼女だってそんなことを言われたらうれしいに決まっているし、それを表情にあらわして何が悪いんだろうか。それをあの男は、「あのオバサンさ、最初は冗談だって受け止めてふざけてたくせに『冗談だったら怒るよ!』なんて真剣になり出しちゃってさ」「もう女としては終わってるってのによぉ~」とゲスなことを言っていたが、ゲスな人間は話す相手も同じゲスな考えを持っていると思い込んで喋るから困る。誰もが自分に同調すると思ったら大間違いだ。

 ……まあしかし、程度は別としても、ゲスな考えというのは誰の心の中にもあるものだし、相手のことも、自分の思うようにしか思えないのが人間なんだけども。そして、その出来事を彼女に話さなかったのは当然のことだけども、何か、ほんの少しだけ後ろめたさが残り、彼女を見る目線にも少なからずその影響が出たのも事実だった。別に何を裏切ったわけでも何でもないのに……
 その出来事から間もなく、彼女からこの文章を預かることになって、彼女は先生ではなく教育実習生だったと繋がったりしたけども……でも、なるべくあの男の話は思い出さないように努めた。現実と作品の間には溝があるものだ。彼女の作品の主人公は彼女だけど、その主人公も知らない陰口が現実にはあって、ぼくはそれを知っていたというだけだ。
 只、彼女は、そんなことには関係なく文章を進めていて……だからだと思うんだけど、そんな所作がかえって無邪気に映って、ちょっとだけ心が動揺して、そんな現実と作品の隙間に「切なさ」みたいなものが生まれたのか、彼女から預かったこの「若さ信仰」と題したプロローグの最後の部分は、思いがけず、ぼくの目に美しく映ることとなったようで、でもそれは紛れもなく、彼女の「若さ」にだった……


文章4/4 《思い出から、批評へ》


 ところでわたしは、昔むかし、ユーミンの大ファンだった。荒井由実と名乗っていた頃の。ものすごく聴いていたっていうのに、現実生活に追われて、すっかり忘れちゃっていた。正確にいえば、憶えてはいたけども浸れるような状況になかったのだ、ずっと。ところがわたしは思い出していた、思いがけずに。仕事帰りの中央フリーウェイで。
 中学高校時代のわたしの親友は超おとなしい女の子だった。みんなとギャーギャー話すことなんて絶対なくて、だから自分の中に大きな世界を持っていた。彼女にとってわたしは数少ない(たった一人だったような)友だちの一人だったから(わたしの方は他に少しいたかな)その心のうちをたくさん聞かせてくれた。彼女の心の中はまるで少女漫画で、恋愛も失恋もドジっ子もみんな自分が主人公だった。もしかしたら、親友のわたしでさえもただの脇役と思っていたんじゃないかと疑ったくらい。でもあの時、あんなに楽しかったのは、わたしも同じだったからなのかもしれない。そんなわたしたちのお姉さんだったのがユーミンの曲だった。わたしたちにとってユーミンの曲は特別だった。他の超有名な曲の多くは、男の人が歌詞を書いていて、女の言葉を男の理想で書いていたみたいだった。でもユーミンは違ってた。まるで少女漫画のようだった。まるでわたしたちのようだった。
 音楽って不思議だ。だって思い出をずっと閉じ込めておいてくれるんだから。
 わたしはお金を稼ぐため、にこの仕事をしている(悲しいけれど)。だから遠くまで行く仕事があればご機嫌になれるの。浅草から中央道を走るってことはとても気分がいい。三回目くらいに気がついたの。その時、いつもこの歌を口ずさんでいて、そして自然とその頃のことを思い出していて、その頃の思い出の中をのぞいて楽しんでいたことを。それに気づいて以来、この道を通れるときを待ち焦がれているわたしなのであった。(少女漫画みたい!)
 中央フリーウェイという曲はすごくシンプルで、だからすごく好きって曲ではなかった。でも今あらためて思うと、すごくユーミンらしい。メロディも、歌詞も、声も。だからあの頃に聴いたすべての曲が浮かび上がってきて、その曲に詰まった思い出の中を楽しむことができる。楽しいから、いろいろな思い出を思い出す。昨日の思い出だって思い出す。思い出を眺めるのはすごく楽しい! だって思い出の中のわたしは、今のわたしよりは必ず若いんだから! これって若さ信仰かしら。
 浅草からこの道に行けることってすごく少ないけど、でももし、そんな機会がたくさん来たとしたら、この思い出を楽しめなくなってしまうような気がする。だからさ、うまい具合に来てくださいよね、お客さん♡

 
……これでお終い。もう次は何もなくて、本人とも、もう会えない。
でも、これだけじっくりと鑑賞したのだから、もう大満足だ。まあ、彼女に対して恋愛感情があったわけではないし、それに、今から探そうと思えば見つけられなくもないんだろうけど、今は探さない方が幸せだ、たぶん。
 ぼくは、この文章を通して、彼女を通して、ぼくの理想の女性像を追っていたのかもしれない。女が見つめられたいかどうかは別としても、男は、女のことを「見たい」と望んでしまう生き物なのだから。だからまあ、この読書に対する批評は、すごく楽しかった。只、満足はしたけど、彼女の書いた「若さ信仰」という作品の最後の部分についても、勝手に自分で背負っている「男は、女のする化粧やファッションを見つめなければならない」という持論のとおり果たさなければなるまい。まあ、自分のためとは思いたくないから「女のために」ということにでもさせてもらいましょうか。

 ぼくにとって中高生の頃の思い出の音楽というと即座に横浜銀蠅が頭にパっと浮かんじゃって、もっとロマンチックなのがいいとか思ってもダメで、ちょっとでも思えば、自動的に出て来ちゃうんだからどうにも止められない。まあ楽しかったけどね。
 でもひねり出したら、ユーミンも出てきた。ところがそれは、考えてみればけっこう重要な思い出で、それは、初めてのガールフレンドというかそんなんで、三か月で消滅してしまった小さなロマンスだったんだけど、その女の子がユーミンの大ファンだったので。
 その子はユーミンのカセットテープを作ってぼくにプレゼントしてくれたんだけど、ぼくは静岡県の片田舎に住んでいて、その子は神奈川県の相模原だったし、だから、夏休みに知り合って、あとは電話と手紙でやり取りして、一度だけ鎌倉に会いに行っただけの、そんな風が吹けば飛んでってしまいそうな時間だったから、だからまあ、圧倒的な思い出である「ツッパリハイスクールロックンロール」の陰に隠されてしまっていた。
 でも、図書館でCDを借りてとかユーチューブで探してユーミンを聴いてみると、その子とどんな言葉を交わしたのか、顔だってぼんやりとしてしか思い出せないっていうのに、その頃に聴いたユーミンの曲は、ちゃんと頭に残っていた。顔や言葉はかすれてわからなくなっても、その時の心の揺れは音楽と一緒にそのままでいて、彼女の書いた文章にもあるように、まるで音楽の中に思い出が溶け込んでいたかのようだったんだけど、ホント、音楽って不思議だ。
 だから、この文章を何度も読み返したのと同じように、ユーミンの曲も何度も聴いてみて、そのうちにハタと気づいたんだけど、確かにユーミンの曲は、少女漫画だった。恋愛も失恋も友情も、楽しいことも悲しいことも、何気ないことも特別なことも、全てが自分本位で、まるで鏡の中に映った自分を見て楽しんでるみたいで、もう奔放過ぎて笑っちゃうところもあったくらいだった。でもそれこそがユーミンで、そこにみんなが魅力を感じたんだと思う。こんな詩は決して男には書けないし、男だったら許されなかっただろう。
 彼女らが聴いた、荒井由実と名乗っていた頃のユーミンは特に、まだ大成功の途中とでもいうか、まだ自信が少なくて、そんな少し控えめな「若さ」が、思春期だった彼女たちの複雑な心にはちょうどよく響いたのかもしれない。ぼくが十六歳の頃に聴いたユーミンのカセットテープに入っていた曲も、ほとんどが荒井由実時代のものだったから、もし会って話せたらいろいろ共感できたのに……

 まあ、成長にはモデルが必要で、だからこの時分、男だって女だって何かと真似したいものを探すんだけど、「これから自分をどんなふうに演じようか」と考える女の子たちの思いは切実で重いように思われる。男と女に大きく差が表れるのもこの時分で、もしかしたらそんな「自分本位さ」が男と女の区別の根本なのかもしれない……気もする。
 自分を演じるためには嫌いなものだって絶対に不可欠だから、そんなものもやはり自分で探さなきゃならないわけだけど、そんなやり玉にあげられたのが世のお父さん方で、まあ格好の標的だったのだろう。でもそれが一時的なのは、嫌いなものを仕立てる練習台に過ぎなかったからなのではないか……まあ本当に嫌うに足る理由がある場合だってもちろんあるけども、往々にして、過剰な「大っっっ嫌い!」がそこには伺えて、それが思春期の女の子の特徴的な「若さ」なんていえるんじゃないかな。練習台にあげられた男どもはたまったものじゃないけども、まあ傍から見れば、そんな姿も美しく感じられるし。
 まあ、この頃を過ぎても、練習を積み重ねながら女たちは嫌うに足るものを探し続けているようにも思えるんだけど、それはもしかしたら、若さを維持するための本能の働きなのかもしれない。そんな行動は大っぴらには出来ないから、そこで格好の餌食となるのが、世の旦那さん方で、まあ、遠慮がいらなくなった男たちはいじめられるのが世の理だ。だから逆に、ぼくが時々女の人にいじめられたいと思っちゃうのも、それは本能なのであって、決して変態だからではないことが証明できる。西洋人のレディーファーストとかいうやつも、そんなM心を正当化させるためにできた概念なのだ、きっと! 
 ……まあ、個人的な見解ということでいいんだけど、「古来女は、奔放に振る舞い、男はその姿を見させてもらってありがたがったんだけど、立場が弱いから男たちは働き、よりよく働けるように社会を作って、そんな男社会に女神が奔放という武器を持って乱入して来て……で、自分を演じるという本能を楽しむ女神だったのだが、現実とのギャップに苦しみ、男に助けを求めた。が、古来男はバカで、どうもうまいようにいかないことに女神は、現実は現実として受け止めながら、自分の物語を文章に綴って楽しむことにしました」
 ……という神話にそった文章をぼくは読んでいたような気がするのだけど、その最後の部分で彼女は、とても奔放に過ごしていた、とぼくは見た。
奔放さは演技できない。だって演技してたら、それは奔放ではないから。まだ年端も行かぬアイドルとかと呼ばれている女の子が、男に言われるままに奔放さを演技させられたとしても、そこには「バカな男の欲望が叶っただけ」という絵がぼくには見えてしまう。でも、そんな見世物がもてはやさされると、女自身もその見世物を真似するようになって、そこに間違った価値を見出し、間違った演技をしてしまっているんじゃないか。年を取った女の人も、そこに「近づけた」と満足を得ようとするんだけど、そんなの奔放ではない。もっと自由に、それぞれの奔放を楽しんでこそ奔放なんだと思う。「若さ」に年齢は無関係だ。
 もし、「じゃあ具体的にどうすればいいのよっ!」と怒られたって何も答えられないけど、だってバカなんだからしょうがないよ。ぼくら男は見させてもらう立場なんだから要望なんかいえないしさ。知ってたらこっちも面白くもないし。君らが奔放でいるのが楽しいように、ぼくらだってバカでいられるのは楽なんだ。だからそのために知識を身に着けたいとも思うわけ。それにそんな「バカさ」だって見方によっては笑えたり、美しくさえも映るんだからさ、それもしょうがないじゃないか。
 そういえば、ユーミンのカセットテープをくれたガールフレンドと鎌倉で会った時、ぼくはそのガールフレンドとキスをするという大いなる野望を持っていて、デート中、そのことばっかり考えていた。何度かそのタイミングを画策するも、経験不足で勇気もなかったし、なかなか実行できなかなかった。バカだから最後までそんなことばっかり考えていてデートどころではなかったんだけど、ついに空しくお別れの時が来てしまって、その子が別な電車に乗り換える時ぼくは、もう強硬に目的を達成しようと、バイバイをした後、ホームで手を振るその子に駆け寄って、ほっぺにチュッとして電車の中に逃げ戻り、不格好をごまかすために笑って再度手を振った。ぼくとしては唇にしなくちゃダメだと思っていたし、もっとスマートにしなければ意味がなかったんだけど、そんな悪しきバカさも、今こうしてその光景を傍から眺めてみれば、ちょっといい映像が頭に浮かぶ。もしその場にいたら顔が緩んでいたと思うし、そのガールフレンドだって嬉しそうな顔をしていたような手ごたえを感触として憶えているから、別になんてことのない只の「バカさ」だったんだけど、ぼくのバカさがちょうどよかったからこそ実現した瞬間だったんじゃないかと思う。

 女の奔放さも男のバカさも、それぞれよかったり悪かったりはあるけども、そんなものが掛け合わさって楽しみが生まれるわけで、人間は生きている以上、男か女だ。だから生きてる以上、「女として終わってる」なんてことはあり得ない。当たり前だ。


なんちゃって When a Man Love a Woman


 ちょっと大袈裟になっちゃうけど、ぼくは男として全ての女性に愛情を持っていて、で、その姿を見させてもらっている。それは個別にではなくて女性全体にというようなことだけども、文章を鑑賞するのには大いに有効的な気持ちではないか!
 この文章についても、彼女を通して、そんなものを見させてもらっていた。彼女が嫌々タクシーを始めた姿や、うまく得した時の顔、「若さ信仰」と揶揄した物珍しさに感心して、まだ幼いころに口紅をつけてもらって高揚している場面を感じ、思春期のまだ稚拙な演技を思い浮かべて、その思い出の中を散歩するけなげな姿に切なさを覚えさせてもらった。まあ、全ては只の読書なんだけども、彼女から預かった「若さ信仰」という文章から、さまざまな女の美を楽しんだ。現実とのリンクだって読書の楽しみなわけだし、そんなものだって楽しく味わえた。その影響で、アホな男から聞いた嫌な情報の映像にだって美しさが見えて、「冗談だったら怒るよ!」と言った彼女の演技のない奔放さは、紛れもなく美しい顔だったと想像できたし、まだ見ぬ未来の女の姿にだって、きっと同じものを見るに違いない! と。

 ……まあ、全ては、読書を通じて、彼女を通して、現実や想像を接続して、そして得たぼくの脳裡に浮かんだ映像なんだけども、それをこうして文章におこすということは、「若さ信仰」というものにラブレターを書かせてもらったようなものなんだし、でもちょっと盛り上がり過ぎちゃって恥ずかしいから、少し言い訳でもさせてもらえればっていうか、まあ……あの、これもひとえに「若(バカ)さゆえ」ということで寛容に受け止めてもらえませんかね。もちろん、「若さ」が一番の大切な価値だなんて思ってはいないけども、現に世の中は「若さ信仰」が大流行しちゃってるわけだし。
 でも信じてもらいたいんですが、ぼくは只、自分の姿を少しでも美しく見せようと思ってくれる女神の心を、しっかりと見て、どれだけ自分がしっかりと見たかを女神に伝えたかっただけなのですよ。たとえ「大袈裟じゃね?」と呆れられたって、女神のその唇の端っこが、ちょこっとあがってくれたら、もうそれだけで大満足で、只素直にそれを表した、というだけだったの。それにもし、男同士の話を知っている同族の男どもが、ぼくのことを「何をいい子ちゃんぶってやがんだ!」と罵るかもしれないけど、でも、それだって仕方ないよ。だって、いい子ちゃんなんだもん。


若さ信仰 とおして全文


若さ信仰」

「中央フリーウェイ 調布基地を追い越し 山に向かって行けば
        黄昏が フロントグラスを 染めて広がる
中央フリーウェイ 右に見える競馬場 左はビール工場
         この道はまるで滑走路 夜空に続く 夜空に続く……」
 

 黄昏時じゃないけれど、真夜中の中央道、この歌詞の、この場所を通る私は、中学生の頃に逆戻りする。口ずさむだけで……

 わたしはタクシー運転手なのです。女なのに。最初、こんな仕事なんて一刻も早くやめちゃいたいって思っていたのだが、一年経ち、二年経ち……もう慣れちゃって、今では他の仕事なんて考えられないほどなのである。もう七年目。
 でもそんなことが言えるのも、男どものおかげなのであった。だって、お客さんも、同僚も、管理職も、なんだかんだいっても女には甘くって、失敗しても、お願いしても、それを許してくれるんだから本当に助かった。女のタクシー運転手ってまだまだ少ない。
 しかし、許せないのも男どもだ。まずお前ら! わたしを「お前」って呼ぶな! ……というのは冗談だけど(半分は本当だ)、でもどうしてみんなわたしを見下すのか。女だからか? それとも、オバサンだから? どちらにしてもわたしを見下すのは間違っている。どこが間違ってるのか? それを一言で説明ができないから、これまでにこの職場で出会ったそんな出来事を紹介して、その上で、どこが間違っているのかをしっかりと証明したいのです。真実のためにねっ!

 まずは自己紹介をしなければならない。
 わたしはバツイチ女タクシー運転手。年齢はあえて書きませんが、みんながオバサンと思っても「オバサン」とは言いづらい年代である(笑)。前職はある大手の運送会社で事務をしていて、でも大学生の頃は国語の教師になりたかった(八王子の高校に教育実習まで行ったけど)。が、自分には向かないと気づき断念。中高生の頃は真面目っ子だった。それはその時の親友がそうだったからだと思われる。異性に対しては奥手で、でも男の子のことばかり話していた時代だった。小学生の頃はやんちゃだったらしい。でも高学年になると両親が離婚して、父のことが大っ嫌いになってしまって、それがその後の真面目っ子な時代に繋がった理由だとも思われる(普通逆?)。そんな少女時代を東京の下町で過ごし、今の仕事でも浅草を中心に走っている。わたしは浅草に誇りを持っている。それも父の影響だったかもしれない。町内の顔役だった父はお祭りではいつも目立っていて、わたしもそんな浅草のお祭りをすごく楽しみにしていた(口紅を塗ってもらう時の快感が今でも強烈に記憶に残っているの!)。この街の情緒をわたしの生活から切り離すことは決してできない。そんな過去が、「わたし」という人物を造ったようである。社会に出てからは、のんきに過ごしていたかと思ったら、急に超苦労して、そしたらまた、のんきに戻れた。どうしてタクシーに乗るようになったかはこれから追々話すとして(笑っちゃうかも)、わたしの見た、世の中の男どもの勘違い、理不尽、不思議(?)をこれからここに記したいと思います。

 まず第一回目は、世の中の男どもの若さ信仰についてだろー!
 別にこれは、わたしがオバサンだからやっかんでるってわけでは決してない。だって、わたしだって若いことのすばらしさはちゃんとわかっているんだから(涙)。だけど、若いからって只それだけでいいと決めつける現在の風潮が許せないのである(特に男!)。しかも! わたしのような立場の人間がそのことを指摘すればさらにその風潮は膨らむような気がするから、なおさら腹が立つのだ(爆)。
 そもそもわたしは、女だろうが男だろうがそんなことには関係なく、若さのみを信仰することに疑問を持っているのである。だって、若いっていうことは未熟ということで、経験不足で、さらに言葉悪くいえば、「バカさ」みたいなことなんだから。
 でもなぜ? どうして男たちは、そんなバカさに盲目なのか。
最初わたしはビックリした。だって、いくらお酒を飲んでいるからって、こんなにあからさまに他人(わたし)の目の前で、恥ずかしげもなく自分をさらけ出せるもんだ、と。よくもまあ自分のナリを棚に上げて、おめでたい態度に出られるのか、と。女の子はあんたのことを騙そうとしてるんだよ。でなきゃあんたなんかに好意があるわけないじゃない、と。それをどうして本気と受け止められるのか、と。

 わたしだからわかるってわけじゃない。女になら誰だってわかる。嫌だけどしょうがなくそう言ってるだけなの。何のために? 仕事のためだよ。お金のためよ。自分のスタイルを守るためよ。しょうがなくなの女なら誰だってわかるよ。それをまあ、「デレデレと真に受けちゃって、ホントにバカ丸出し!」というのがわたしの見解なの。だというのに、照れ隠しなのか何なのかよくわからないが、「ねぇ運転手さんもそう思うよねぇ~」なんて、わたしに言葉を振るんじゃないよ! というわかりやすいサンプルがこの間ありました。

 そのお客さまはナント! わたしに向かって、「運転手さんはもう女としては終わったかもしれないけどさ……」などとおっしゃいました。……ご安心ください。わたしは、呆れはしましたが少しも怒ってなどおりません。だってそれは世間の男の若さ信仰のあらわれであるし、タクシーの中は世間の縮図なのでありますもの。そんなことでいちいち怒ってなどいたら女タクシー運転手などとても務まりませんから。
 わたしにも覚えはありますが、女のする「バカさ」って意図的にしているのです。そういうものなのです。それを気づかないのが一番愚かで、それがその時のお客さんで、その具体的な話を書きたいと思いますが、次回に「つづく」とさせて頂きとうございます。今回は最初なので気分よく終わりたいから、あしからずということで、夜・露・死・苦!

 ところでわたしは、昔むかし、ユーミンの大ファンだった。荒井由実と名乗っていた頃の。ものすごく聴いていたっていうのに、現実生活に追われて、すっかり忘れちゃっていた。正確にいえば、憶えてはいたけども浸れるような状況になかったのだ、ずっと。ところがわたしは思い出していた、思いがけずに。仕事帰りの中央フリーウェイで。

 中学高校時代のわたしの親友は超おとなしい女の子だった。みんなとギャーギャー話すことなんて絶対なくて、だから自分の中に大きな世界を持っていた。彼女にとってわたしは数少ない(たった一人だったような)友だちの一人だったから(わたしの方は他に少しいたかな)その心のうちをたくさん聞かせてくれた。彼女の心の中はまるで少女漫画で、恋愛も失恋もドジっ子もみんな自分が主人公だった。もしかしたら、親友のわたしでさえもただの脇役と思っていたんじゃないかと疑ったくらい。でもあの時、あんなに楽しかったのは、わたしも同じだったからなのかもしれない。そんなわたしたちのお姉さんだったのがユーミンの曲だった。わたしたちにとってユーミンの曲は特別だった。他の超有名な曲の多くは、男の人が歌詞を書いていて、女の言葉を男の理想で書いていたみたいだった。でもユーミンは違ってた。まるで少女漫画のようだった。まるでわたしたちのようだった。

 音楽って不思議だ。だって思い出をずっと閉じ込めておいてくれるんだから。
 わたしはお金を稼ぐため、にこの仕事をしている(悲しいけれど)。だから遠くまで行く仕事があればご機嫌になれるの。浅草から中央道を走るってことはとても気分がいい。三回目くらいに気がついたの。その時、いつもこの歌を口ずさんでいて、そして自然とその頃のことを思い出していて、その頃の思い出の中をのぞいて楽しんでいたことを。
 それに気づいて以来、この道を通れるときを待ち焦がれているわたしなのであった。(少女漫画みたい!)

 中央フリーウェイという曲はすごくシンプルで、だからすごく好きって曲ではなかった。でも今あらためて思うと、すごくユーミンらしい。メロディも、歌詞も、声も。だからあの頃に聴いたすべての曲が浮かび上がってきて、その曲に詰まった思い出の中を楽しむことができる。楽しいから、いろいろな思い出を思い出す。昨日の思い出だって思い出す。思い出を眺めるのはすごく楽しい! だって思い出の中のわたしは、今のわたしよりは必ず若いんだから! これって若さ信仰かしら。

 浅草からこの道に行けることってすごく少ないけど、でももし、そんな機会がたくさん来たとしたら、この思い出を楽しめなくなってしまうような気がする。だからさ、うまい具合に来てくださいよね、お客さん♡

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