祖父母のこと
れっきとしたお母さん子だったので
祖父母にたいしてそこまでべったりではなかった。
私の祖父母はもうみんな亡くなってしまったのだけれど、でもたまに、ふと顔が思い浮かんだりする。
たぶんそういうときは、本当にそばにいてくれてるのだ。
大学生になって上京してしまったので、人生の半分以上は東京ですごしていて、実家での記憶がどんどん薄れていってる気もするけど…
今日は、祖父母のことを書いてみようと思う。
【父方の祖母】
父方の祖母は、父方の祖父が亡くなった後に、うちの実家で一緒に暮らすこととなった。
私がまだ幼稚園くらいのときだったので、記憶は定かではないけれど、うちへ引っ越してきた日のことを覚えている。
家の外の道路で姉に遊んでもらっているとき、かばんを持った祖母が駅の方からにこにこしながら歩いてきた。祖母に、私と姉は大きく手を振った。
祖母は、男の子を3人生み(私の父は次男)育ててきたから、女の子でバレエをやっている(太れない)私のご飯の量を見ていつも心配していた。
「あきちゃん、たべないね〜」と寂しそうに。
そんな祖母は、炭水化物×炭水化物を食べる人だった(笑)
白米のおかずにそうめんを食べたりする。
そんな姿もチャーミングであった。
髪の毛はたまに紫に染めていた。
今考えると結構ちゃんとおしゃれが好きな人だったのではないだろうか。
父方の祖母と一番仲がよかったのは、私の一番上の姉だ。
2人はよく食べるといった点で似たもの同士…と言ったら怒られそうだけど(笑)、まあほんとにそうだし、食の好き嫌いも似ていた気がする。
内臓系の食べ物が嫌いなのだ。
(ちなみに私は好き)
元気だった頃は、お琴に通っていた。
編み物もよくしていて、祖母から毛糸をもらったり、編み物セットを買ってもらったりした。
私は小学生の時から、学校を早退することが何回もあって(本当に具合が悪かったのか、帰りたかっただけだったのか…いや、半分ずつだな)、親が学校まで迎えにくるのだけれど、母親が家にいない日は祖母が家から歩いて迎えにきてくれた。
祖母の手は大きい。
ちなみに母の手は小さい。
母が作ったおにぎりなのか、祖母が作ったおにぎりなのかは一目瞭然だった。
気の小さい心配症な祖母は、「私はもうすぐ死ぬんだ」とよく言っていたけど、そんなことを言い始めて10年、いや、15年?は生きていたんじゃないだろうか。
耳が遠かったので、祖母がリビングでテレビをみていると大音量だ(笑)
父のことは(祖母から見ると息子)は「まあちゃん」と読んでいた。
【父方の祖父】
父方の祖父のことは、正直ほとんど記憶にない。
私が3歳のころに肺ガンでなくなった。
祖父の家の一室が、緑のカーペットだったこと。
祖父がヘビースモーカーだったこと。
お葬式の日の火葬場の、ほんとうに火葬される直前のあの場所。
この3つくらいしか記憶にない。
私の覚え間違いでなければ、祖父と祖母は戦時中の
臨時の医師と看護師みたいな関係だった気がする。
(全然違ったらごめん)
だからなのか、私は人生で一口もタバコを吸ったことがない。
【母方の祖父】
母方の祖父は学校の先生だ。
たしか、国語で古典を教えていた…はず。
祖父の家には筆ペンがあり、祖父は字がきれいだった。
難しそうな本もたくさんあった。
そのせいなのか、うちの実家にも難しそうな古い本が
たくさん地下の部屋にある。
(いまもあるのだろうか)
母方の祖父母は、コーヒーを飲む文化だったので
祖父母の家はいつもコーヒーの香りがした。
和服もよく着ていて、着物にベレー帽を被りサングラスをするのが、祖父のおでかけスタイルだ。
母方の祖母が亡くなってからは、うちの実家から歩いてすぐのマンションに住んでいたので、私の参観日ともなると母と一緒に来てくれたりしていたが、着物にサングラスをしてベレー帽なんぞかぶっていると目立つわけなのだ。
着物をきていなくても、まあ、ベレー帽にサングラスをしていたら、そりゃ目立つ。
参観日の日、クラスの男の子が私に「あの、手塚治虫、だれのおじいちゃんだろう」とクスクスしながら言ってきた。
「私のだよ」
すかさず平謝りされたのは言うまでもない。
(なぜか男の子に怖がられる系女子だったのだ)
ある日、車で移動していたとき、祖父がいきなり具合が悪いといいはじめ、車を止めて外に出た瞬間、目の前で吐血した。
そのときは脳梗塞だったらしい。
そのシーンまでは覚えているが、その後の記憶が私にはまったくない。
意識がもどるまで、しばらく時間がかかったらしいが、後から話をきくと、周りの人が何を話していたかは全部聞こえていたそうだ。
やっぱり人間は聴覚が最後まで残るのだ。
戦争の時の話も少しだけしてくれた記憶がある。
うちは北海道なので、東京の人とはもしかしたら状況が違うのかもしれないが、うちの祖父は若い子を指導?する側だったらしく、飛行機で飛び立っていく若い子たちを見送りながら「もう帰ってこないんだな…」と思っていたらしい。
私が二十歳になったときには、着物を買ってくれた。
祖父が亡くなる1週間ほど前(私は当時社会人になっていて東京にいたので)東京から札幌に帰り、お見舞いにいった。
なぜかそのときたまたま重なって、数日ずれで、東京にいる母の姉や、私の姉家族も祖父に会いにいったらしい。
そうすると祖父は「ああ、これで全員に会えた」と言ったらしい。
そして、亡くなった。
全員に会えて、嬉しかったのだろう。
【母方の祖母】
母方の祖母は小学校の先生だった。
私の母よりもさらに小柄で、おそらく150センチもなかったんじゃないだろうか。
手の爪はいつも長かった気がする。
理由をきいたら、イカの皮をむくためだった気がするけど…そんなことってあるだろうか?私の記憶違い、のほうが可能性として大きそうだ。
母方の祖母についても、私が小学生のときに亡くなってしまったから、あまり記憶が残っていない。
写真をとるのが好きで、私が小学校に入学したころは、通学路までついてきて写真を撮ってくれた。
ジュエリーもたくさんつけていた気がする。
父方の祖父は私が幼い頃に亡くなったし、父方の祖母と母方の祖父は私が上京してから亡くなったので、入院中のころの姿をあまり見ていない。
母方の祖母の時だけ、入院中の姿が記憶にある。
私の習い事の送り迎えの前後に、母は祖母の病院へと通っていた。
俗にいう、おじいちゃん孝行、おばあちゃん孝行なんて何一つできなかった気がする。
だからたまに、心の中で思い出して、すこしだけ祖父母と会話する。
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