【3分で読める世界史】モンゴル帝国時代の東西交流
元朝のくわしい話に行く前に、モンゴル帝国時代の東西交流について、確認していきましょう。
この時代は「タタール(モンゴル人)の平和」と言われるように、ユーラシア大陸が安定し、さかんに交易が行われました。
この記事を読めば、モンゴル帝国と世界のつながりが分かります。
①モンゴル帝国時代の東西交通
内陸においては、オゴタイ・ハンの時代に整備された駅伝制(ジャムチ)によって、帝国全土が結ばれたため、ユーラシア大陸は移動が安全にできるようになります。
牌符(はいふ)と呼ばれる通行証を持っていれば、10里ごとに設けられた駅で、馬や食料、宿などの提供が受けられました。
一方、海上でも交易が盛んに行われ、杭州(南宋時代の臨安)、泉州、広州などの貿易港が栄えました。
また大運河も再整備され、中国の経済の中心地だった江南と首都の大都が結ばれ、江南の豊富な物資が北へ送られるようになります。
そして、これらのモンゴル帝国の交通の発展が、ペルシア湾、インド洋、東アジアなどとつながり、大交易圏が生まれました。
②銀と交鈔(こうしょう)
その広大な交易圏を支えたのが、「銀」と「交鈔(こうしょう)」でした。
モンゴル帝国では銀を共通の通貨として扱っており、銀と交換を約束された紙幣「交鈔」が帝国内の取引に使われていました。
一方の銀は流通量に限りがあるので、国際取引に使われていました。
いずれにしても、この銀と交鈔のおかげで安全に東西交易が行われていました。
③東西の人と文化の交流
モンゴル帝国によって、ユーラシア大陸の交通が整備された結果、東西の人の行き来も盛んになりました。
モンゴル帝国に来訪した、代表的な人物は以下の5人です。
■プラノ・カルピニ・・・ローマ教皇インノケンティウス4世が派遣。グユウへの使者。
■ルブルック・・・フランス王ルイ9世が派遣。モンケに十字軍への協力を要請。
■マルコ・ポーロ・・・元に仕えたヴェネツィア商人。帰国後に著書「世界の記述(東方見聞録)」を残す。
■モンテ・コルヴィノ・・・中国で初めてカトリックを布教。大都の大司教に任命される。
■イブン・バットゥータ・・・モロッコ出身の旅行家。「三大陸周遊記(旅行記)」を記す。
※上の2人、プラノ・カルピニとルブルックの時は、まだ元がなかったことに注意
終わりに
いかがだったでしょうか。今回はモンゴル帝国の交通路の整備による、東西の交流をお話させていただきました。
いよいよ世界が一体になってきたのが、この時期です。
次回は、話をもどして元について解説していきます。お楽しみに!
参考文献