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新科目「歴史総合」をよむ 3-1-4. 計画経済と開発

■資本主義経済と計画経済

サブ・クエスチョン
東側諸国の資本主義経済と西側諸国の計画経済には、どのような共通点・相違点があるのだろうか?

 第二次世界大戦後、東側諸国と西側諸国は、どちらがより豊かな社会を築き上げることができるか、イデオロギーや経済体制をめぐって競い合った。

 西側の自由主義諸国では、ただひたすらに企業の利益追求が容認され、経済活動に国家が関与しなかったわけではない。第二次世界大戦後のヨーロッパでは、国家が積極的に国民経済に関わることが望ましいものとされるようになった。
 たとえば、イギリスをはじめアメリカ合衆国、西欧諸国では、社会保障制度が発展した。その内実は国によってもさまざまだが、えおおむね市場経済をとりいれながらも、政府が完全雇用や社会福祉を実現するために財政出動する混合経済体制が成立した。

 一方、社会主義国の多くでは、ソ連で実行されたような、国家主導の計画経済が経済政策に盛り込まれた。
 生産物の流通・販売は政府の管理下におかれ、公定価格が定められた。
 しかし、計画や指令にもとづく経済は、官僚の肥大化を生み、人々の勤労意欲や効率性を減退させていった。
 イデオロギーの実現が先行し、実情に合わないノルマの設定がなされることも多い。その最たる例が、1958年に毛沢東が「大躍進」を掲げてはじまった第二次五カ年計画であった。

資料 人民公社
大躍進の政策の中心となった人民公社は、1955 年以来進められてきた農業集団化の急進 化であった。成都会議の影響を受け、1858 年 4 月 20 日、河南省遂平県に最初の人民公社 (嵖岈山衛星人民公社)が成立した。その規模は 5,566 戸、30,113 人であった。8 月 6 日、毛沢東は河南省新郷県の七里営人民公社を視察し、「人民公社はいい名前だと思う」と述べたが、これは人民の生産・生活を軍隊式に全面的に管理できるからであった。8 月 29 日の北 戴河における中央政治局拡大会議で「農村に人民公社を建設する問題に関する中共中央の 決議」が採択され、人民公社化の推進が正式に決定された。この結果、全国的に人民公社化の高潮がおこり、9 月 29 日までに全国の農村が人民公社化され、27 の省で 2 万 3,384 の人 民公社ができ、加入農家は 1 億 1,217 万余戸と全農家の 90.4%を占めるに至り、年末には全農家総数の 99.1%が加入して 2 万 6,578 社が成立し、人民公社の組織はほぼ完成する。 この人民公社の成立にともなって始まったのは高収量競争であった。1958 年の 6 月 8 日 の河南省遂平衛星公社の 1 畝あたり小麦 1,007.5 kg の収量を記録したという記事を皮切り にその年の秋にかけて『人民日報』上に食糧の高生産新記録が続々と掲載された。これは 各地の幹部が競って高い生産量をねつ造した結果であった。その結果「生産量」は増大し 続け、8 月には安徽省繁昌で 1 畝あたり早稲 2 万 1,538 kg、9 月には青海省チャイダムで 1 畝あたり小麦 4,293 kg に達した。こうした高生産の手法としては密植や深耕が奨励されたが、 これはかえって減産を招いた。しかしながら、各地でねつ造された生産量が合計されたた め、1958 年の実際の食糧生産は約 2 億トンであったのに対して 4 億 5,000 万トンにまで誇張された。この高生産に応じた食糧を買い付ける必要が生じ、結果的に強引な食糧買い付 けが行われたことが、大躍進で多くの餓死者が生じた原因である。また、この食糧買い 付けが反隠匿闘争として行われた結果、食糧を供出できない農民が幹部に暴行を受けて殺 害される事件も多発した。

(出典:村上衛「大躍進と日本人「知中派」――論壇における訪中者・中国研究者」石川禎浩編
『毛沢東に関する人文学的研究』京都大学人文科学研究所、2020年、https://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~rcmcc/maozedong-paper.html



■開発途上国の経済政策と開発援助

サブ・クエスチョン
開発援助が本格化したのにもかかわらず、新興独立国が豊かにならなかったのはなぜだろうか?


 第二次世界大戦後に独立した途上国は、旧宗主国に依存しない経済を実現するため、当初、輸入代替工業化をめざす国が多かった。
 そのために国営企業が設けられ、計画経済の手法が導入されることが多かったが、植民地から独立したばかりの諸国では、実務能力のある官僚の育成も不十分であり、輸入代替工業化の多くは頓挫した。

 しかも、先進国は独立後の植民地の経済発展を支援するために、資金や技術を援助することで、独立後も影響力を及ぼそうとした。1950年にイギリスが援助機構であるコロンボ・プランをもうけたのは、その一例である。


資料 コロンボ・プランについて
コロンボ・プランは援助か?

https://www.keinet.ne.jp/magazine/guideline/backnumber/21/0708/gakubu.pdf


 こうして新興独立諸国は、先進諸国の援助を受け、開発される主体となっていった。旧植民地は、開発途上国となっていったのである。
 脱植民地化が進むにしたがって、国連における旧植民地の発言権も高まり、1961年の国連総会では1960年代を「国連開発の10年」と定め、1964年には開発途上国の経済発展のために先進国間の協力を強める目的で国連貿易開発会議(UNCTADアンクタッドが組織された。

 しかし、先進国との経済格差はなかなか埋まらず、南北問題とよばれる先進国と開発途上国間の格差はさらに拡大した。

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