■資本主義経済と計画経済
第二次世界大戦後、東側諸国と西側諸国は、どちらがより豊かな社会を築き上げることができるか、イデオロギーや経済体制をめぐって競い合った。
西側の自由主義諸国では、ただひたすらに企業の利益追求が容認され、経済活動に国家が関与しなかったわけではない。第二次世界大戦後のヨーロッパでは、国家が積極的に国民経済に関わることが望ましいものとされるようになった。
たとえば、イギリスをはじめアメリカ合衆国、西欧諸国では、社会保障制度が発展した。その内実は国によってもさまざまだが、えおおむね市場経済をとりいれながらも、政府が完全雇用や社会福祉を実現するために財政出動する混合経済体制が成立した。
一方、社会主義国の多くでは、ソ連で実行されたような、国家主導の計画経済が経済政策に盛り込まれた。
生産物の流通・販売は政府の管理下におかれ、公定価格が定められた。
しかし、計画や指令にもとづく経済は、官僚の肥大化を生み、人々の勤労意欲や効率性を減退させていった。
イデオロギーの実現が先行し、実情に合わないノルマの設定がなされることも多い。その最たる例が、1958年に毛沢東が「大躍進」を掲げてはじまった第二次五カ年計画であった。
■開発途上国の経済政策と開発援助
第二次世界大戦後に独立した途上国は、旧宗主国に依存しない経済を実現するため、当初、輸入代替工業化をめざす国が多かった。
そのために国営企業が設けられ、計画経済の手法が導入されることが多かったが、植民地から独立したばかりの諸国では、実務能力のある官僚の育成も不十分であり、輸入代替工業化の多くは頓挫した。
しかも、先進国は独立後の植民地の経済発展を支援するために、資金や技術を援助することで、独立後も影響力を及ぼそうとした。1950年にイギリスが援助機構であるコロンボ・プランをもうけたのは、その一例である。
資料 コロンボ・プランについて
コロンボ・プランは援助か?
こうして新興独立諸国は、先進諸国の援助を受け、開発される主体となっていった。旧植民地は、開発途上国となっていったのである。
脱植民地化が進むにしたがって、国連における旧植民地の発言権も高まり、1961年の国連総会では1960年代を「国連開発の10年」と定め、1964年には開発途上国の経済発展のために先進国間の協力を強める目的で国連貿易開発会議(UNCTAD)が組織された。
しかし、先進国との経済格差はなかなか埋まらず、南北問題とよばれる先進国と開発途上国間の格差はさらに拡大した。