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新科目「歴史総合」をよむ 3-2-4. 冷戦の終結と世界

メイン・クエスチョン
「冷戦」の終結によって、変わったものと、変わらなかったものは、それぞれ何だったのだろうか?


■冷戦の終結


サブ・クエスチョン
「冷戦」は、どのように終結に向かったのだろうか?

 1975年にはベトナム戦争が終結し、世界の緊張緩和が進んだ。1979年のソ連のアフガニスタン侵攻にともない「新冷戦」と呼ばれる段階に入った。

資料 ソ連のアフガニスタン介入
グロムイコ元外相のアフガニスタン介入に関する書簡(1989年)
当時〔筆者注:1979年当時〕の米国政権の狙いは、ソ連国境南部の状況を不安定化し、わが国の安全保障に脅威を与えることにあった。イランのシャー体制の喪失とソ連を狙った米国軍事基地のイランからの撤退後、米国は、パキスタン、さらには可能であればアフガニスタンをイランの代用品とする目論見を現実化しつつあった。(後略)

(出典:金成浩・訳『世界史史料11』333-334頁)


 しかし1970年代のソ連は経済が停滞し、軍事的な負担を支え続ける能力を失っていた。

 1985年には、ソ連共産党書記長のゴルバチョフが、ペレストロイカと呼ばれる改革を行い、体制維持を図ろうとした。


資料 ゴルバチョフによるペレストロイカの開始(1989年)党協議会のための党中央委員会のテーゼ(1988年5月23日)
ソ連共産党中央委員会〔1987年〕一月総会以降の経験にかんがみ、選出党機関の構成手続きに変更を加えなければならない。真の競争、候補資格の広範な審議、秘密投票を基準とすることが不可欠である。(中略)

(出典:木村英亮・訳『世界史史料11』337頁)


資料 ロシアのマクドナルド1号店
1990年1月31日、ソ連にマクドナルド第1号店がオープンした。何千人ものモスクワ市民がこの新しいバーガーチェーンに押し寄せた。モスクワの中心部プーシキン広場に出来た列は数キロメートルにも及んだ。(中略)
ソ連時代の人々は、失礼で粗野なサービスに慣れてしまっていたので、マクドナルドの店員の丁寧で太陽のような笑顔にショックを受けてしまった。実際、笑顔でのサービスにお客が居心地の悪さを感じる始末だったので、マクドナルド側が店員に笑顔を減らすように指示したくらいだった!(中略)
ペレストロイカの時代の一般のソ連市民にとって、マクドナルドは、鉄のカーテンのむこう側の生活や食生活を垣間見せるものとなったのだ。ソ連時代の人々は、西洋文化について色々と聞いてはいたものの、手に入れることは出来なかった。なので、マクドナルドのあの金色の「M」字がロシアに降り立った時、ソ連市民はその名の通り熱狂してしまったのだ。
ハンバーガーはソ連に一大ブームを引き起こしたと言える。ソ連の人々は一般的に、かなり限られたものしか食べていなかったので、西洋諸国の食生活との違いに驚いた。人々はマクドナルドの使い捨て容器をお土産として家に持ち帰ったり、使い回したりする程だった。

(出典:ボリス・エゴロフ「ソ連のマクドナルド第1号店がいかにロシア人を熱狂させたか」、ロシア・ビヨンド、https://jp.rbth.com/history/81550-soren-makudonarudo-dai-ichi-gouten



 1987年にはINF全廃条約をアメリカと結び、1989年にはマルタ会談によって冷戦の終結が宣言された。



 ソ連の政治改革は、東欧諸国の民主化も促した。1989年には東欧革命とよばれる共産党独裁体制の終結がもたらされた。東ドイツでは1990年にはベルリンの壁が開放され、1991年には東西ドイツが統一された。同年12月には、ソ連も解体された。




■東アジアの分断状況

サブ・クエスチョン
「アジアでは冷戦はまだ終わっていない」という見方は、どの程度正しいといえるだろうか?

 ヨーロッパにおいて、東西冷戦による「分断」が解消されたのに対し、東アジアでは「分断」状況が各地に残っている。 

 そもそも中華人民共和国と北朝鮮では、「雪どけ」により平和共存路線に切り替えたソ連をみて、ソ連型社会主義との路線の違いを、明確に示すようになった経緯がある。


中華人民共和国

 文化大革命の終結後、中国では事実上鄧小平とうしょうへいが最高権力者となっていた。

 鄧小平は「改革開放」を唱え、民主化をおさえこみつつ、市場経済を導入し産業の近代化を図ろうとした。



資料 「四つの現代(近代)化」
周恩来「第四期全国人民代表大会第一回会議における政府の活動報告」(1975年1月13日)
 社会主義革命は社会の生産力を発展させる強大な推進力である。我々は、革命を貫き、生産を促し、活動を促し、戦争に備えるという方針を必ず堅持し、革命全般の総指揮の下、生産の増加に努力し、社会主義建設の歩みを早め、わが国の社会主義制度の物質的な基礎をさらに強固なものにしなければならない、
 毛主席の指示を受け、第三期全国人民代表大会〔1964年〕の政府活動報告は、第三次五カ年計画〔1966ー70年〕を始めるに際し我が国の国民経済の発展をに段階の歩みに分けて構想することが適切である、としていた。すなわちその第一歩は、15年の時間を使って、つまり1980年までに独立した比較的整った工業体系と国民経済体系を作りあげることであり、第二歩は、今世紀の内に農業・工業・国防と科学技術の近代化を全面的に実現し、我が国の国民経済が世界の前列に立って歩めるようにすることである。(後略)

(出典:今井駿・訳『世界史史料11』325-326頁)


 一般的には、欧米における資本主義の発展は、民主主義と同時進行におこっていくものとみなされることが多い。共産党の独裁体制を維持したまま経済成長の実現に対しては、懐疑的な意見も少なくなかった。

 1989年には、北京の天安門広場でおこなわれていた民主化運動を、政府が軍を出動させ弾圧する天安門事件が起きた。その後も中国は、共産党の独裁体制を継続した。




北朝鮮

 北朝鮮においても、金日成と、その息子・金正日による独裁体制が続いた。

 冷戦が終結し、ソ連が崩壊すると、中国も北朝鮮も、政治改革に着手した。
 たとえば北朝鮮と韓国は1991年に国連に同時加盟し、1992年には中国と韓国が国交を結んだ。
 しかし、冷戦時に分断された国家群が、和解や統一に向かってすすんでいるわけではない。
 北朝鮮は、核ミサイル開発を進めてNPTから離脱し、東アジアの緊張の中心となっている。2000年には北朝鮮と韓国の首脳会談が開かれたが、統一は現実味を帯びていない。



 なお、1997年には香港がイギリスから返還され、1999年にはマカオもポルトガルから返還された。いずれも19世紀にイギリス、マカオが獲得・租借していた地域であった。



 中国は返還後に一国二制度を適用したが、政治的自由に対する統制が強められ、2020年には国家安全法が制定され、民主化運動は挫折した。



 1971年に国連代表権を失った台湾は、1987年に38年間続いた戒厳令が解除された。トランプ政権以降、アメリカ合衆国が台湾に接近するなど、台湾海峡を挟んで軍事的な緊張が続いている。





日本

サブ・サブ・クエスチョン
冷戦体制が終結したにもかかわらず、日本において二大政党制が生まれなかったのはなぜだろうか?

 1993年、衆議院選挙で非自民・非共産勢力が自民党を上回る243議席を獲得し、圧勝。社会党も惨敗し、保守vs革新の軸を基調とする55年体制は幕を閉じることになった。
 かわって非自民八党派(社会、公明、民社、新生、さきがけ、日本新党、社会民主連合、民主改革連合)の連立政権が、|細川護熙《ほそかわもりひろ》を首班に成立し、55年体制時には不可能であった「政権交代をともなう政党政治」をめざして、小選挙区比例代表並立制を導入した。


 しかし1994年4月には政権を投げ出し、ポスト「戦後」体制、「戦後」後の体制のゆくえは早くも頓挫。
 後継の|羽田孜《はたつとむ》内閣は2か月で総辞職し、1994年6月に村山富市内閣が成立した。


 村山内閣では、55年体制下で対立していた社会党と自民党が連立し、保守vs革新の軸が無効になったポスト「戦後」体制を象徴するものとなった。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊