新科目「歴史総合」をよむ 3-2-4. 冷戦の終結と世界
■冷戦の終結
1975年にはベトナム戦争が終結し、世界の緊張緩和が進んだ。1979年のソ連のアフガニスタン侵攻にともない「新冷戦」と呼ばれる段階に入った。
しかし1970年代のソ連は経済が停滞し、軍事的な負担を支え続ける能力を失っていた。
1985年には、ソ連共産党書記長のゴルバチョフが、ペレストロイカと呼ばれる改革を行い、体制維持を図ろうとした。
1987年にはINF全廃条約をアメリカと結び、1989年にはマルタ会談によって冷戦の終結が宣言された。
ソ連の政治改革は、東欧諸国の民主化も促した。1989年には東欧革命とよばれる共産党独裁体制の終結がもたらされた。東ドイツでは1990年にはベルリンの壁が開放され、1991年には東西ドイツが統一された。同年12月には、ソ連も解体された。
■東アジアの分断状況
ヨーロッパにおいて、東西冷戦による「分断」が解消されたのに対し、東アジアでは「分断」状況が各地に残っている。
そもそも中華人民共和国と北朝鮮では、「雪どけ」により平和共存路線に切り替えたソ連をみて、ソ連型社会主義との路線の違いを、明確に示すようになった経緯がある。
中華人民共和国
文化大革命の終結後、中国では事実上鄧小平が最高権力者となっていた。
鄧小平は「改革開放」を唱え、民主化をおさえこみつつ、市場経済を導入し産業の近代化を図ろうとした。
一般的には、欧米における資本主義の発展は、民主主義と同時進行におこっていくものとみなされることが多い。共産党の独裁体制を維持したまま経済成長の実現に対しては、懐疑的な意見も少なくなかった。
1989年には、北京の天安門広場でおこなわれていた民主化運動を、政府が軍を出動させ弾圧する天安門事件が起きた。その後も中国は、共産党の独裁体制を継続した。
北朝鮮
北朝鮮においても、金日成と、その息子・金正日による独裁体制が続いた。
冷戦が終結し、ソ連が崩壊すると、中国も北朝鮮も、政治改革に着手した。
たとえば北朝鮮と韓国は1991年に国連に同時加盟し、1992年には中国と韓国が国交を結んだ。
しかし、冷戦時に分断された国家群が、和解や統一に向かってすすんでいるわけではない。
北朝鮮は、核ミサイル開発を進めてNPTから離脱し、東アジアの緊張の中心となっている。2000年には北朝鮮と韓国の首脳会談が開かれたが、統一は現実味を帯びていない。
なお、1997年には香港がイギリスから返還され、1999年にはマカオもポルトガルから返還された。いずれも19世紀にイギリス、マカオが獲得・租借していた地域であった。
中国は返還後に一国二制度を適用したが、政治的自由に対する統制が強められ、2020年には国家安全法が制定され、民主化運動は挫折した。
1971年に国連代表権を失った台湾は、1987年に38年間続いた戒厳令が解除された。トランプ政権以降、アメリカ合衆国が台湾に接近するなど、台湾海峡を挟んで軍事的な緊張が続いている。
日本
1993年、衆議院選挙で非自民・非共産勢力が自民党を上回る243議席を獲得し、圧勝。社会党も惨敗し、保守vs革新の軸を基調とする55年体制は幕を閉じることになった。
かわって非自民八党派(社会、公明、民社、新生、さきがけ、日本新党、社会民主連合、民主改革連合)の連立政権が、|細川護熙《ほそかわもりひろ》を首班に成立し、55年体制時には不可能であった「政権交代をともなう政党政治」をめざして、小選挙区比例代表並立制を導入した。
しかし1994年4月には政権を投げ出し、ポスト「戦後」体制、「戦後」後の体制のゆくえは早くも頓挫。
後継の|羽田孜《はたつとむ》内閣は2か月で総辞職し、1994年6月に村山富市内閣が成立した。
村山内閣では、55年体制下で対立していた社会党と自民党が連立し、保守vs革新の軸が無効になったポスト「戦後」体制を象徴するものとなった。
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