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15.4.4 第2次冷戦から冷戦の終結へ 世界史の教科書を最初から最後まで

冷戦末期のアメリカ合衆国

1980年代のアメリカ合衆国は主にレーガン大統領(在任1981〜1989年)の時代だ。
彼は前任のカーター大統領時代との違いを鮮明にし、ソ連に対して強気の姿勢を示す。具体的にはソ連に対して「悪の帝国」というレッテルを貼り、強く非難をした。

1981年にはソ連の核ミサイルを強力なレーザービームで撃ち落とす技術を開発せんとするスピーチまでぶち上げる。この戦略防衛構想(SDI)は、当時ヒットしていたジョージ・ルーカス監督の「スターウォーズ」にちなみ「スターウォーズ計画」とも呼ばれたが、現在にいたるまで実現にはいたっていない。

資料 レーガン大統領「防衛と安全保障に関する国民への演説」(1983年3月23日)
「私は、統合参謀本部をはじめとする大統領補佐官たちとの協議の結果、(防衛問題の解決のための)一つの道があることを確信し、皆さんに希望を与える将来像を伝えたいと思います。それはソヴェトのミサイルの脅威に対して防衛的な手段によって対抗する計画を開始することです。[…]
 もし、自由[主義陣営]の人々の安全保障が、ソヴェトの攻撃に対する米国の報復の脅威によるのではなく、弾道ミサイルがわれわれの土地やわれわれの同盟国の土地にたどり着く以前にそれらを遮断し破壊できることで確保され、安心して暮らすことができるとしたらどうでしょうか。[…]」
(出典:橋本毅彦・訳、『世界史史料11』岩波書店、2012年、400-401頁)

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カリブ海の小さな島国であるグレナダで社会主義政権ができると、よそさまの国なのに軍を送って打倒してしまうほどの積極姿勢だ。


)グレナダでは1974年の独立後にクーデタでソ連・キューバの支援を受けた左派政権が樹立されていたが、その後起きた政変を機に1983年にアメリカ合衆国の〈レーガン〉大統領が軍事侵攻(グレナダ侵攻)し、親米政権を樹立。これを受け1984年のロサンゼルス五輪にはソ連ほか東側諸国がボイコットしている。

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冷戦末期のソ連

これにより米ソの間には緊張が走り「第二次冷戦」と言われるものの、すでにソ連はブレジネフ時代から経済は停滞。

増大する軍事費が財政を圧迫し社会不安が高まると、自由化に対する要求も見られるようになっていた。

高齢の書記長2人の後に、1985年にはゴルバチョフが書記長に就任。


ペレストロイカ」(改革)を打ち立て難局を乗り切ろうとする。

史料 ゴルバチョフの演説(1987年1月)
 ペレストロイカの(第一の)意味は、停滞状態を断固として克服し、遅滞をうむしくみを壊し、ソ連社会の社会的、経済的発展を速める信頼できる効果的なしくみをつくりだすことである。…
 ペレストロイカの(次の)意味は、大衆の生き生きとした創造性に依存することである。…
 政治的レベルでの課題は、選挙制度での民主主義を深化させ、選挙前と選挙運動中の前段階で、投票者の効果的、積極的参加を増進することである。

実教出版『世界史探究』より





また、1986年には反体制派であった科学者サハロフ(1921〜1889、ソ連水爆の父と称される)の流刑も解除した。

しかし、1986年に起きたチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故が明るみに出ると、事態は一変。ウクライナだけでなくベラルーシ南部にも被害が及んだにもかかわらず、政府はこの事実を当初国民に隠したため、ゴルバチョフ政権に対する批判は高まった。


「正確な情報と問題点の自由な論議」が求められるようになり、この事故によって一層情報公開が進展していくことになった。情報公開を進展させる政策のことを「グラスノスチ」という。


以前は隠されていたような統計の数字や、事故、社会問題もちゃんと報じられるようになり、さまざまな「意見」が飛び交うようになっていく。

1989年にはバルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニアが、国境を超え南北600kmにわたり参加者が手をつなぐ「人間の鎖」デモがおこなわれ、ソ連からの独立を国際社会に訴えた。


ヨーロッパの社会主義圏でも、共産党以外の政党も含めた自由選挙を求める動きが高まるとゴルバチョフは新たな国際体制を樹立する必要性に迫られることに。

1989年12月にはアメリカ合衆国のブッシュ(父)とソ連のゴルバチョフが地中海のマルタ島(正確にはマルタ島沖のソ連クルーズ客船マクシム・ゴーリキー内)で会談し、冷戦が終結が宣言された(マルタ会談)。


ゴルバチョフは1990年にソ連の大統領に就任し、共産党以外の政党の活動が認められた(複数政党制という)。
こうして彼は1990年のノーベル平和賞を受賞した。

しかし市場経済が導入されたことで、ソ連の人々の生活は苦境に陥り、批判も続出。ゴルバチョフは冷戦を終結に持ち込んだはいいものの、国内の体制を確立することに失敗していくのだ。

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混乱するソ連国内

1990年にはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア) がソ連からの独立を宣言すると、ゴルバチョフは武力を投入して放送局を占拠するなど、鎮圧しようとした(1991年の血の日曜日事件)。


ゴルバチョフを批判していたグループは、主に2つありました。今まで通りの社会主義路線を進めようとする「保守派」と、もっと市場経済を本格的に導入するべきだとする「改革派」だ。

外交的にはゴルバチョフは1991年7月に、第一次戦略兵器削減条約(STARTⅠ(スタート・ワン)。RはReduction(リダクション=削減)のR) をアメリカ合衆国のブッシュ(父)大統領と結ぶことにも成功。
また、同年7月にはワルシャワ条約機構(WTO、1955発足)も解散した

しかし8月、「改革派」のエリツィン(任1991~99)がロシア共和国の大統領に選ばれたことに対して「保守派がクーデタを断行。

このときゴルバチョフが軟禁されたのだが、国民はクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)を支持することはなかった。

この直後、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国は正式にソ連からの離脱が認められている(バルト三国の独立)。ゴルバチョフを救出したエリツィンはテレビ放送を通じて、そのたくみな弁舌により国民からの人気を博すようになっていく。



8月にゴルバチョフはソ連共産党の中央委員会(最高意思決定機関です)を解散し、12月にはソ連から全ての共和国が離脱してソ連共産党を解散(ソ連の消滅)。

もともとソ連だった領土は、ロシア連邦が引き継ぎ、ソ連の構成国はバルト三国を除いてCIS(独立国家共同体)に参加し、協力関係が維持されたけれど、しだいに形式化していった。



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