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人間の世界 生物の世界 地球の世界 "今"と"過去"をつなぐ世界史のまとめ 第1回

僕らは今、なぜこのような世界を生きているのだろう。

ばらばらになったり、まとまったりしながらも、とりあえず仕方がない、というように動き続けているわれわれの社会は、どのようにして今ある形になったのだろう。

一個の確固たる世界があるようでいて、そういうわけでもなく、区切られているようでいて、そういうわけでもない、あいまいなまま、はっきりとしないまま漂うこの世界は、一体どこに向かっているのだろうか。

""と"過去"をつなぎながら、世界史を、ゆるく、なんとなく、まとめていきます。


700万年前〜紀元前12000年


狩猟採集時代の人間の住む世界は、生物の住む世界の中に半ば埋もれるようにして誕生した。


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気候変動によって消えゆくアフリカのジャングルの隅っこで、人間のご先祖にあたる人類の一種は、生き抜くためにサバンナに出ることを選択した。荒凉としたサバンナの中にはハイエナの屍肉が転がる。それを巣に持ち帰り、メスたちのかき集めた植物性の食料とともに、みんなでご馳走を分け合った。出生率は低く、死亡率は高かった。しかし、そのようにして数百万年を生き抜いたこと自体が、彼らの適応能力の高さを示していると言える。



そうこうしているうち、約20万年前にわれわれ人間が生まれた。学名をホモ=サピエンスという。大脳新皮質が発達し、コミュ力に優れた人間は、「目には見えない」決まり事を生み出し、仲間うちで共有する能力に長けていた。30〜50人程度の小グループで生活していた人間集団は、やがて150人程度の中規模グループにまで拡大する。しかし前12000年までの地球は気候の変動が激しく、中規模グループが一定のエリアに定住することは至難のわざだった。そもそもそんなに大人数で生活をしていたら、感染症の流行リスクも高まる。移動をしていたほうが、むしろ好都合だったのだ。


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作家の吉村萬壱さんは「人類史において、人が他の動物に食い殺されなくなった歴史は短い」とし、「禽獣(きんじゅう)との間で食うか食われるかの死闘」を繰り広げてきた数百万年もの狩猟採集時代の人々に、「コロナによって食うか食われるかの死闘」を繰り広げる現在のわれわれの姿を重ね合わせてみせた(「コロナを生きる「おびえた狩猟民」」吉村萬壱さん寄稿、朝日新聞DIGITAL、2020年4月22日)。狩猟採集時代の人々は、小規模な集団で手の届く範囲を動き回っていたがゆえに、コロナウイルスのような感染症の大流行とは無縁の生活を送ることができた。しかしわれわれは大規模な人数が1カ所で定住生活を送る一方で、高度に発達した交通機関によって動きまわることが可能となったがゆえに、コロナウイルスのような感染症によって大打撃を受けてしまう。




一見コロナによって大規模定住生活を送る人間が「食い殺されている」ようにも見えるのだが、吉村さんに従えば、「禽獣」は「ウイルス」のことだけを指すのではない。コロナ以前にわれわれの社会の中に潜んでいた人間どうしの関係それ自体も、ある意味「禽獣」なのではないか。歴史家のマクニールは『感染症の世界史』の中で、人間が人間に寄生する様を感染症が人間に寄生する様子(ミクロ寄生)になぞらえて「マクロ寄生」と呼んだ。狩猟採集生活を終えた人間集団は他の動物に食い殺されなくなった代わりに、人間が人間に食い殺される社会を産み落とすことになったのだ。



スティーヴン・ピンカーのように、狩猟採集民の社会のほうが暴力に満ちていたという見解もある。しかし直接的な暴力のみが暴力ではない。大規模定住生活を送る人間たちの行動をコントロールする無形の力。それは狩猟採集生活から農耕・牧畜に基盤を置く社会において増大する。一方で、数千人、数万人の、顔の見えない人間同士の間に生起する無形の力にあらがうように、われわれの生活に狩猟採集生活時代の断片がぱっと姿をのぞかせることもある。不公平を嫌い、利他的にふるまう行動のルーツは、狩猟採集生活というより、もっと古く、遺伝子レベルにまで遡ることができるかもしれない(柳澤嘉一郎『利他的な遺伝子—ヒトにモラルはあるか』筑摩書房、2011年)。


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狩猟採集民の時代の地球の人口は、かつて500万人から1000万人程度であったと推定されている。人間の活動は地球という舞台にとって微々たるものだったのだ。もちろん生物の暮らす世界と人間の暮らす世界との間には、相互に交流し撹乱しあう関係性があり、両者ともに地球という舞台との間にも相互に影響を与え合っていた。



たとえばサンゴについて考えてみれば良い。海水中のカルシウムと二酸化炭素が結びついてできた炭酸カルシウムを取り込んだサンゴ虫は、サンゴ礁を形成。その死滅後に石灰岩が形成され、地球内部の運動によって陸上に押し上げられることもある。地球の世界と生物の世界が連続して存立している例である。いずれの動物も違いに影響を与え合いながら、地球という舞台に生存領域を形成しているのである。



前12000年頃に氷期が幕を閉じ、いくつかの地域で農耕や牧畜をベースにした生活が始まる。それ以降から現在に至る地質年代はながらく完新世(ホロシーン)と呼ばれてきた。しかし2000年に刊行された「地球圏・生物圏国際協同研究計画(IGBP)」のニュースレター上でオゾン層の破壊の研究でノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンと、藻類生態学者のユージーン・ストーマーが「The Anthropocene」という論考を発表。人間の活動が生物や地球に与える影響が顕著になった時期以降を、新たに「人新世」(じんしんせい、アントロポセン)地質年代として区分するべきだという彼らの意見に対し、2009年に国際地質科学連合が作業部会を立ち上げて検討し、区分の採用が現実味を帯びている。その始まりの年代として有力視されているのは18世紀半ばの、イギリスで産業革命が始まった時期だ。二酸化炭素やメタンの排出は農業が開始された時期に遡るという主張もあり、いまだ定説はない。



こういう意見もある。人間が地球を改変するほどの力を手にしたのならば、テクノロジーによってその改変を緩和させる方策を取ればいいのではないかというものだ。だがちょっと待ったほうがいい。なにも人間だけが「人間が地球を改変する力」を持つわけではないのだ。地球は単なる背景ではなかったし、これからも背景ではない。人間だけでなく、地球も、もともと自らを改変していく力を備えたアクターなのだ。そしてその力の行く末を、人間が見定めることなど、現在の科学的な水準によっては確率的な展望を述べることくらいしかできない。それなのにわれわれは長らく、人間の側にのみ、特権的にそのような威力が備わっているかのように錯覚してきた。



というか、そのように錯覚するに至ったのは、長いようで短い人間の歴史における、最近約数百年の期間にすぎないのである。そもそもわれわれはそのような「特別な時代(=近代以降)を生きている」という歴史感覚それ自体を疑ってみてもよいのかもしれないのだ。長い地球の歴史において、近代の痕跡とはいわば地殻の表面に形成されたコンクリートの塊にすぎないのかもしれない。とはいえそのようにして生物の世界から自らを隔離し、禽獣に食われずに済むようになった人間は、いつしか地球を無限で無機質な空間であるかのように錯覚するようになったわけである。狩猟採集民の持っていた半径数10キロの土地との結びつきは薄れ、地球圏から化石燃料やウランを掘削し、大気圏の組成や放射性物質の分布も組み替えるに至った人間。彼らがおのれの持つ力を正しく自覚するに至ったのは、まだたかだか数十年の話である。



だがその一方で先ほどのサンゴの例のように、人間以外の動物も、地球という舞台を改変しながら生を営んでいることに変わりはないことも事実だ。野生動物を介してコロナウイルスが人間と関係を持ったように、人間は地球だけでなく、無数の生物の世界と関係しながら生きている。HIV/AIDSの起源もベルギーの植民地時代に遡ることができるという。生物の世界から自らを隔離し、禽獣に食われずに済むようになった人間が、みずからの世界を拡大させることによって、かえって生物の世界との接触機会を増やしている現実がある。

歴史学者(中国史)の上田信によれば、かつて宋代以降の中国でトラによる被害が増えていったのは、人間の世界がトラの世界の側に踏み込んでいったからだという。

「敵対的関係は、しかし、相手を絶滅させることを必然とするわけではない。互いに相手の領域に踏み込まないための仕組みを造ることができるならば、「共存」はできる。つまり、野生動物と人間との折り合いの付け方が問題となる。ヘビやトラたちは、人間には窺い知ることのできない世界で生きている。…人間が認識している世界の外側に、人間の理屈が通用しない世界が存在している。その世界に人が踏み込まない工夫が必要だ。」(上田信『森と緑の中国史—エコロジカル-ヒストリーの試み』岩波書店、1999年、p.175)


なにも狩猟採集民が 「踏み込まない工夫」をしていたというわけではない。「野焼き」によって新芽を出し、そこに動物を誘い込む技術は、農耕・牧畜を導入する以前の狩猟採集民も行っていた。アマゾンやコンゴの原生林でさえ二次林が多い。真の原生林などこの地球上にはほとんど残されていないのだ。人間の踏み込みが過剰となっている対象は生物に限らない。石炭やウラン、それに淡水・海水・土壌などの非生物への踏み込みが加速すればするほど、それらが本来的には「人間が力を加える対象」ではなく、「人間に対して力を加える主体」であったことがますます明らかになるだろう。

さて、現在の地球人口は約77億人である。これから世界がどうなるのかという話ではなく、ちょっといったん後ろに反転して、現在地を確認してみたいと思う。そのポイントは、現在にいたるまで、人間の社会の中にあるさまざまな関係が、生物の世界と地球の世界との関わりの中でどのように変化していったのかというところにある。問題のルーツはどこにあるのか。どこにどのような落とし穴や盲点があったのか。なんでもかんでも「近代のせい」と考えて、それ以降の世界を「グローバル化(=ひとつになる時代)」と一括したり、それ以前の世界を一緒くたにするのではなく、これまでの経緯を丁寧に腑分けしてみることが肝心だ。まあそれでは次回は完新世に突入した世界を、ゆるく眺めていきたいと思う。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊