■連合国の占領政策
第二次世界大戦が終結すると、枢軸国であったイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドは1947年の講和条約締結により主権を回復したが、ドイツ、オーストリア、日本は、その後も占領が続いた。
ドイツとオーストリアは、米英仏ソの各占領軍によって、分割占領され、直接統治された。
ドイツの占領政策
ドイツは1945年6月に、アメリカ、イギリス、ソ連、フランスの4カ国に分割占領され、直接統治された。
ナチ党とドイツ軍は解体され、旧ナチ党員は公職追放された(非ナチ化)。ナチ党と軍の指導者は1945年11月から約1年間かけてニュルンベルク国際軍事裁判で、侵略や戦争犯罪、ユダヤ人の大量殺害の責任が問われた。ナチ党や軍部の最高責任者12名が死刑となった。
占領地区では政党活動が認められ、州議会選挙、州首相の選出、州憲法の制定がおこなわれた。
日本の占領政策
日本では、占領軍による直接統治は受けず、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の指令・勧告を受け、日本政府が政治をおこなう間接統治の方式がとられた。
戦勝国により構成される極東委員会が占領政策を決定する最高機関であったものの、連合国軍最高司令官にはアメリカ合衆国のマッカーサーが就任し、実質的にはアメリカの単独占領であり、日本政府を通じた間接統治には、アメリカの意向が強く反映された。
なお、南西諸島と小笠原諸島はアメリカ軍の直接統治下におかれ、北方領土と南樺太にはソ連軍が侵攻したままとなった。
マッカーサーは、占領政策をスムーズにすすめるためには、天皇制の維持が不可欠であるととらえ、天皇制は維持された。
戦争責任は、連合国に任命された判事らによって、極東国際軍事裁判(東京裁判)において裁かれた。責任が向けられたのは、軍部、閣僚、官僚だった。
資料 「人間宣言」(1946年1月1日)
■日本の戦後改革
GHQは、日本を占領するなかで、非軍事化と民主化をめざした。そこで1945年10月に、マッカーサーは五大改革を日本政府に指令した。
同時に、大日本帝国憲法の改正も進められた。GHQが独自に作成した草案にもとづき、日本政府が憲法改正案を作成した。
GHQは日本政府に女性に対する参政権の付与を支持し、日本政府はこれを認めた。戦時中に、国防婦人会をはじめ、女性が社会的に多様な活動をしていたことも背景にあった。
1945年12月に改正された衆議院議員選挙法にもとづき、1946年4月には戦後初の総選挙がおこなわれた。そこでは39名の女性議員が誕生している。
資料 戦後初の総選挙のポスター「貴いもの」
1946年に日本国憲法は、帝国議会での一部修正を経て可決された。
改正された憲法は「日本国憲法」とされ、1947年に施行された。
資料 『あたらしい憲法のはなし』(1947年)
戦後間もない国民生活は非常に苦しく、食糧難や物資難が人々を襲った。主要都市は空襲により壊滅しており、人々は生活物資を求めて駅前や広場の闇市んみ走ったが、あらゆる品物が高額で売買されていた。都市には路上生活をする戦災孤児たちも多くいた。
資料 タンパク質とカルシウムの1日当たり摂取量の推移
治安維持法などの制度が廃止され、日本共産党員などは釈放された。政党が復活され、言論統制が解かれたことから、政治運動が活発化し労働組合や農民組合の組織も広がった。
しかしGHQはメディアを検閲していたため、連合国に対する批判、反米思想や軍国主義を想起させるような内容には規制がかけられ、出版物は検閲された。
政党政治が復活すると、戦前の2大政党の流れを継承する政治家は、日本自由党と進歩党(のちの民主党)などの保守勢力を形成し、1946年4月の衆院選で日本自由党が第一党となり、民主党と連立して第一次吉田茂内閣(1946.5〜1947.5)が成立した。
しかし、食糧難を背景に、革新勢力も人々の支持をあつめた。
しかし、1946年5月の食糧メーデーはGHQによって沈静化され、1947年に計画されていた官公庁の労働者を中心とするゼネラル・ストライキ(二・一ゼネスト)も、GHQの命令により中止された。日本において社会主義的な運動が活発化することをおそれたためである。
1947年4月、新憲法施行にむけた衆院選で躍進し、第一党となったのは、日本社会党であった。日本社会党の片山哲(1947.5〜1948.3)は首相となり、民主党と国民協同党と連立内閣を結成。
保革をまたぐ中道政権が成立した。
左派の躍進をおそれるGHQは、この中道政権を歓迎し、片山哲内閣が倒れた後も、同じ3党の連立内閣が民主党の芦田均により組織された。
資料 黒澤明『我が青春に悔なし』(1946年)
■変わる「日本」と「日本人」の範囲
日本降伏とともに、植民地・占領地・戦地にいた軍人・軍属や、民間人が日本内地に強制的に送還された。軍人・軍属の送還を日本では「復員」といい、民間人については「引き揚げ」という。
戦後直後の混乱のなかで、捕虜になったり、置き去りにされたり、あるいは残留したりと、壮絶な体験をした個人も多かった。
資料 引き揚げ体験者による作品 藤原てい『流れる星は生きている』(1949年)
清岡卓行『アカシヤの大連』(1969年)
五木寛之『デラシネの旗』(1975年)
資料 シベリア抑留体験者による作品
高杉一郎『極光のかげに—シベリア俘虜記』(1950年)
石原吉郎『望郷と海』(1972年)
その他