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新科目「歴史総合」を読む 2-3-8. 連合国の占領政策と戦後改革

メイン・クエスチョン
「敗戦と占領により、敗戦国は「戦前」とはまったく異なる国として生まれ変わった」という説明は、どこまで正しいのだろうか? 

人々の意識にも注目し、日本とドイツを比較しながら考えてみよう。


■連合国の占領政策

サブ・クエスチョン
敗戦後に連合国に占領された日本とドイツは、その占領政策と改革にどのような違いがあったのだろうか?

サブ・サブ・クエスチョン
連合国は、敗戦国(ドイツと日本)をどのような方針で占領したのだろうか?

 第二次世界大戦が終結すると、枢軸国であったイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドは1947年の講和条約締結により主権を回復したが、ドイツ、オーストリア、日本は、その後も占領が続いた。

 ドイツとオーストリアは、米英仏ソの各占領軍によって、分割占領され、直接統治された。

ドイツの占領政策


 ドイツは1945年6月に、アメリカ、イギリス、ソ連、フランスの4カ国に分割占領され、直接統治された。
 ナチ党とドイツ軍は解体され、旧ナチ党員は公職追放された(非ナチ化)。ナチ党と軍の指導者は1945年11月から約1年間かけてニュルンベルク国際軍事裁判で、侵略や戦争犯罪、ユダヤ人の大量殺害の責任が問われた。ナチ党や軍部の最高責任者12名が死刑となった。
 占領地区では政党活動が認められ、州議会選挙、州首相の選出、州憲法の制定がおこなわれた。


日本の占領政策


 日本では、占領軍による直接統治は受けず、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の指令・勧告を受け、日本政府が政治をおこなう間接統治の方式がとられた。
 戦勝国により構成される極東委員会が占領政策を決定する最高機関であったものの、連合国軍最高司令官にはアメリカ合衆国のマッカーサーが就任し、実質的にはアメリカの単独占領であり、日本政府を通じた間接統治には、アメリカの意向が強く反映された。

 なお、南西諸島と小笠原諸島はアメリカ軍の直接統治下におかれ、北方領土と南樺太にはソ連軍が侵攻したままとなった。



 マッカーサーは、占領政策をスムーズにすすめるためには、天皇制の維持が不可欠であるととらえ、天皇制は維持された。
 戦争責任は、連合国に任命された判事らによって、極東国際軍事裁判(東京裁判)において裁かれた。責任が向けられたのは、軍部、閣僚、官僚だった。

資料 「人間宣言」(1946年1月1日)

https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056/056_001l.html



■日本の戦後改革

サブ・クエスチョン
日本国憲法によって、国家の仕組みはどのように変わったのだろうか?

 GHQは、日本を占領するなかで、非軍事化民主化をめざした。そこで1945年10月に、マッカーサーは五大改革を日本政府に指令した。

 同時に、大日本帝国憲法の改正も進められた。GHQが独自に作成した草案にもとづき、日本政府が憲法改正案を作成した。
 GHQは日本政府に女性に対する参政権の付与を支持し、日本政府はこれを認めた。戦時中に、国防婦人会をはじめ、女性が社会的に多様な活動をしていたことも背景にあった。
 1945年12月に改正された衆議院議員選挙法にもとづき、1946年4月には戦後初の総選挙がおこなわれた。そこでは39名の女性議員が誕生している。


サブ・サブ・クエスチョン
戦後、女性の権利は、どのように変わったのだろうか?




資料 戦後初の総選挙のポスター「貴いもの」

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資料 宮本百合子「一票の教訓」(1946年)
(前略)婦人の参政権が認められてから、総選挙まで、私たちは幾度、日本の婦人は政治に無関心だという批評をきいて来ただろう。また、何度、どうせ棄権さ、という言葉をきかされて来たであろう。選挙準備の期間を通じて、新聞が報じたのは、選挙に対する一般の気のりうす、低調ということであった。
 ところが、いよいよ結果が検べられてみると、先ず棄権率が非常にすくなかったことがわかった。全国平均僅か二割七分七厘の棄権しかなかった。そして、意外に多勢の婦人立候補者が当選した。婦人立候補者の四割八分ほどは当選して、二十八歳から六十六歳まで、三十九名の婦人代議士が、新しい明日に向って選び出されたのである。しかも、これらの婦人代議士の中には、それぞれの選挙区で最高点を得た人が五名もあった。棄権率のすくなかったこと、予想外に婦人に投票が集まったこと、この二つを世界が注目すべきこととした。
 同時にこの総選挙の結果は、日本が民主の国として再建設されてゆくことがいかに困難な事業であるかということをも、おおうところなく国際間に証明した。総選挙という方法は民主の方法であろうが、その方法を通じて反映された今日の日本の現実は、どんなに国内の保守の権力が根づよく、組織的で、日本が民主化して行こうとする進路をふさいでいるかという事実が、外人記者の観察にもはっきり語られたのである。総数四六四名の代議士が、各自所属している政党を眺めても、これは一目瞭然であろう。(中略)
そして、婦人代議士となった婦人たちの社会的地位も、おのずから彼女たちが名のりをあげた政党の特徴を反映している。自由党の竹内茂代女史が大日本婦人会の理事であったことは知らぬもののない名流女史であるし、校長、自由党支部長夫人、病院長などが出ている。進歩党その他の婦人代議士も、大体元代議士夫人、女流教育家、社長夫人、娘、重役、病院長、婦人会関係の知名婦人等が多数を占めていることは注目される。僅かに社会党の山崎道子氏が、多年社会事業方面の事業の経験者であり、共産党の柄沢とし子氏が、労働組合活動の深い経験をもっているのが目につく。一人一人の婦人代議士についてきけば、それぞれに立志伝はあるであろう。小学校訓導をふり出しにして、今は高等女学校の校長となり、或は小学校を卒業したばかりで、どういういきさつにもせよ、今度立候補して当選する度胸がつくまでに、これまでの日本は、女一人をたやすく歩ませては来なかったに相違ない。しかし、この個人個人の奮闘史は、今日の彼女たちにとっては、誇りある経歴となっている。そのことが、とりも直さず、現在のこれらの人々が功成りたる地位にある人々であることを語っているのである。(中略)婦人代議士たちは、いま危険な立場にある。自由党、進歩党の首領たちは、過日「婦人に得票をくわれた」と表現した。自党から立った婦人代議士に対して、これら保守の党は、どんな責任と義務とを感じているのだろうか。今のところ、まるでその実在性を念頭においてさえもいないように見える。保守の党が中央部、又は執行機関に婦人代議士を一人も包括しようとしていないばかりか、社会党も、婦人代議士は婦人部で、という風で、一政党の政策というよりも社会政策的な婦人部案を発表している。これらの立場は女としてはた目にも切ない。婦人代議士たちは代議士になってみて、今更切実に、既成政党が婦人代議士に求めていたものは、宣伝の色どりであって、実質的な政治への参加でもなければ、婦人の社会的、政治的成長でもなかったことを知らされているのである。婦人代議士の質が低いためばかりでなく、既成政党の本質的な封建性のあらわれなのである。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/3441_12347.html
戦後初の総選挙で誕生した女性代議士(1946年)(パブリック・ドメイン、 File:First Japanese Congresswomen.jpg)



 1946年に日本国憲法は、帝国議会での一部修正を経て可決された。
 改正された憲法は「日本国憲法」とされ、1947年に施行された。


資料 『あたらしい憲法のはなし』(1947年)

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サブ・クエスチョン
占領下の人々は敗戦をどのように受け止め、政治に対してどのようなことを望んだのだろうか?

 戦後間もない国民生活は非常に苦しく、食糧難や物資難が人々を襲った。主要都市は空襲により壊滅しており、人々は生活物資を求めて駅前や広場の闇市やみいちんみ走ったが、あらゆる品物が高額で売買されていた。都市には路上生活をする戦災孤児たちも多くいた。

資料 タンパク質とカルシウムの1日当たり摂取量の推移

(出典:出典:「国民健康・栄養調査」(厚生労働省)結果、https://grooveworks.co.jp/?p=6050より)


 治安維持法などの制度が廃止され、日本共産党員などは釈放された。政党が復活され、言論統制が解かれたことから、政治運動が活発化し労働組合や農民組合の組織も広がった。
 しかしGHQはメディアを検閲していたため、連合国に対する批判、反米思想や軍国主義を想起させるような内容には規制がかけられ、出版物は検閲された。

 政党政治が復活すると、戦前の2大政党の流れを継承する政治家は、日本自由党と進歩党(のちの民主党)などの保守勢力を形成し、1946年4月の衆院選で日本自由党が第一党となり、民主党と連立して第一次吉田茂内閣(1946.5〜1947.5)が成立した。

 
 しかし、食糧難を背景に、革新勢力も人々の支持をあつめた。
 しかし、1946年5月の食糧メーデーはGHQによって沈静化され、1947年に計画されていた官公庁の労働者を中心とするゼネラル・ストライキ(二・一ゼネスト)も、GHQの命令により中止された。日本において社会主義的な運動が活発化することをおそれたためである。

 1947年4月、新憲法施行にむけた衆院選で躍進し、第一党となったのは、日本社会党であった。日本社会党の片山哲(1947.5〜1948.3)は首相となり、民主党と国民協同党と連立内閣を結成。
 保革をまたぐ中道政権が成立した。
 左派の躍進をおそれるGHQは、この中道政権を歓迎し、片山哲内閣が倒れた後も、同じ3党の連立内閣が民主党の芦田均あしだひとしにより組織された。

資料 坂口安吾『堕落論』
 昨年八月十五日、天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言うけれども、日本歴史の証するとこを見れば、常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり方策であり、奥の手であり、軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民又この奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰おおづめの一幕が八月十五日となった。
 たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕ちんの命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
 我等国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍たけやりをしごいて戦車に立ちむかい土人形の如くにバタバタ死ぬのが厭いやでたまらなかったのではないか。戦争の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、又、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨みじめとも又なさけない歴史的大偽瞞だいぎまんではないか。しかも我等はその偽瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当りをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するが如くに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎なれており、その自らの狡猾こうかつさ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益ごりやくを謳歌している。何たるカラクリ、又、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑つかれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/56814_58010.html


資料 黒澤明『我が青春に悔なし』(1946年)




■変わる「日本」と「日本人」の範囲

サブ・クエスチョン
「敗戦」と「占領」により、日本と日本人の範囲は、どのように変化したのだろうか?

 日本降伏とともに、植民地・占領地・戦地にいた軍人・軍属や、民間人が日本内地に強制的に送還された。軍人・軍属の送還を日本では「復員」といい、民間人については「引き揚げ」という。
 戦後直後の混乱のなかで、捕虜になったり、置き去りにされたり、あるいは残留したりと、壮絶な体験をした個人も多かった。

資料 引き揚げ体験者による作品 藤原てい『流れる星は生きている』(1949年)

清岡卓行『アカシヤの大連』(1969年)

五木寛之『デラシネの旗』(1975年)



資料 シベリア抑留体験者による作品 

高杉一郎『極光のかげに—シベリア俘虜記』(1950年)

石原吉郎『望郷と海』(1972年)


その他




 

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