見出し画像

1.3.6 西ローマ帝国の滅亡 世界史の教科書を最初から最後まで

「3世紀の危機」にピリオドを打ったのは、ディオクレアヌス帝というバルカン半島出身の皇帝だ。

画像1

彼は「3世紀の危機」を収拾する能力のないローマの元老院に気を遣うのをやめ、皇帝が強い力で全土の軍団を支配下に入れようとした。

しかし、たった一人で全土を担当するのは至難の業。

ローマ帝国を東西に分け、西に正帝・副帝の2人、東にも正帝・副帝の2人を置き、4人で分担して支配しようとした。これを四帝分治制(テトラルキア)というよ。

画像2

ディオクレアヌスは東ローマの正帝に即位。現在でいうトルコ・シリア・エジプトに相当する地域だ。

画像10


都はニコメディアに置かれ、ローマ帝国の政治的・経済的な重心は東の方に移動していくことになった。

また、彼は自分のことを神として礼拝させ、政治的な決定をするときにも元老院の同意なしで行う形をとった。
アウグストゥス以来の、元老院を重んじる元首政(プリンキパトゥス)の否定だね。

画像5



当時広がりつつあったキリスト教徒たちは、皇帝礼拝に従わないということで大弾圧に遭っている。

そんな彼以降のローマ帝国のことを「専制君主政」(ドミナトゥス)というよ。


306年(今から2700年ほど前)に即位したのはコンスタンティヌス帝(在306~337)。

画像4


彼はディオクレアヌス帝の政策を引き継ぎ、軍隊をパワーアップさせて帝国の統一を守ろうとした。

当時増えていた小作人(コロヌス)の居場所を把握するために、彼らの移動を禁止。税収入を確保しようとした。
そうして増やした財政によって、ローマではなく商業の中心地であったビザンティウム(現在のトルコの首都があるイスタンブル)に首都を建設。みずからの名を冠してコンスタンティノープルとしたよ。



彼により整備された巨大な官僚機構によって地方の都市の衰退はますます進んだ。上層市民たちも、「都市における名誉」や「自由」よりも、巨大な国家組織の一員としての「出世」を望むようになる。
トップダウンの政治によって人々の自由な活動は制限されるようになっていったんだ。

一方、彼はキリスト教徒の信仰を認める姿勢を示したようだ(いわゆるミラノ勅令)。
そうせざるをえないほど、キリスト教の信仰が広まりを見せていたということでもある。

しかしコンスタンティヌス帝の改革は、さらなる重税となって属州にのしかかり、属州による反乱を招いた。
また国境付近の軍団も、自前でゲルマン人などの異民族の侵入を防ぐことが難しい状態となっており、ゲルマン人の一派を「外国人部隊」として採用することも普通となっていた。



そんな中、ウクライナの草原地帯からフン人という騎馬遊牧民が侵入。

375年にはゲルマン人の一派のゴート人が、フン人に従う形でドナウ川北岸に押し寄せてきた。
もはや押し止めることはできず、376年にはおびただしい「難民」がドナウ川を渡ってローマ帝国内になだれ込む。
これが世にいう「ゲルマン人の大移動」だ。


その混乱の中で即位したテオドシウス帝(在位379~395)は、キリスト教以外の宗教を禁止することで帝国の一体性を図ろうとする。

画像7

しかし、ゲルマン人が帝国内に定住することを禁止することはできなかった。

もはや帝国を一人で支配することができないと判断したテオドシウス帝は、帝国を東西に分割し、2人の子に分け与えた。



その後、この広大なローマ帝国が1人の皇帝によって支配されることは二度となかった。


これがいわゆる「ローマ帝国の東西分裂」である。



しかし、「元老院とローマ市民」の支配するローマの支配機構はその後も東西に残された。
とくにコンスタンティノープルに都を置く東ローマ帝国(ローマ帝国の東半)の皇帝は、強力な官僚組織と活発な商業を背景に、大きなパワーを発揮した。



西ローマ帝国(ローマ帝国の西半)では、476年にローマ皇帝がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルに退位させられるという事件も起きる。

画像3

しかし、各地のローマ人の上層市民の力は依然として強く、「元老院」の権威がなくなったわけではなかったんだよ。

「ローマ的な価値観」は、この時代から800年(今から1400年前)くらいにかけての「古代末期」と呼ばれる時期に、徐々に「キリスト教的」「中世的な価値観」へと変化していくことになるよ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊