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【ニッポンの世界史】第8回:ヨーロッパの「妄想」に挑んだ2人—飯塚と上原

「世界史」には決まりきった、客観的な構成があると思っていませんか? 
そんなことはありません。その構成は、いわば繰り返し訂正されつづける物語のように、長い歴史の中で何度も定義されなおし、いまなお変身の途上にあります。

日本人の描く世界史には、日本人が世界や歴史を見るときに突き当たる「困難」が色濃く反映されている
そして、日本における「世界史」は、教科書を中心とする”公式”世界史と、それに対抗する”非公式”世界史のせめぎ合いのなかで再定義されてきた。

——このような視点、そして世界史をトータルに扱う高校教員である私の立場から、「ニッポンの世界史」をよみとく文脈を明らかにすることで、国内外、専門家・非専門家のいずれの著者に関わらず分け隔てなく世界史を批評する観点を提示し、世界史の描き方の現在地と未来を探る試みです。

 1949年に「世界史」という科目が設置され、戦前の西洋史・東洋史・国史(日本史)をのりこえる「世界史」構想が本格的にはじまりました。しかし、これまで見てきたように、世界史に対するマルクスの唯物史観の影響力は、年々強まっていきます。

 特に1947年9月に、マルクス未完の草稿である『資本制生産に先行する諸形態』(ロシア語で執筆)が翻訳され『歴史学研究』に掲載、1949年に書籍として刊行されたことは、大きなインパクトを与えました。
世界のどの地域も一様のスピードで発展してこなかったとするならば、たとえば日本は、アジアはなぜ立ち遅れてしまったのだろう?
 敗戦後の日本の研究者は、自分たちじしんの切実な問題として、この問いを引き受けたのです。

 同じ1949年には歴史学研究会(当時の代表は江口朴郎(1911〜1989))が「世界史の基本法則」をテーマにシンポジウムをひらき、のちに単行本化されています。
 やはり1949年からは、これまた壮大なスケールの『社会構成史体系』(全25巻、日本評論社)の出版がはじまります。
まさにマルクス主義的な発展段階論なくして、世界史を考えることはできないという状況でした。



 発展段階論は、それぞれの社会は基本的に一国的に、自律的に発展していくのだという考え方に立っていました。外からの影響より、内部の自発的な発展を重要視するわけです。
 ですから、世界を複数の文明に分け、それらの交流や相互作用によって世界が総体的に発展していくという見方はとらない。アジアにおいては、専制的な国家の支配がつづき、それが社会の停滞につながり、自律的に発展することができたヨーロッパの資本主義的支配に飲み込まれてしまう。そんな見通しを描くものです。


 こういった見方に対しては、石田英一郎(1903〜68)や林健太郎(1913〜2004)のように、早くから批判を試みるものもありました。
 しかし、より根本的な批判を試みたものとして重要なのは、飯塚浩二(1906〜1970、写真)と上原専禄(1899〜1975)の仕事でしょう。


上原専禄(Public Domain, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%B0%82%E7%A6%84#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Senroku_Uehara.jpg)



 飯塚は人文地理学、上原専禄は中世ドイツ史を専門とする歴史学者で、どちらも現在ではあまり読まれなくなってしまいましたが、日本人にとって世界史とは何かを考えるにあたっては、この2人の仕事を見過ごすことはできません。土肥恒之『日本の西洋史学』や石原保徳 『世界史への道(上巻)』、上原専禄全集 第19巻・25巻、両者の手がけた著作を手がかりに、2人が「ニッポンの世界史」に果たした役割を考えていきましょう。



飯塚浩二:アジアの眼で世界史をみる


飯塚は1906年に東京に生まれ、1930年に東京帝国大学経済学部を卒業すると渡仏し、ソルボンヌ大学で地理学を学びました。戦中の1943年に東京帝大の教授に就任し、ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュの『人文地理学原理』を翻訳しています。
 歴史学畑ではない飯塚でしたが、戦後の世界史構想に積極的に関わります。
『世界の歴史』全6巻(毎日新聞社出版室図書編集部編)を江上波夫らとともに企画・編集し、1954年に出版した第6巻で次のように述べています(注1)。


 ヨーロッパが——イギリス以外の国々はイギリスの驥尾(きび)に付してというかたちにおいてであるが——ついこの間まで、世界をわがもの顔にふるまい、地球はヨーロッパのためにあったかのごとく思い上がるという自体は、ともあれ、このようにして成立した。最初の世界地理、そして最初の世界史はこの雰囲気において素描された。二千数百年来、ヨーロッパが世界をリードして進んで来たかのような妄想が、世界の歴史家たちの固定観念にまでなってしまったのも、この段階においてである。
 この雰囲気において再構成された世界史が、ヨーロッパ人の独善的立場をおく面もなくまるだしにしたものであったこと、東洋についてはもちろん、西洋の古代や中世についても、何より、「近代」ヨーロッパ人の眼で読みとったものであったことは、争うべからざる特色であった。ただ、このかんじんな点があまりにもしばしば、彼らにおいても、われわれにおいても、みごとに忘れられているというだけでのことである。

飯塚『世界の歴史』第6巻



 日本人が盲目的に受け取ってきたこれまでの世界史は、近代になって西洋が東洋に対して優位に立って以降、西洋人によって書かれたものにすぎない。とくに「世界の一元化」がイギリスによって進められていく中で、ヨーロッパ人が思い上がった世界観を抱き、あたかも自分たちが世界を一望できるかのような世界史を「妄想」しただけなのだ。

 にもかかわらず、それ以前の時代においても、西洋が東洋に対して優れていたとするのは、たんなる錯覚だ。

 西洋からみれば辺境にあたる地域で活動したヴァイキングやスラヴ人によっても、「大商業は近代以前にも大いにおこなわれ、なにほどか文化の仲介者、伝達者の役割をも果たしていた」のだし、特に前近代においてはイスラーム商人の陸海の活動が無視できない(飯塚『世界の歴史』第6巻、257頁)。
 アジアの側からアジアを見たうえで、東洋と西洋のあいだに注目し、世界史を叙述するべきだというわけです。




上原専禄:「自己・日本・世界」の三点測量


 上原は京都の日蓮宗の檀家に生まれ、東京商科大学(現在の一橋大学)専攻部経済学科に進学し、同研究科を経て、ウィーンに留学。現地語の史料を用いて、本格的な史料批判を学んだことは、今でこそ当たり前となっていますが、当時としては珍しいことでした。

 1928年に東京商科大学の教授に就任し、戦後は1946年8月より学長に就任し、3年間新制一橋大学の運営に尽力。1949年1月から教授として研究に復帰しますが、戦後は中世ドイツ史というより、飯塚と交流をもちながら、これからの時代の「世界史」はどうあるべきか、積極的に活動を続けました。

「世界史をどう見るか」——なぜ上原はこれに没頭したのでしょうか。彼自身、つぎのように述べています。


 今日、筆者を世界史認識の仕事へと駆り立てている研究の一般的動機は、太平洋戦争終結直後、新しい歴史的現実のもとで新しい規範を発見しようとして筆者が行なった「歴史的省察」のなかに横たわっている、と思う。その省察において、「世界」と「日本」と「自己」との三者を同時に省察の対象にすえざるをえない、と考えた筆者の施工方法は、その後二十数年を経た今日にまで存続している。

上原「世界史の起点」1968年、『上原専禄著作集25』1987年所収、560頁



 上原の言いまわしには、独特なところもあるのですが、私なりに言い換えれば、世界史をとらえるときに、自分を抜きにして日本と世界の関係だけとらえるのはダメ(自分自身は蚊帳の外になってしまう)、日本を抜きにして自己と世界だけをとらえてもだめ(これはセカイ系的世界史?)、もっといえば、自分も日本もなく「世界の歴史」を描くというスタンスなどもってのほか、といったところでしょうか。

 上原がこだわったのは、世界史を描く「主体」は誰か、ということです。
 まず自己があって、その自己を日本のなかに置く。その日本が、世界との関係のなかで、特有の問題に関わっていく。

 上原の場合、それは終戦直後の生活の問題であったり、平和の問題であったり、具体的な問題であったわけです。自分の人生にとって、そしてそれを生み出す日本と世界が同時代的に生み出す問題に対する切実な意識が、世界史を認識する主体に備わってなければならない。


 だとすれば、これまでの世界史の描き方は、1950年代はじめの世界と日本の現実(歴史的現実)とはかけ離れてしまっていやしまいか
 歴史的な現実に即して、これまでの西洋中心主義的な世界史、あるいはマルクス主義的な世界史に代わる新しい世界史を考えるべきだ。
 そのように考えたのです。



 教授職として研究に復帰して5年が経った頃、上原は『世界史講座』(1954〜56年。全8巻、江口朴郎、尾鍋輝彦、山本達郎とともに監修・出版された。東洋経済新報社刊)に関わります(注2)。

 これは中高の世界史の先生が教育に役立つものをつくろうということで、上原が指導したもので、「現代の日本人の眼からみた世界史」を具体的に構想したものです。

 マルクス主義の発展段階論では、ヨーロッパとアジア(このなかにイスラム・インド・中国が含まれる)をざっくりタテ割りにし、古代→中世→近代というように、それぞれの発展進度にしたがいヨコ割りするもの。

 これに対しこの頃の上原がとったのは、①東アジア世界・②インド世界・③イスラム世界・④ヨーロッパ世界の4つの歴史的世界(「文明圏」)タテ割りし、それらが別個にすくすく発展して、その上で相互に接触していくという見方です(「文明圏」という言葉は、トインビーを想起させますが、上原がトインビーに対して述べたものはみられません)。

 飯塚と同様、マルクス主義的な見方とは異なる世界史の見方を提示したわけですね。


 また、上原は共同討議のなかで、民主主義というと、とかく西洋で育った民主主義をあつかい、東洋には民主主義はないと教えると指摘する中東史を専門とする三木亘(1925〜2016)に対し、つぎのようにも発言しています。

 それは社会観として民主主義が観念的に考えられておったからでしょう。西洋の歴史における民主主義のあり方は、民主主義一般というものではない。西ヨーロッパが民主主義というものを独占的に代表しているという考え方ではいけないのです。歴史的に見るのならば、ヨーロッパ近代の民主主義と違った民主主義というものがありうるということになるのですね。世界史を学習して、それを媒介として、いまの日本の現実問題の歴史的性格がつかめるならば、それでいいということになるでしょう。

同上


 彼が「観念的」な世界史を徹底的にしりぞけていたことが、よくわかると思います。
 あくまで、たとえるならば自己と日本と世界を結び、「三点測量」をするかのような世界史を認識しようとしたわけです


 では、以上のような飯塚と上原の慧眼は、一体何によって刺激されたものだったのでしょうか?
 その鍵は、まさに同時代のアジアで巻き起こっていた新潮流にありました。

(続く)





注1)「西洋中心的な世界史をあらためるべきだ」という主張は、1970年代以降、今にいたるまでさかんですが、やはり1950年代前半の飯塚・上原の主張を抜きにして語ることはできません(戦中の京都学派による主張については、後に検討します)。

注2)この第8巻のはじめにでは次のように述べられています。
 第8巻に掲載されている「世界史の理論」に関する共同討議の趣旨には、こう述べられています(クレジットがついていないので、江口・尾鍋・山本・上原のうちの誰によるものかはわかりません)。
「第一の理由は、これまで「世界史」というものが、だいたい存在しなかったということである。教科書や概説所で「世界史」と銘うったものはあったし、抽象的な「世界史的」法則を説くものも数多くあった。しかし、それは多く「東洋史」と「西洋史」のつぎはぎであったり、階級・文明圏・世界といった歴史学の対象ないし場について具体的に考えることなく、抽象的な「法則」のアプリオリな普遍妥当性を説くものであったりして、全地球的な規模での世界を、一貫してその生成と展開において、歴史学の意識的・具体的な対象としてとらえようとした、真の意味での「世界史」は、すくなくとも日本においては、まったく存在しなかったと断言してさしつかえないと思う。」
 ようするに、これまでの日本人のこしらえた世界史は、「東洋史」と「西洋史」を単にくっつけたものか、マルクス主義などの法則にあてはめただけの抽象的なものに成り果てている、と批判しているわけです。
 そもそも、「なぜ「東洋史」や「西洋史」、あるいは「イギリス史」や「中国史」でなく、「世界史」でなければならないのか、また、なぜそういう「世界史」でなければならないのか、また、なぜそういう「世界史」をやらなければならないのか」、そのレベルから考える必要があるのではないか。
 さらにまた、次のようにも述べられています。
「第二の理由として、私たち日本人の世界史像形成の見とおしをあげてよいと思う。私たちの世界史像形成は、この共同討議のなかに指摘されているヨーロッパ人の場合と同じように、ここ当分は、本質的に他律的・受動的な仕方を運命づけられている面があるのではなかろうか。」
 これはどういうことかというと、日本人にとっての「世界史」は、自分たちでつくりあげていくもの、イメージを練り上げていく必要があるものとして存在するのではなく、外からの力が働いて、受け身の形で存在しているんじゃないか、ということを言っているんですね。
 日本人にとって世界史とは何か。
 それは、「世界史とはこういうものだ」と、外からやって来るのを受け身でうけとるような歴史になっているのではないか。
 われわれ日本人は、世界史の認識が「受け身」なのがいけない。主体的に世界史と向き合い、アジアのなかの日本として、「アジアの現実と真正面からとりく」む必要があるというのです。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊