■アジア・アフリカの脱植民地化と地域紛争
第二次世界大戦後に独立したアジア、アフリカの旧植民地では、独立後も経済的に旧宗主国の影響がのこされ、経済的な自立が課題となったが、植民地支配によってつくりだされた民族の分断により、独立後も貧困や飢餓、政情不安に苦しんだ。
資料 国連加盟国数の推移
■南アジアの脱植民地化
第二次世界大戦後に、南アジアでも脱植民地化がすすんだ。
イギリスから分離独立したインドとパキスタンの間には、北部のカシミール地方をめぐる戦争が勃発した(印パ戦争)。
独立運動の指導者であったガンディーは、国家機構から距離をとり、インドの首相にはネルーが就任した。ガンディーは、ヒンドゥー教徒に1948年に暗殺されている。
ネルー首相は、国家主導による工業化を目指し、1951年に第一次五か年計画が始まった。国家による経済統制をともなう方向性は、同時代の世界にひろくみられたものだった。1954年にネルーはインドは社会主義型社会を目指すべきであるとしたが、公共・私企業両部門の併存する体制(混合体制)という形を残した柔軟なものだった(参考:内藤雅雄『世界史史料11』153-155頁)。
パキスタンは、イランに接する西パキスタンと、東部のベンガル地方の東パキスタンに分かれており、首都は西パキスタン側にあった。
東パキスタン側は、サイクロンによる被害を受けやすく、言語的にはベンガル語の話者が多かったため、西パキスタン中心の政治に対する不満が高まった。1971年にはインドが東パキスタンでおきた独立運動を支持して介入したため、東パキスタンはバングラデシュとして独立した。
なお、インドは中国との国境紛争も抱え、1962年には武力衝突に至っている。1960年代に中ソ対立が激化すると、インドは、中国の対立するソ連に接近するようになり、インドに対立するパキスタンは、アメリカや中国に接近するようになった。このため南アジアも、米ソ冷戦構造にいやおうなく組み込まれることになった。
■アフリカの脱植民地化
1957年に、アフリカのンクルマ(エンクルマ)が指導をし、イギリスの植民地であった黄金海岸が「ガーナ共和国」として独立した。
ンクルマは、アフリカのほかの植民地の独立や連帯にも積極的であったため、アフリカ各地の独立運動が活発化した。
1960年にはじつに17か国もの国々がいっせいに独立したので、「アフリカの年」とも呼ばれる。
アフリカ諸国はアフリカ統一機構(OAU)を結成し、汎アフリカ主義にもとづく連帯をめざしたが、なかなかうまくいかなかった。
しかし、独立後も鉱山やプランテーションの利権を求めて、旧宗主国や欧米諸国が独立国内の諸勢力に介入したため、しばしば内戦が引き起こされた。
たとえば銅鉱やウラン鉱の分布するコンゴでは、独立後にベルギーをはじめとする欧米諸国の干渉を受け、コンゴ動乱とよばれる内戦が勃発。独立の指導者であったルムンバは処刑され、欧米諸国の支持する軍人が後継となった。
なお、イギリスの自治領であった南アフリカでは人種隔離政策(アパルトヘイト)が推進され、1991年まで黒人に対する国家的差別は続いた。
■中東の脱植民地化
アラブ諸国
中東のアラブ人地域は、第一次世界大戦後に英仏の委任統治領や保護国とされていた。
1930年代以後、第二次世界大戦の前後に多くの国が独立したものの、1948年にユダヤ人がパレスティナにイスラエル国を建国すると、アラブ諸国との間に第一次中東戦争がおこされた。
これにイスラエルが勝利し、パレスティナ難民が生み出された。
この事態に対して、アラブ諸国では、植民地時代以来の欧米諸国の息のかかった指導者を排除し、アラブ人の独立を守ろうとする動きがあらわれた。
たとえばエジプトでは、国王がナセル率いる自由将校軍によるクーデタで退位させられ、共和国が樹立されている。
ナセルは、イギリス軍の駐留していたスエズ運河を国有化し、さらにナイル川の巨大ダムの建設費をソ連の援助に求めたため、英仏はイスラエルを支持して第二次中東戦争がひきおこされた。
しかし国連は英仏を非難したため、エジプトが勝利した。
これによりエジプトは一躍民族運動の中心地となった。
なお、北アフリカでは、モロッコとチュニジア、リビアがすでに独立していたが、フランスの植民地であったアルジェリアでは、独立を維持したいアルジェリアのフランス移民の抵抗が強く、独立戦争となった。その後、1962年には独立が達成されている。
イラクでは1958年に革命がおき、英米寄りの王政が倒され、共和政になっている。
このように1960年代前半にかけ、アラブ人植民地の独立が相次いだ。しかし、国ごとのナショナリズムは、しばしばアラブ人全体のナショナリズムと衝突した。たとえばエジプト人としてのアイデンティティは、イラク人としてのアイデンティティと、ときに対立し、ときに両立する。
当初はイスラエル国の打倒とパレスティナ解放という共通目的があったアラブ諸国の連帯も、1967年の第3次中東戦争によって急速にゆらいでいく。
その後、第4次中東戦争におけるアラブ産油国の石油戦略は、親イスラエル諸国の経済におおきな打撃を与えたが、結果としてアラブ民族主義の中心であったエジプトは、サウジアラビアなどの後塵を拝することになっていく。エジプトは非産油国であったからだ。
エジプトは1979年にイスラエルとの平和条約をむすび、第3次中東戦争で失ったスエズ半島を取り戻した。これによりエジプトはアラブ諸国から非難され、アラブ諸国の分断は深まった。
イラン
パフレヴィー朝のイランの石油利権は、イギリスによってにぎられていた。しかし1951年に民主的な選挙によって首相になったモサデグは石油国有化を宣言。これに対して英米の工作によってクーデタがおこされ、モサデグは失脚した。
アメリカ合衆国の支援を受け、専制支配を強めたのは、国王パフレヴィー2世である。国王による近代化政策は、伝統的なイスラームを軽視した欧米化であり、貧富の差の拡大に対する国民の不満は高まった。
こうしたことを背景として、1979年にイラン革命がおきて王政は打倒され、1964年に国外追放されていた反国王派のホメイニを指導者とするイラン・イスラーム共和国が成立した。
共和国にはシーア派の学者がかかわり、イスラームに基づく社会正義の実現を目指すもので、欧米で発達した議会制民主主義とは異なる形の国家体制であった。こうした動きをイスラーム復興運動といい、反欧米の思想として発達していった。
イランでの動向は、アラブ諸国の新欧米の支配者に、懸念をもたらした。
たとえばサウード家の支配するサウジアラビア王国は、石油の利権を通じてアメリカ合衆国と結びついており、教義の面でも厳格なスンナ派の一派であるワッハーブ派を信奉していたから、シーア派のイラン・イスラーム共和国と鋭く対立した。
イラン革命後の1980年代には、アメリカの支持するイラクが、反米を主張するイラン・イスラーム共和国を支持し、イラン・イラク戦争(1980〜1988)が勃発した。このときにアメリカの支持を受けたイランは、戦後には反米に旋回する。
このように、アラブ諸国内部や、アラブ諸国とイランの関係には、冷戦構造によって複雑な対立がもたらされ、「イスラーム教国」や「アラブ諸国」としての連帯は、ほど遠いものとなった。