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新科目「歴史総合」をよむ 3-1-3. 脱植民地化の進展と地域紛争


■アジア・アフリカの脱植民地化と地域紛争

 第二次世界大戦後に独立したアジア、アフリカの旧植民地では、独立後も経済的に旧宗主国の影響がのこされ、経済的な自立が課題となったが、植民地支配によってつくりだされた民族の分断により、独立後も貧困や飢餓、政情不安に苦しんだ。

資料 「植民地と人民に独立を付与する宣言」(1960年)
 近年多くの非独立地域が自由と独立を達成したことを歓迎し、かつ、いまだ独立していないそうした地域において自由への傾向がますます強まることを認め、 すべての人々が完全な自由、彼らの主権の行使および国土の保全に対する不可譲の権利を持つことを確信して、
 あらゆる形態および表現の植民地主義を速やかかつ無条件に終わらせる必要があることを厳粛に表明する。
 そして、この目的のために以下を宣言する。
1.〔外国支配の違法性〕外国による人民の征服、支配及び搾取は、基本的人権の否認であり、国際連合憲章に違反し、世界平和と協力の促進に障害となっている。
2.〔自決権〕すべての人民は自決の権利を有し、この権利によって、その政治的地位を自由に決定し、その経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。
3.〔独立の条件〕政治的、経済的、社会的または教育的準備が不十分なことをもって、独立を遅延させる口実としてはならない。
4.〔独立の抑圧の禁止、領土保全〕従属下の人民が完全な独立を達成する権利を平穏にかつ自由に行使しうるようにするため、かれらに向けられたあらゆる武力行動またはあらゆる種類の抑圧手段を停止し、かつ、かれらの領土の保全を尊重するものとする。
5.〔独立に向けての権限委譲〕信託統治地域及び非自治地域、またはまだ独立を達成していない他のすべての地域において、これらの地域の人民が完全な独立と自由を享受しうるようにするため、なんらの条件または留保もつけず、その自由に表明する意志及び希望に従い、人種、信条または皮膚の色による差別なく、すべての権力をかれらに委譲するための早急な措置が講ぜられるものとする。
(国際連合「植民地と人民に独立を付与する宣言」より抜粋、1960年)

資料 国連加盟国数の推移

出典:外務省、https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1986/s61-1030400.htm



■南アジアの脱植民地化

サブ・クエスチョン
南アジアにも冷戦の影響はどのように及んだのだろうか?

 第二次世界大戦後に、南アジアでも脱植民地化がすすんだ。
 
 イギリスから分離独立したインドとパキスタンの間には、北部のカシミール地方をめぐる戦争が勃発した(印パ戦争)。

 独立運動の指導者であったガンディーは、国家機構から距離をとり、インドの首相にはネルーが就任した。ガンディーは、ヒンドゥー教徒に1948年に暗殺されている。

サブ・サブ・クエスチョン
ガンディーは、インドの独立をどのようにとらえていたのだろうか?

資料 ガンディーとインド独立
 1947年8月15日,インドは,イギリスからの権力移譲というかたちをと って,主権国家としての独立を実現した。その当日,国民会議派議長のア ーチャリア・クリパラニーは,その「国民へのメッセージ」のなかでこの 偉大な事業は,マハートマ・ガンディーの「霊感をうけた指導」によるも のである,とのべて,民族運動の指導老であるガンディーをたたえ,「民 族の父とよばれるに値する」とのべていた。 ところが,そのガソディーは,ニューデリーの「式典」に参加もせず, また何のメッセージも送らず,カルカッタにあって,24時間の断食をおこ なっていたのである。ガンディーのもとめていた「統一したインド」の独 立というイメージと,現実に実現した独立イソドとの間には大きな隔りが あった。ガソディーの見方からすれぽ異質のものであったとさえいいうる のかもしれない。  パキスタンの独立をもとめるムスリム連盟は,その要求実現のための 「直接行動デー」を1946年8月16日と定め,コミュナリズムの対立と抗争 をあおりたてたのであった。これと斗い,これを克服することなしにイン ドの独立はない。そのような独立とは,別の独立,すなわち,現実のもの となった「分離独立」は,ガンディーにとっては,独立の名に値いしない 独立なのである。次善の独立として,これをうけいれるという考え方はガンディーにはなかった。ガンディーにとっては,独立はインド民族の統合
と再生のための前提であって,そういう意味で必要なものとして認識され
ていたように思われる。したがって,「分離独立」という形の独立は,ガ
ンディーにとっては実は独立ではなかったのである。
 この8月15日のガソディーを評して,ナンブーディリッパードウは次の
ようにのべて彼の偉大さであると指摘している。「他の会議派の指導者ら
が,権力の移譲は,彼らの指導した民族運動の勝利であるとして歓呼して
いた。まさにそのときに,ガンディーは,インドの政治的不安定性の二つ
の主要な原因について,人々の注意を喚起することを自分の仕事としてい
たのである。二つの原因の第一は,ヒンドゥーとムスリムの緊張した関係
である。それは,やがて新しく生れた二つの国家,インドとパキスタンの
緊張した関係をもたらしたのである。その第二は,会議派組織内部の腐敗
と堕落である。
 ガンディーを他の会議派指導者と区別するのはこの点である。人民の脈
に指をあててガンディーは次のことを感じることができた。すなわち,ヒ
ンドゥー=ムスリム関係に根本的変化がもたらされないかぎり,そして会
議派の内部組織の状態が改善されないかぎり,新しいインドという国家は
崩壊の危機にあると。」
 インド政治におけるコミュナリズムの急速な台頭という最近の状況をみ
るにつけ,ガンディーの認識の正確さを改めてみとめなければならない

この分離独立は,外にはパキスタンとインドの対立,抗争という南アジア
地域における主要国家間の緊張関係を定着させるとともに,内にあって
は,この国際関係と連動するかたちで,コミュナリズムによってもたらさ
れる対立関係をインド国民のなかにつくりだし,拡大していくという困難
な問題をかかえこむことになったのである。すなわち,分離独立が,単に
パキスタンとインドの緊張関係という二国間問題を伴ったということにと
どまらず,国内のコミュナリズムをたえず再生産し,強化するという結果
にもなっているということに注目しなければならないように思われる。

(出典:堀中 浩「インドの経済開発と国家」『明治大学短期大学紀要』 (52), 145-169頁, 1993年)

サブ・サブ・クエスチョン
「インドは社会主義の政策をとった」と、どの程度いえるだろうか?

 ネルー首相は、国家主導による工業化を目指し、1951年に第一次五か年計画が始まった。国家による経済統制をともなう方向性は、同時代の世界にひろくみられたものだった。1954年にネルーはインドは社会主義型社会を目指すべきであるとしたが、公共・私企業両部門の併存する体制(混合体制)という形を残した柔軟なものだった(参考:内藤雅雄『世界史史料11』153-155頁)。

資料 ネルー演説「社会主義型」(1955年1月22日)

「国民収入が大いに向上しない限り、世界の社会主義のすべて、または共産主義をもってしても、インドに福祉国家をもつことは出来ません。社会主義あるいは共産主義はもし君たちが望むなら、現存する君たちの富の分配を手助けするかもしれませんが、インドには分配すべき富などなく、分配すべき貧困があるのみです。(中略)われわれは富を創り出し、しかる後それを公平に分配しなければなりません。富なしでいかに福祉国家を持ち得ましょう。つい最近まで、経済政策はしばしば欠乏の上に築かれてきました。しかし欠乏の経済学は今日の世界では何らの意味も持たないのです。」

参考:内藤雅雄『世界史史料11』153-155頁)



 パキスタンは、イランに接する西パキスタンと、東部のベンガル地方の東パキスタンに分かれており、首都は西パキスタン側にあった。
 東パキスタン側は、サイクロンによる被害を受けやすく、言語的にはベンガル語の話者が多かったため、西パキスタン中心の政治に対する不満が高まった。1971年にはインドが東パキスタンでおきた独立運動を支持して介入したため、東パキスタンはバングラデシュとして独立した。

 なお、インドは中国との国境紛争も抱え、1962年には武力衝突に至っている。1960年代に中ソ対立が激化すると、インドは、中国の対立するソ連に接近するようになり、インドに対立するパキスタンは、アメリカや中国に接近するようになった。このため南アジアも、米ソ冷戦構造にいやおうなく組み込まれることになった。


■アフリカの脱植民地化


 1957年に、アフリカのンクルマ(エンクルマ)が指導をし、イギリスの植民地であった黄金海岸が「ガーナ共和国」として独立した。
 ンクルマは、アフリカのほかの植民地の独立や連帯にも積極的であったため、アフリカ各地の独立運動が活発化した。
 1960年にはじつに17か国もの国々がいっせいに独立したので、「アフリカの年」とも呼ばれる。

 アフリカ諸国はアフリカ統一機構(OAU)を結成し、パンアフリカ主義にもとづく連帯をめざしたが、なかなかうまくいかなかった。

 しかし、独立後も鉱山やプランテーションの利権を求めて、旧宗主国や欧米諸国が独立国内の諸勢力に介入したため、しばしば内戦が引き起こされた。
 たとえば銅鉱やウラン鉱の分布するコンゴでは、独立後にベルギーをはじめとする欧米諸国の干渉を受け、コンゴ動乱とよばれる内戦が勃発。独立の指導者であったルムンバは処刑され、欧米諸国の支持する軍人が後継となった。

 なお、イギリスの自治領であった南アフリカでは人種隔離政策(アパルトヘイト)が推進され、1991年まで黒人に対する国家的差別は続いた。


資料 タンザニア ニエレレ『ウジャマー社会主義―アフリカ社会主義の基礎』
「「ウジャマー」すなわち「家族愛」はわれわれの社会主義を表現している。それは人間の人間によ る搾取にもとづいて幸福な社会をつくろうとする資本主義に反対し、また、人間と人間の不可避の 対立という哲学によって幸福な社会をつくろうとする教条主義的社会主義にも反対する。
われわれは、アフリカでは民主主義を「教えられる」必要がないのと同様に、社会主義に改宗す る」必要もない。どちらもわれわれ自身の過去――われわれをつくりだした伝統的社会のなか―― に根をもっている。近代のアフリカ社会主義は「社会」を基本的家族単位の拡張として考える伝統 的遺産からひきだしうる。」
(出典:ジュリアス・ニエレレ「家族的社会主義の実現」『アフリカの独立』平凡社、1973 年、所収、284- 285 頁)

 



■中東の脱植民地化


アラブ諸国
 中東のアラブ人地域は、第一次世界大戦後に英仏の委任統治領や保護国とされていた。

 1930年代以後、第二次世界大戦の前後に多くの国が独立したものの、1948年にユダヤ人がパレスティナにイスラエル国を建国すると、アラブ諸国との間に第一次中東戦争がおこされた。
 これにイスラエルが勝利し、パレスティナ難民が生み出された。

 この事態に対して、アラブ諸国では、植民地時代以来の欧米諸国の息のかかった指導者を排除し、アラブ人の独立を守ろうとする動きがあらわれた。

 たとえばエジプトでは、国王がナセル率いる自由将校軍によるクーデタで退位させられ、共和国が樹立されている。
 ナセルは、イギリス軍の駐留していたスエズ運河を国有化し、さらにナイル川の巨大ダムの建設費をソ連の援助に求めたため、英仏はイスラエルを支持して第二次中東戦争がひきおこされた。


資料 レセップスの1869年11月16日の式典における演説
「今まさに鳴り渡った、この時を告げる鐘の音。それは今世紀のもっとも荘厳な鐘の音であるばかり か、人類史上またとなく偉大で決定的な瞬間であると断言することも許されましょう。アフリカとアジ アがここで境を限られ、そしてコンゴはここで触れ合うことになるこの土地、この偉大な人類の祭 典、この厳かにして世界市民的な協力、地上のあらゆる人種、輝かしく夢幻に広がるこの空のもと 翩翻と翻るありとあらゆる旗と幟、新月の真向かいにそびえ立って万人の崇敬を受ける十字架、こ れらはすべて何という驚き、何という感動的な対照、何という夢でありましょうか。これは、われとわ が手で触れることのできる現実から生まれた夢、かつては幻想としか思われなかった夢なのであり ます。そしてこの数多の奇跡の集合のうちには、思索者のための省察の材料が、何と多く宿ってい ることでありましょう! 今という時のなかには何たる喜びがあり、将来の展望のなかには何と多く光 輝溢れる希望があることでしょう!......
世界の希望が双方から歩み寄り、歩みよりつつ相手をそれと認めあう。認めあいつつ、同じひと つの神のおさな児たちとして、全人類が互いの友情に身も震えんばかりの欣びを感得するので す。西洋(オクシダン)よ。東洋(オリアン)よ。歩みよって、視線をかわし、互いを認め合い、会釈せ よ。そして抱擁するがいい!......
[神よ]あなたの神聖なる呼気が、この運河の水面を吹き渡らんことを。西洋から東洋へ、東洋か ら西洋へと、幾度も吹き抜けんことを。おお神よ。願わくは人類を互いに近づけるために、この道を 用い給え!」(レセップスによる、Letters, journal et documents, 5:17)

(出典:エドワード・サイード『オリエンタリズム』 平凡社、1986 年、91 頁)

 


資料 スエズ運河国有化宣言(1956年)
「われわれが餓死しようとしているのに、“宝の川”が手の届くところを流れているそして帝国主義の一会社がわれわれの利益を横取りしている。諸君、この“国の中の国”を奪い返そうではないか。」
(ブノアメシャン『オリエントの嵐』筑摩書房。太字は引用者) 


 しかし国連は英仏を非難したため、エジプトが勝利した。
 これによりエジプトは一躍民族運動の中心地となった。

 なお、北アフリカでは、モロッコとチュニジア、リビアがすでに独立していたが、フランスの植民地であったアルジェリアでは、独立を維持したいアルジェリアのフランス移民の抵抗が強く、独立戦争となった。その後、1962年には独立が達成されている。
 イラクでは1958年に革命がおき、英米寄りの王政が倒され、共和政になっている。

 このように1960年代前半にかけ、アラブ人植民地の独立が相次いだ。しかし、国ごとのナショナリズムは、しばしばアラブ人全体のナショナリズムと衝突した。たとえばエジプト人としてのアイデンティティは、イラク人としてのアイデンティティと、ときに対立し、ときに両立する。
 当初はイスラエル国の打倒とパレスティナ解放という共通目的があったアラブ諸国の連帯も、1967年の第3次中東戦争によって急速にゆらいでいく。
 その後、第4次中東戦争におけるアラブ産油国の石油戦略は、親イスラエル諸国の経済におおきな打撃を与えたが、結果としてアラブ民族主義の中心であったエジプトは、サウジアラビアなどの後塵を拝することになっていく。エジプトは非産油国であったからだ。
 エジプトは1979年にイスラエルとの平和条約をむすび、第3次中東戦争で失ったスエズ半島を取り戻した。これによりエジプトはアラブ諸国から非難され、アラブ諸国の分断は深まった。


イラン

 パフレヴィー朝のイランの石油利権は、イギリスによってにぎられていた。しかし1951年に民主的な選挙によって首相になったモサデグは石油国有化を宣言。これに対して英米の工作によってクーデタがおこされ、モサデグは失脚した。
 アメリカ合衆国の支援を受け、専制支配を強めたのは、国王パフレヴィー2世である。国王による近代化政策は、伝統的なイスラームを軽視した欧米化であり、貧富の差の拡大に対する国民の不満は高まった。
 こうしたことを背景として、1979年にイラン革命がおきて王政は打倒され、1964年に国外追放されていた反国王派のホメイニを指導者とするイラン・イスラーム共和国が成立した。
 共和国にはシーア派の学者がかかわり、イスラームに基づく社会正義の実現を目指すもので、欧米で発達した議会制民主主義とは異なる形の国家体制であった。こうした動きをイスラーム復興運動といい、反欧米の思想として発達していった。
 イランでの動向は、アラブ諸国の新欧米の支配者に、懸念をもたらした。
 たとえばサウード家の支配するサウジアラビア王国は、石油の利権を通じてアメリカ合衆国と結びついており、教義の面でも厳格なスンナ派の一派であるワッハーブ派を信奉していたから、シーア派のイラン・イスラーム共和国と鋭く対立した。
 イラン革命後の1980年代には、アメリカの支持するイラクが、反米を主張するイラン・イスラーム共和国を支持し、イラン・イラク戦争(1980〜1988)が勃発した。このときにアメリカの支持を受けたイランは、戦後には反米に旋回する。

 このように、アラブ諸国内部や、アラブ諸国とイランの関係には、冷戦構造によって複雑な対立がもたらされ、「イスラーム教国」や「アラブ諸国」としての連帯は、ほど遠いものとなった。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊