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11.3.1 ラテンアメリカの独立 世界史の教科書を最初から最後まで


スペイン人のコロンブスがたどりついて以来、スペインの植民地となっていたイスパニョーラ島には、現在の「ハイチ」(西部)と「ドミニカ」(東部)という国がある。

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このうち西部のハイチは17世紀末にフランス王国が獲得。


18世紀にはヨーロッパのセレブ界で「紅茶」に入れて楽しむニーズが高まっていた砂糖をつくるため、サトウキビの栽培をする場所として開発されていった。

そこで働かされたのは、西アフリカから連れてこられた黒人奴隷。


彼らの中にもやがて、フランスで広まりを見せていた「人間は生まれつき自由で平等だ」という考え方の影響を受ける者も現れた。
それがトゥサン=ルヴェルチュール(1743〜1803年)だ。

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史料 トゥサンによる呼びかけ
同胞、友人諸君。私はトゥサン=ルヴェルチュールである。諸君はおそらく私の名前を知っているだろう。私は復讐に着手した。私は自由と平等がサン・ドマングに君臨することを望んでいる。私はその実現のために働く。同法諸君、われらのもとに結集し、同じ大義のためにともに闘おう。諸君の忠実なる下僕。 
(署名)トゥサン=ルヴェルチュール 国王軍の将軍、公益のために。

トゥサンが立ち上がる以前、1791年にはすでに島の北部で奴隷反乱が起きていた。彼はすでに解放された元・奴隷で、1793年に上記のように「フランス国王軍の将軍」を名乗り、反乱を奴隷たちに呼びかけたのだ。
彼は、本国フランスにおける独立運動が盛り上がるけれど1801年に彼が奴隷解放宣言を出すと、「それは許さない」とフランスのナポレオンは軍をさしむけ攻撃。



トゥサンはフランスに連行され、そのまま1803年に獄死。
しかし彼の部下たちがその後も運動をつづけ、1804年にフランスにハイチ共和国の独立を認めさせた。


「史上初めての黒人共和国」というキャッチコピーのつくハイチ共和国の誕生だ。
同時に島は黒人奴隷制も廃止されたけれど、サトウキビ大農園の利権をめぐって独裁者が現れるなど、その後も政治はなかなか安定せず、砂糖輸出に依存する国の経済もつづいた。

しかし、カリブ海の小国がフランスから独立し、アフリカ系住民によって「奴隷廃止」が宣言されたことは、その他多くの南北アメリカの植民地や国々に影響を与えることとなる。
たとえば、アメリカ合衆国やブラジルは、独立後も奴隷制を堅持
「自由の国アメリカ」っていうイメージがあるかもしれないけれど、それとは程遠い状況だったんだね。


ブラジルもコーヒー人気の高まりによって、アメリカが19世紀中頃に奴隷制を廃止した後も、19世紀末までつづけていたくらいだ。



とはいえ、ハイチにおける奴隷制の廃止を受け、「奴隷を廃止するべきだ」(奴隷制(貿易)廃止運動)という運動はほかの国でも高まっていく。


「奴隷制は効率が悪い」という経済的な理由や、「人間的に考えて奴隷制はひどい」という人道的な意見から、イギリス政府は1807年に奴隷貿易を廃止し、1833年にはイギリス領の植民地において奴隷制が廃止されている。



さて、ヨーロッパでナポレオン旋風が巻き起こっていた時期、南北アメリカ大陸の広範囲を植民地化していたスペイン王国はナポレオンに占領されていた。

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スペインではナポレオン支配に対して1808年に反乱が起きていた
(スペイン宮廷につかえた画家ゴヤ(1746〜1828年)の絵画)


また、ポルトガル王室も植民地のブラジルへ避難していた。



スペインとポルトガルの支配がゆるんだことにより、ラテンアメリカ生まれのスペイン系・ポルトガル系の人々(植民地生まれの白人クリオーリョ)は、「今がチャンスだ。われわれはラテンアメリカ生まれの人間。ヨーロッパ人ではない。これからは政治的にも経済的にも自由にやらせてもらう!」という意識が成長していく。


しかし、ヨーロッパ大陸ではナポレオンが敗北した後、1814〜1815年にウィーン会議が開かれ、イギリス・プロイセン・オーストリア・ロシア・フランスといった大国が強調し、革命によって体制を変えようとする動きを封じ込める体制(列強体制)が生まれると事態は一変。


スペイン王国ではブルボン家が復活した。



「自由を求める動き」を押さえつける動きはラテンアメリカ(スペインやポルトガルが植民地とした南北アメリカの地域)にも波及する。


そんな中、南アメリカ大陸北部で立ち上がったのがアメリカ生まれのスペイン系 シモン=ボリバル(1783〜1830年)と、

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南アメリカ大陸南部で立ち上がったサン=マルティン(1778〜1850年)だ。

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ボリバルの名前は、「ボリビア」の名前に残っていて、ベネズエラ、コロンビア、エクアドルの独立に貢献し、現在でもラテンアメリカ諸国の近代化の立役者とみなされている。
しかし、彼の考え方をみてみると、その実像の複雑さも見えてくる。

1810年に独立の承認を求め、イギリス国王のもとに派遣されるも失敗。その後、ラテンアメリカに戻るも、スペイン王国派に反撃され、カリブ海のジャマイカへと亡命した。「ジャマイカ書簡」は、亡命中に彼の書いた手紙だ。

シモン=ボリバル『ジャマイカ書簡』(1815年)

(前略)この広大な大陸の各地にわたって住んでいる原住民、アフリカ人、スペイン人、そして混血人種の諸集団からなる1500万から2000万におよぶ住民の中で、白人がもっとも規模の小さな集団であることは確かな事実です。

しかしながら、白人こそが知的資質を備えていることも事実で、そのおかげで白人は他の集団に劣らぬ地位を獲得し、道徳の面でも物質的な面でも、他の集団にはいずれも不可能だと思われるほどの影響力を発揮してきたのです。

有色人種
との数の上での差異にもかかわらず、こうした白人に与えられた条件からは、あらゆる住民の統一と調和にとって最良の考えが産み出されるのです。...
(出典:『世界史史料7』岩波書店、2008年、207-208頁)

このようにボリバル自身は、植民地(ベネズエラ)生まれの白人。独立後の国づくりを進めていく上で、黒人をはじめとする有色人種を、独立後の国のメンバーに加えるかどうかについては、きわめて慎重だった。
では、もともとアメリカ大陸で暮らしていたインディオ(先住民)については、どのように扱うべきだと考えていたのだろうか。


「(続き、中略)新世界にスペイン人が到来した際、インディオは彼らを、人間ではあれ、人間を超越した存在だとみなしました。注目すべきは、白人にたいする彼らのそうした見方は、今もなお完全に消え失せてはいないということです。」


こんなふうにボリバルは、インディオは穏やかな性質を持っており、スペイン人に歯向かったりはしないとして評価する。ようするに無害だから問題ないということだ。その上で、


「......インディオと白人は全住民の5分の3を占め、これに双方の血を受けついだ混血メスティーソ住民を加えるなら、その合計は著しい数にのぼり、結果として有色人種に対する怖れは弱まることとなります。(後略)」


とし、なるべく白人に導かれる形で有色人種を封じ込め、しかも次第に先住民の血を薄めていくべきだとも考えていた。
ボリバルの思想は、その後のラテンアメリカ諸国における、複雑な人種・民族関係を予感させるものでもあった(出典:『世界史史料7』岩波書店、2008年、207-209頁)。

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メキシコでもローマ=カトリック教会の司祭 イダルゴ(1753〜1811年)が蜂起。一連の独立運動を通し、以下の国々が独立を達成した。
聞いたことのある国は多いんじゃないかな。


ブラジルのポルトガル語(ブラジル・ポルトガル語)を除き、

今でもほとんどの国ではスペイン語が話されているよ。メキシコ語やペルー語っていうのはないんだね。



・1811年 パラグアイ🇵🇾
・1816年 アルゼンチン🇦🇷
・1818年 チリ🇨🇱
・1819年 大コロンビア(以下の3つの地域に拡大するが、1830年に3つに分離)
(1819年 コロンビア🇨🇴、ベネズエラ🇻🇪、1822年 エクアドル🇪🇨)
・1821年 メキシコ🇲🇽
・1821年 グアテマラ🇬🇹
・1821年 エルサルバドル🇸🇻
・1821年 ホンジュラス🇭🇳
・1821年 コスタリカ🇨🇷
・1821年 ペルー🇵🇪
・1822年 ブラジル帝国🇧🇷
・1825年 ボリビア🇧🇴
・1828年 ウルグアイ🇺🇾
・1844年 ドミニカ(ハイチから独立)

19世紀前半に独立していないエリアは以下のとおり。
・1902年 キューバ🇨🇺
・1903年 パナマ🇵🇦
・1962年 ジャマイカ🇯🇲
・1966年 ガイアナ🇬🇾
・1975年 スリナム🇸🇷
・1981年 ベリーズ🇧🇿
・カリブ海の島々の大部分(小アンティル諸島のマルティニーク🇲🇶など)


一方、ブラジルの事情はちょっと変わっている。
ナポレオン戦争から避難していたポルトガル王子が、ナポレオンの敗北後もブラジルに居座り、1822年に本国からの独立を宣言したのだ。
王子は皇帝を名乗ったので、これをブラジル帝国という。
1889年まで続き、奴隷制を維持したのが特徴だ。



こうして19世紀の前半に次々にスペインやポルトガルから独立したラテンアメリカ諸国。
だが、政治的にも経済的にも不安定な状況がつづいた。
その一番の理由は、ヨーロッパ経済への「依存」だ。


鉄、銀、火薬の原料であるグァノ(海鳥の糞から生成された物質)、

ゴムの材料(ゴムノキから採れる天然ゴム)、

サトウキビ、果物、小麦、広大な草原で放牧した家畜の畜産物など、

ラテンアメリカは工業の原材料の宝庫。
これをイギリスが見逃さないわけがない。

イギリスはスペインやポルトガルと違い、ラテンアメリカの国々を植民地化しようとせず、むしろ積極的に独立をサポート。


その代わり、「輸出業者」や「輸出向けの大土地所有者」とのコネクションをつくり、彼らが各国の指導者になることを支援した。

その利権をめぐり国内では対立が激化。
「イギリスと距離を置いて工業化をすすめるべきだ」(保守派)というグループと、「イギリスに協力して自由貿易を進めるべきだ」(自由主義派)というグループの間に、長期間にわたって争いがつづくことになる。

しかも、「輸出業者」や「輸出向けの大土地所有者」は、たいてい植民地生まれの白人であることが多く、土地も持たない貧しい人々は、先住民(スペイン語でインディオ)や

西アフリカ出身のアフリカ系の人々(黒人)、

先住民・黒人・白人の混血の人々が多かった。


もうちょっと細かくいうと、メスティーソは先住民と白人の混血。


黒人と白人の混血はムラートと呼ばれた。


ちなみにブラジルやアルゼンチンなど、南アメリカには“サッカーが強い”国が多いよね。


スペインやポルトガルなどヨーロッパ諸国で人気のスポーツだったことに加え、「ボールひとつ」で貧しい暮らしからスターに上り詰めることができるかもしれないという、“貧しさからの脱却への夢”が、その背景にはあるんだよ。


ラテンアメリカは、結果的に、イギリスを中心とする世界経済に取り込まれていくこととなる。
イギリスにとってラテンアメリカは、工業化するのではなく、原材料を供給してくれて製品を買ってくれればそれでよい相手。
ラテンアメリカがその後もなかなか工業化していかないのは、そうした背景があるんだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊