ニッポンの世界史【第11回】京都学派の世界史(その2)
アジア・アフリカの独立運動が「ニッポンの世界史」に与えた影響を考えるとき、戦時中に試みられた「新しい世界史」の構想を見ることは欠かせなません。
そんなわけで前回は、京都学派「四天王」に数えられる高山岩男と鈴木成高がどのような世界史を構想しようとしていたかを確認しました。
ただし、「新しい世界史」を描く試みは、彼らに限ったものではありません。世界の文明を論評する言説の存在感は、すでに1930年前後から論壇や哲学界において無視できないものとなっています(奥村勇斗「統一された世界」における「東洋」の想像 : 文明批評から「世界史の哲学」へ『三田学会雑誌』106(1)、2013)。
なぜか。
その背景にあったのは、第一次世界大戦の衝撃です。
総力戦の時代の幕開けとともに、シュペングラーのいったような「西欧の没落」ともいうべき状況となりました。
西欧諸国は世界中に植民地をひろげているとはいえ、もはや植民地なしでは存続できないくらい、西欧の非西欧に対する依存もすすんでいます。また、新興国としてソ連とアメリカが成立し、西欧の植民地主義に対する批判も噴き上がっていました。
とはいえ、西欧のパワーがまったくなくなってしまったわけではありません。科学技術の面では、こんにちの機械文明をもたらした西欧の地位は、いまだ揺らぐものではありません。
そんな中、日本においても次なる総力戦に対応した国づくりをすすめるべきだという主張がはばを聞かせるようになります。
しかしただひとつ確かなことは、世界がますます一体化しているという現実です。
西洋の圧倒的な優位のもとで、海底電信ケーブルと蒸気船の定期航路が大陸間に張り巡らされ、ヒト・モノ・カネ・情報が短期間のうちに飛び交う、そんな時代となったのです。
あの技術も西洋由来、あの制度も西洋のもの、さらにあの機械も——。洋の東西を問わず、2つの文明を比較する視座からの文明批評が飛び交います。
世界がひとつにまとまり、「世界」が意識されればされるほど、当時の世界の人々の頭の中で「東洋文明」と「西洋文明」の違いが、実体化されていったのです。
しかし、「東洋」と「西洋」なるものは、結論からいえば、想像されたもの、イメージのなかだけに存在しているものというべきもの。
実体なんてありません。
しかも、東洋のなかにはしばしばインドも中国も日本も一緒くたに放り込まれます。なかには西洋のなかに西アジアを入れる人だっています。そもそも世界をたった二つに分けようったって、うまくいくわけがありません。
しかし、当時の京都学派の活躍した1930~1940年代は、この二分法がリアリティを持っていた時代だったんですね。
たとえば彼らの議論のなかでは、日本は東洋のなかにあるどころか、日本こそが東洋を代表するという話になっている。インドと中国と日本では、だいぶ特徴も異なるはずなんですけれどね。
世界を複数の文化類型に分けて論じた高山岩男も、戦中になると、東洋の「精神」を代表するのが日本であると言い始めます。もはや類型うんぬんではなく、「精神」という実体的なるものを想定しはじめるわけです。
当時の現実世界は「西洋」の科学技術文明が席巻している。
では、そこまでの世界史を、いわば ”第1ラウンド” だとすれば、日本率いる「東洋」が “第2ラウンド” に成り上がるならどうなるか?
というか、近代性を開花させ、それで世界を埋め尽くした西洋に、日本はどうすれば太刀打ちできるのか?
明治以来、西洋を真似た日本は、亜流にすぎないのではないか?
米英との戦争に突き進む日本で求められたのは、そういった問いに対する答えでした。
二つの近代
1942年『中央公論』1月号に掲載された「世界史的立場と日本」に、高山岩男の次のような発言があります。
「二つの近代」——つまり、近代的なものはヨーロッパだけにルーツをもつものではなく、日本にも立派な近代があったという話です。
ただし、ここでいう日本の近代はヨーロッパとは別物です。
鎖国政策をとったために、「江戸時代の近代精神はヨーロッパとは非常に違った経路をとって、随分性格の違ったものになるようになった」。
こういう議論をするわけですね。
ヨーロッパ人は日本がまるで突如として近代化したように驚くが、そうではない。
日本にも維新前に別種の近代性を達成していたんだよということです。
しかし一体日本人はこのことを忘れている。
なぜか?
それは明治維新が「江戸時代の否定」であったことに起因すると、高山はみています。
まあ納得のいく考え方です。
高山は「世界史の理念」の中でも、やはり同様の見通しを、さらに踏み込んだ形で語っています。
あれ?
これって、戦後に大胆な世界史の見方を提示して話題となった、人類学者・梅棹忠夫の『文明の生態史観』と同じ発想じゃないか!
と勘付いた方もいるはずです(これについては後ほど)。
高山のこの見方の根源にあるのは、日本がこれからの「新しい世界史」を切り開くプレイヤーとなるべきだという、先ほど述べたような時代の要請です。すでに英米と戦争をやっているわけですからね。
イギリスに代表されるヨーロッパ近代を、総体的に否定しなければならない。そのためには一度はヨーロッパをフォローした日本(=入欧)が、ヨーロッパを超克しようとする(=超欧)路線への道行きが必要となります。
ただし、入欧にしろ超欧にせよ、日本が大東亜共栄圏を主導し、アジアがヨーロッパに伍する世界となっていく見通しを、理論的に正当化すればするほど避けては通れないのは、「日本にとってアジアとは何なのか」という問題でした。
選択肢として考えられるのは、つぎの2つの極。ひとつは日本は「アジアと同じ」という点を重視する方向性(=アジア主義)、いまひとつは「アジアとは違う」という観念(=脱亜)を優先させる行き方です。
ヨーロッパでもなければ、アジアでもない日本
いまの私たちの目的はアジア主義について深く掘り下げることではなく、「日本人にとって世界史は何か」を、「京都学派」の論者の目を通して探ることにありますから、ここでは高山の見方に注目しておくことにしましょう。
そもそも高山がはじめから、「東洋」の多様性を無視する考え方をもっていたわけではありません。
こと日中戦争期においては、日本の文明が無条件に特別であると単純に述べる人ではありませんでした。たとえば1933年の『文化類型學の概念』では次のように述べています。
しかし、1940年の「世界史の理念」になると、「日本にも、ヨーロッパとは異なる形の「もう一つの近代」があったのだ」という説明が、「日本は中国とは異なるのだ」という主張とセットになって展開されていくこととなってしまいます。
この頃の高山の発言には、はっきりと整合性のとれないところもありますが、「日本はほぼヨーロッパの古代・中世・近世と並行し、内容上も相似た時代を経過している」という主張をもとに、世界史の構想をスケッチすると次のようになるでしょう。
これを高山の波乗り的な変節とみることもできるでしょう。大陸で泥沼化した戦線や植民地統治の現実はさておき、「ヨーロッパからアジアを解放する」という大義を叫ばねばならない時代の要請があったことも事実です。
しかしむしろ私たちはここに、日本人が世界史を考えるときの困難が典型的に現れているとみるべきでしょう。
圧倒的な力によってアジアやアフリカに覇権を広げていたヨーロッパ。その文明を受容し、西洋化=近代化を果たした日本が、ヨーロッパという”父”をアジアから追い出し、日本が道義的に支配するとなったとき、日本による支配がヨーロッパの帝国主義の焼き直しになってはまずい。
だからこそ、日本の近代性はヨーロッパ的な近代性とは別種であり、その近代性でもって、遅れたアジアを導いていかねばならない、そういった「世界史」を描く必要があったわけです。
日本史・西洋史・東洋史の枠組みを超える「世界史」を構想しようとすればするほど、アジアとの違いを強調し、日本がむしろヨーロッパに近い特殊な存在であったことを強調してしまう。
「世界史の中」に日本を置く見方は、左派・右派を問わず戦後を迎え現代にいたるまで、いまだに亡霊のように現れ続けることとなります。
戦後におけるその代表こそが、先ほど挙げた京都学派の流れをくむ人類学者・梅棹忠夫の「文明の生態史観」です。
つぎは1950年代後半に舞台をうつします。
(続く)
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊