13.3.4 辛亥革命(しんがいかくめい) 世界史の教科書を最初から最後まで
清朝の滅亡と辛亥革命
義和団事件の終わったのちの清朝では、1905年に役人を採用するために儒学の素養をたしかめた科挙(かきょ)を「時代に合わない」として廃止。
1908年には皇帝の権限に制限をくわえる憲法をつくるための「憲法大綱」を発表、同年1908年には国会をひらくことが公約された。
光緒帝のもとでの国をヨーロッパ諸国や日本のようにバージョンアップさせるための改革のことを、光緒新政というよ。
しかし改革にともなう増税やトップダウンのやりかたに対し、地方エリートの反発も勃発。
一方、海外では華僑(かきょう)や留学生を中心に、女真人の清朝をたおし、漢人による国を建てようとする革命運動が盛り上がるようになっていた。
なかでも巨大なネットワークを築いたのが、革命家の孫文(スンウェン;そんぶん、1866〜1925年)。
広東の貧しい家の生まれの彼は、ハワイにいた兄のもとで教会の学校にはいって、のちにキリスト教徒となる。
海外にいた中国系の人々のあいだに「清をたおそう」という思想をひろめ、亡命先の日本や欧米で幅広い人々と交流し、資金をあつめた“ファンドレイザー”だ。
特に日本とのつながりは深く、「海外に進出するべきだ」「アジアをひとつにまとめよう」と、インターナショナルな活動をしていた「大陸浪人」と呼ばれる人たちとの交流を築き、頭山満(とうやまみつる、1855〜1944年)、
宮崎滔天(1871〜1922年、みやざきとうてん)、
犬養毅(いぬかいつよし)といった大物たちのサポートを引き出すことにも成功。
こうした流れで、1905年には日本の東京で中国同盟会という組織をつくり、清を倒して共和国を建設し、貧富の格差をなおそうとする「三民主義」をかかげた。
「三民」というのは、「民族」「民権」「民生」を指す(定義には時代によって揺れがある)。
そんな中、清では1911年に満洲人の皇族を中心とする内閣が成立。
しかし、この内閣は主要な鉄道を国有化し、外国から資金を借りて鉄道建設を推進する。
この動きは、外国から利権を回収して、民間人による鉄道建設をすすめようとしていた民族資本家や地方のエリートの思いとは裏腹。
清政府による鉄道国有化に反対する運動は、四川(しせん)で暴動に発展する(四川暴動)。
ちょうどその頃、湖北省の武漢(ウーハン;ぶかん)
に駐屯していた進軍(西洋式の軍隊)の内部に、“清を倒す革命プロジェクト”を進める秘密結社が成立。
偶然の事故で計画が清の当局にバレると、そのまま1911年10月10日に長江の中流域の武昌(ぶしょう)で武装蜂起を決行(つまり、この蜂起孫文が起こしたわけじゃない)。
あっという間に、湖北省の省政府は乗っ取られた。
さらに各省に蜂起が拡大すると、1ヶ月のうちに大半の省が清から独立を宣言。
革命軍は、急遽アメリカから帰国した孫文を「臨時大総統」という役職に選び、1912年1月に南京で中華民国の建国を宣言する。
以前から革命家として知られ、資金調達にも優れ、さらに「三民主義」というマニフェストを掲げていた孫文は、指導者にピッタリだと考えられたんだ。
アジア初の共和国が誕生した。
清の側は、北洋軍(李鴻章が淮軍を基盤に洋務運動の期間につくりあげていた近代的な軍隊)をにぎる実力者である袁世凱(えんせいがい、1859〜1916年)を起用し、革命側との交渉にあたらせようとしたのだけれど、すでに袁世凱は清を見限っていた。
これを条件に、臨時大総統の位は孫文から袁世凱にゆずられたた。
袁世凱は、臨時大総統に北京で就任。
1912年2月には清の“ラスト・エンペラー”、宣統帝(せんとうてい;溥儀(ふぎ)、在位1908〜12年)が退位し、ここに2000年以上にわたる中国の皇帝政治が幕を閉じることとなったのだ。
しかし共和政の基盤は、なかなか安定しない。
袁世凱が議会の力をおさえようとしたのにたいし、孫文の組織する国民党(中国同盟会を中心につくられた政党)が激しく対立したのだ。
孫文は二度目の武装蜂起を決意するも、第二革命は鎮圧され、袁世凱は「正式大総統」(在任1913〜15年)に就任。
独裁的なパワーを手にした袁世凱は、皇帝に即位しようとするようになる。
これに対し、国民党系の地方軍人が第三革命をおこした。
また、諸外国も支持しなかったことから、皇帝による政治を復活させようとした袁のプランは失敗、1916年に病気で亡くなった。
袁世凱が亡くなると、かわいがられていた軍人たちが、共和国の政府の支持にしたがうことなく、自分で財源を確保して自分の軍隊をやしない、政治をコントロールしようとするようになる。
こうした軍人(または軍人グループ)を軍閥(ぐんばつ)という。
多数の軍閥が各地に並び立ち争いながら、北京政府の実権をにぎろうとする不安定な状況は、その後十数年にわたって続くこととなるんだ。
領土の問題
さて、この中華民国は、清朝の領有していた漢人、満洲人、モンゴル人、チベット人、ウイグル人などの諸民族が住むエリアを領土とした。
つまり「清朝の領域が、どの程度まで「中華民国」にスライドして引き継がれるのか?」ということをめぐり、各地で混乱が生じたのだ。
1928年まで使用された国旗(赤=漢族、黄=満州族、青=モンゴル族、白=ウイグル族、黒=チベット族がみんな仲良く(=五族共和)という意味)
しかし、辛亥革命がおきて清の支配がゆらぐと、辺境地域では清から独立運動が活発化。
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1911年には外モンゴルが独立を宣言。
チョイバルサン(1895〜1952年)ら
のモンゴル人民革命党が、ソヴィエト連邦の赤軍(せきぐん)のサポートを得る形で1921年に独立を宣言し、1924年にモンゴル人民共和国をさせた。
しかし「革命」の方針をめぐり、ソ連との間にはギャップも生まれるようになっていく。
また、中国側に残留してしまった内モンゴルや、その他のエリアに残るモンゴル人たちとの「つながり」は、断たれることとなってしまった。
そもそもかつて広大な領土を支配したモンゴル人たちの「国のエリア」を確定することなんて、彼らが遊牧民であるだけに難しい状況だよね。
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1913年にはチベット人の住む、チベットでダライ=ラマ13世(1876〜1933年)が独立を主張する布告を出している。
しかし、あくまで「宗主権」を主張する中華民国は、この要求を受け入れない。
一方、イギリスにとってはインドを守るために、チベットの一部をインドに組み込むとともに、中華民国の支配からチベットを切り離しておきたいところ。
イギリスは1914年に、チベットと中華民国の代表とともにシムラ会議を開いて決着を図ろうとしたものの、「チベットに対するイギリスのコントロール」を警戒した中国は取り決めを受け入れず。
イギリスがチベットの独立を認めたものの、中華民国不在のままに決められた(むしろ中華民国不在じゃなければ、こんなラインは引けない)国境線(チベットとインドの間の「マクマホンライン」)もあって、あいまいな状態が続くことになった。
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混乱の中、新疆(しんきょう)では漢人の軍閥が、ウイグル人を支配した。
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しかし、結局、チベット、内モンゴル、新疆(しんきょう)は、中華民国の中にとどまることになった。
ただ、民族運動だけでなく、イギリスやソ連など諸外国の“口出し”や、漢人の軍閥の支配によって、辺境エリアはなかなか落ち着かない。
さまざまな民族を抱え込む中華民国の「まとまり」は決して強いものとはいえないまま、時間だけが過ぎていったんだ。
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