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新科目「歴史総合」をよむ 1-3-3. アジアの諸国家とその変容

■アジア諸国と「西洋の衝撃」

メイン・クエスチョン
西洋諸国の進出に対し、アジア諸国は、どの程度「衝撃」を受けたといえるだろうか?

 19世紀のアジア諸地域では、世界的な政治や経済の変化の影響を受ける中で、さまざまな変化がおきた。特に、西洋の商業的・軍事的な進出や、自由主義やナショナリズムの影響は大きく、アジアの被った衝撃を「西洋の衝撃」(ウェスタン・インパクト)と呼ぶことがある。

 これを前に、アジア諸国のとりうる選択肢は、いくつもあった。
 各地におけるさまざまなレベルの対応を見ていくことにしよう。


西アジアのオスマン帝国

 オスマン帝国は19世紀に入って、各地の支配領域の民族運動をおさえきれなくなっていった。

 バルカン半島では、キリスト教徒による民族運動をおさえきれず、1821〜1829年のギリシア独立戦争を経て、ギリシアを失った。
 エジプトでは総督ムハンマド・アリーが二度の戦争を経て世襲を認められ、オスマン帝国から事実上独立した。

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ムハンマド・アリー(1841年)
(https://ja.wikipedia.org/wiki/ムハンマド・アリー#/media/ファイル:ModernEgypt,_Muhammad_Ali_by_Auguste_Couder,_BAP_17996.jpg)

 ムハンマド・アリーはエジプトに近代国家を建設するため、西洋の思想・技術を導入し、伝統的なイスラム教育システムに代わる、近代的な教育(初等・中等学校)の普及に努めた。

資料 ヨーロッパへの第一回の留学生の引率者(イマーム)として1826年に派遣され、5年間フランスに滞在したタフターウィーの書物より
「以上から明らかなことは、フランスの王は絶対的な権力をもっていないということ、フランスの政治システムは法の拘束体系であり、そのもとで、王が統治権をもつのは、彼が委員会メンバーによって承認された法、彼の側に立つ貴族院、そして人民の利益を守る代議員に従って行動するという条件においてだ、ということである。
 現在、フランス人によって遵守され、彼らが政治の基礎としている法典は、彼らの王、ルイ18世によって起草された法であり、依然として、フランス人によって遵守され、承認されている。……
われわれは、この本(この法典が記載されてきた本)を、その内容のほとんどをそこに見ることは出来ないものの、全能の神の本〔コーラン〕や預言者—…(中略)—のスンナに類するものとみなしても良いのではないか。…そして、それは、正義アドル衡平インサーフが諸王国の文明、臣民の福祉の根拠であること、そして支配者とその臣下がそれに導かれてこそ、彼らの国は栄え、彼らの知識は増え、彼らの富は蓄えられ、彼らの心は満たされてきたということである。……」
(出典:タフターウィー『パリ要約のための黄金の精錬』(1834/5年刊)。加藤博訳『世界史史料8』岩波書店、150-151頁。( )内は筆者が加筆)

Q. タフターウィーは、フランスのどのような国家体制を、エジプトに紹介しようとしているか?


 エジプトが近代化を進める一方、オスマン帝国の皇帝アブデュルメジト1世は1839年にギュルハネ勅令を出して、タンジマートとよばれる西欧化・近代化をめざす改革をおこなった。


資料 ギュルハーネ勅令(1839年11月3日)
周知のごとく、朕〔スルタン〕の至高なる国家〔オスマン帝国〕の成立当初以来、コーランの崇高なる定めとイスラーム法に則った諸法令が完全に遵守されていたがゆえに、余の高貴なる政府の威力と権勢並びに全臣民の安寧と繁栄は、最高の限りに達していた。しかるに、この150年来、憂患の続出とその他諸々の原因によって、神聖なるイスラーム法も至高の法令も遵奉、準拠されなくなったため、従前の威力と繁栄が、反対に脆弱と貧困に転ずるに至った。……
今後、罪人の訴訟は、イスラーム法に則った諸法令に従って航海で審議され判決が出されない限り、誰に対してであれ、秘密裏または公に、処刑または毒殺の処置が執行されてはならない。……朕の帝国の臣民であるイスラーム教徒と他の諸宗教の信徒は、朕のこの恩恵に例外なく浴するのであり、イスラーム法の規定に基づいて、朕の加護された国土の全住民は、朕より完全なる生命、名誉、財産の保証が与えられたのである。
(秋葉淳訳『世界史史料9』岩波書店、120-121頁)

Q. スルタンは、なぜオスマン帝国の国力が低下したととらえているだろうか?
Q. スルタンは、オスマン帝国の全住民に対して、どのような方針を打ち出しているか?


 しかし改革は順調に進まず、クリミア戦争(1853〜1856年)ではロシアに勝利したもの、イギリスやフランスによる介入はおさまらず、財政的・経済的なな従属が進んでいった。
 講和の過程で、列強による強い圧力を受ける形で公布されたのが、次の「改革勅令」である。

資料 改革勅令(1856年)
(前略)宗派、言語または人種を理由にして、朕〔スルタン〕の高貴なる政権〔オスマン帝国〕の臣民の諸集団に属するある集団を別の集団よりも貶めることを含意するあらゆる表現、用語、区別は、公文書の中から永久に削除される。……
 〔基本〕租税の平等は他の諸税の平等を伴うのと同様に、権利の平等は義務の平等を必要とするので、キリスト教とおよびその他の非ムスリム臣民もまた、イスラーム教徒住民と同様に、兵役負担に関して今後出される決定に従わなくてはならず、この点について、代人を立て、または現金を納めることによって実際の服役を免除する方法が実行される。
(秋葉淳訳『世界史史料9』岩波書店、122-123頁)

 これにより、従来の地位を脅かされると感じた多くのムスリムが、非ムスリムが列強の保護化で特権を得ているという不満を抱くようになり、かえって宗教対立が生じた。
 その一方で、公立学校における混合教育や、非ムスリムの官僚への採用が進み、宗教にかかわりなく平等な「オスマン人」意識の醸成も進んでいった。



資料 タンジマートについて
 …拡大する国家を支える「オスマン国民」を創出することはタンジマートの重要な課題であった。教育はその手段として重視され、エリート養成および臣民教化のための新式学校が多数設立された。学校教育と官僚組織の発達によって、多くの地方名望家がオスマン・エリートとして国家体制に統合された。非ムスリムは改革当初より地方レベルで行政参加を認められていたが、1856年の「改革勅令」は、全臣民の法的な平等を明文化した。これによって非ムスリムの「ジンミー(庇護民)」としての地位が解消され、宗教に関わらない「オスマン人」という国民概念が生み出された。改革勅令の平等規定はムスリムの反発を引き起こしたが、19世紀末までには非ムスリムが官庁、会議、学校、法廷などでムスリムと席を並べることは普通の光景になった。…

Q. なぜ政府は、「オスマン国民」「オスマン人」を創出しようとしたのだろうか?

(出典:南塚信吾ほか編『新しく学ぶ西洋の歴史—アジアから考える』ミネルヴァ書房、2016年、161頁)



南アジアのインド

 ムガル帝国が衰退していたインドでは、フランスとイギリスの東インド会社が交易拠点をめぐり争っていたが、プラッシーの戦い(1757年)、ブクサールの戦い(1764)によって、イギリス東インド会社が優位にたった。

 これらの戦いを通してイギリス東インド会社は、ムガル帝国から自立していた各地の王国を服従させていき、19世紀半ばまでに、インド全域を直接・間接的に支配することに成功した。

資料 インドの教育に関する覚書(1835年)
いまわれわれにできることは、われわれとわれわれの支配する数百万人のあいだに
立って通訳できる人びと、血と肌の色においてインド人だが趣味と思考と道徳
と知性においてイギリス人である集団の形成に力を尽くすことである。インド
の土着の言語を改良し、それを西洋の科学用語の借用によって豊かにし、巨大
な人口の民衆に知を届けられるように少しずつ改変していく仕事を、彼らに担
わせればよい。…
具体的にどのような状況があるか。われわれは、現時点で母語で教育を受け られない民族の教育、なんらかの外国語の教育の責務を負う。あらためてわれ われの言語がそれだと言う必要はないだろう。ほかの西洋語と比べても英語は 別格である。想像の創作ではギリシャの遺産の最高傑作に見劣りしない作品を 多数もつ。さまざまな種類の演説を組み立てるための表現は豊かである。歴史 書は物語として見れば際立った魅力をもち、倫理と政治学の教科書として見れ ばほかを凌駕する。人間の生とその本質にかんする表現は的確で力強く、英語 で表現された形而上学と道徳と政治学と法学と商学は最も深い思索に達する。 健康的で快適な生活の拡大と人類の知的進歩に寄与する英語圏の実験科学は、 あらゆる領域で正確な知の貯蔵庫である。英語を理解する者には、最高の知的 文化を誇る国々が 90 世代をかけて築いた膨大な知の遺産がいつも身近にあるの だ。いま読める英語文献の価値は、300 年まえの世界中の言語で書かれた文献 の総体よりもはるかに大きいと言ってよいかもしれない。ほかにもある。英語 はインドで支配階層がつかう言語である。議会で現地人の高官がつかう。東洋 の全海域でつかわれる通商の言語になるかもしれない。ヨーロッパ人の主要国 として年々地位を高め発展をつづけている南アフリカとオーストラリアでも英 語がつかわれている。これらの地域とインドで拡大したイギリス帝国の関係は ますます深まっている。要するに、英語文献の本質的価値とインドの特殊な状 況を鑑みれば、われわれの統治する現地人にとって英語が最も有益な言語であ ることは明白である。
(出典:トマス・バビントン・マコーレイ「インドの教育にかんする覚書」の解説と翻訳、トマス・バビントン マコーレイ(加藤洋介・訳)『西南学院大学英語英文学論集』59巻2号、67-82頁

Q. この覚書を書いたイギリス人(マコーレイ)はなぜインドで英語教育を推進するべきだと主張したのだろうか?


 1857年には東インド会社のインド人傭兵(シパーヒー)の反乱をきっかけに、北インドを中心にインド大反乱(1857〜1859)が起きたが、反乱を鎮圧したイギリスは、1858年にムガル帝国を滅ぼし、東インド会社を解散させ、直接統治体制を築いていった。
 こうして1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立した。



東南アジア

 東南アジアでは、ラタナコーシン朝のシャム(現・タイ)が、イギリスとフランスの圧力により開国を受け入れた。1855年に結ばれたボーリング条約は、イギリス全権ボーリングによるもので、シャムは自由貿易をみとめたものの、独立を維持した。1858年に日本がアメリカと結んだ日米修好通商条約は、このボーリング条約を参考にしたものである。

 1880年代には、チュラロンコン王(在位1868〜1910)が、英仏植民地の緩衝地帯という地理的条件を生かし、チャクリ改革とよばれる近代化をすすめていった。その内容は、奴隷制廃止、行政・裁判制度の近代化、鉄道、電信、郵便制度の整備などである。

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チュラロンコン王(1880年頃)
(https://ja.wikipedia.org/wiki/ラーマ5世#/media/ファイル:King_Chulalongkorn_of_Siam_(PP-69-5-032).jpg)



東アジアの清

サブクエスチョン
アヘン戦争とアロー戦争は、中国にどの程度の「衝撃」を与えたのだろうか?

 アヘン戦争(1840〜42)とアロー戦争(1856〜1860)の結果、欧米諸国は中国に対し、条約規定にのっとる通商秩序をうちたてた。

 清はアロー戦争の結果、外交使節が北京に常駐することとなり、総理各国事務衙門そうりかっこくじむがもんが、対等な外交の窓口となった。
 西洋との関係は特殊な例外であり、既存の冊封・朝貢体制が直接的に影響を与えたわけではなかったが、中国と西洋との関係が進展するにつれて、東アジアの伝統的な国際秩序にも変化が生じることとなった。

 まず、中国と周辺国との間の冊封さくほう朝貢ちょうこうを軸とする伝統的な華夷かい秩序に基づいていたから、欧米流の近代的な国際秩序との間に、さまざまな面で齟齬そごを生み出した。このことは、従来の「冊封」や「宗主権」といった漢語を、どのように近代的な国際法(万国公法ばんこくこうほう)の用語体系に翻訳していくべきかという問題とも関わっていた。

 また、従来朝貢していた国であっても、朝貢の数が減少するようになった。そこで、既存の冊封・朝貢体制を再調整する必要が出てきた。


 日本と清との関係は、交渉の末、1871年に日清修好条規が結ばれた。中国側では、朝貢国でも、西洋諸国でもなかった日本をどのように位置付けるか議論があったが、李鴻章りこうしょうらが主導して原案を作成した。日本側は当初、日本が優位に立つ不平等条約を作成していたが、交渉の中で中国案がベースとされ、このような規定となった。

資料 日清修好条規
第1条 今後、大清国と大日本国は交誼を一層厚くし、天壌の隔たりをなくしていくこと。すなわち、両国に属する邦土は、互いに礼に基づいて相対し、いささかも侵したり、奪ったりすることなく、永久の安全を保つこと。
第7条 両国はすでに通好していることから、沿岸の各港のうちいくつかを指定し、商民が往来して貿易することを認め、また通商章程を別途定め、両国の商民に永遠に遵守させること。

大清国・大日本国通商章程(1871年9月13日)
第14条 中国の商貨が日本国の通商港にて税関に通関税を支払った後、中国人はその貨物を日本国内に運び入れることはできない。また、日本の商貨が中国の通商港にて税関に通関税を支払った後、中国人がそれを中国内に運びいれ、関所や番所で釐金りきん(注)や諸税を支払い、また売りさばくのは自由であるが、日本人が運び入れることは認めない。……

(注)釐金は「1853年、中国で太平天国鎮圧のための軍資金の補填資金として創設された外国関税の一つ。臨時の税であったが、課税商品・貨物の範囲、課税店舗の拡大によって重要な財源となった」(『角川世界史辞典』)。
(出典:川島真訳『世界史史料9』岩波書店、52−53頁)


Q1. 日中両国が対等の関係を結んだのは、なぜだろうか?
Q2. 日中の「商民」が、港を出て内地に積み荷を運び入れることを禁止したのはなぜだろうか?


 また、シャム(現在のタイ)は1850年代以降、朝貢を停止していた。以下は1884年におこなわれた清とシャムの交渉についての記録である。

資料 鄭観応ていかんおう南游なんゆう日記』(1884年)

〔シャムの〕王弟——朝貢を再開しないことにつき、わが国に罪があるでしょうか。28年前、わが国が使者を派遣して修貢しようとしたところ、広東の境界内に入った後に暴徒に襲われ、貢物は掠奪され、使節は殺傷されました。翻訳された国書も、多くが削除改訂され、わが国の意が中国に伝えられませんでした。これ以来、わが国は上国〔清をさす〕に朝貢しませんでした。ですので、朝貢を再開しないことで責めを受けることはないでしょう。わが国は、中国を助けて〔現在ベトナムを攻め滅ぼそうとしている〕フランスを攻められればと願っています。しかし、そのためにはまず条約を締結し、それから対応できればと考えています。……

Q. シャムは中国に、どのような外交関係を要求しているのだろうか?

(川島真訳『世界史史料9』岩波書店、75-76頁。〔 〕内は筆者が加筆) 


 アヘン戦争・アロー戦争の敗北を機に、清では西洋式工場の建設や西洋式軍隊の整備が、地方で有力となった漢人官僚(たとえば李鴻章りこうしょうが陸軍、海軍を建設)によって開始された。

資料 福州船政局(1873年設立)について
(補足:福州と浙江の総督(閩浙総督)であった左宗棠さそうとうは、太平天国との戦闘をつうじ、近代的な軍艦を建造できる造船所建設の必要性を感じ、フランス海軍大尉に協力を要請した。)
 福州の海軍工廠は、この呼び方が示すように、武器・弾薬やその他の戦争関連物を製造する工場ではない。それは特に、造船所・造船業のための作業場、付置施設として鉄を棒や板に圧延するための冶金工場を持つ総合施設である。……
 福州のような工廠を創立することはヨーロッパやアメリカにおいては極めてあたりまえのことでしかないが、中国においては、その主唱者となることは大きな個人的リスクを背負うのである。というのも、北京の政府は新規事業のイニシアティブを決して自ら取ろうとせず、そうした提案をする者にただ裁可を与えるだけであり、こうした制度の下では、左宗棠総督は計画をまったくの自分の責任で金銭的に保証しなければならなかったからである。
(フランス海軍大尉のジケル『福州の軍工廠』1874年刊。武内房司訳『世界史史料9』岩波書店、60-61頁)

Q. この資料から、清の政府は、軍事技術の近代化に対して、どのような対応をとったことがわかるだろうか?

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1880年頃の福州船政局
(パブリックドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/福州船政局#/media/ファイル:Foochow_arsenal_in_Mawei.jpg)

 上の資料のような西洋式の軍事技術の導入を進める動きを「洋務運動」という。
 西洋化、すなわち近代化を進める動きに対しては、次のような主張もあった。

資料 清朝公使の郭嵩燾かくすうとうの日記より(1877年)
「西洋が立国してから二千年、政治と教化はととのい、本と末を兼ね備えている。遼、金が興こるのと時を同じくして、西洋はにわかに盛んになったり衰えたりし、状況はまったく別のものとなった。西洋が中国にやってきてもっぱら通商だけにつとめるが、中国の衰弱はすでに深刻で、西洋は勢力をかさに攻め立て、智と力ともに勝っていた。……
……西洋は智と力によって互いに競い、二千年を経過した。エジプト、ローマ、メッカはあいついで盛衰し、つぎつぎに国を建てた。近年、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、ドイツの諸大国がたがいに雄を競い合い、万国公法を創り、互いに信義を先にし、とりはけ邦交の誼を重んじている。情を致し礼を尽くし、文化があるかどうかを問いただしているのは、春秋時代の列国をはるかに凌いでいる。……領土や武力から考えてこのロシアとイギリス二覇と称することができる。中国をめぐって接近し互いに様子を見、遠大な野心をもって虎視眈々と伺っていて、日々その富強の基を広げ、けっして暴兵がほしいままにし略奪を心とすることはなかった。……西洋の立国には本と末があり、誠にその道を得ればあいたすけて富強を導くことができ、これによって千年国を保つことができる。……」

(注)「本」とは礼、道徳、政治制度など文明の本質にかかわる部分を指し、「末」とは機械や技術など文明の末端に属することがらをさす。

Q. この資料を記した人物は、当時の官僚・知識人たちの激しい批判に晒された。それはこの筆者が、西洋と中国の文明をどのようにとらえていたからだろうか?

(川尻文彦訳『世界史史料9』岩波書店、65-67頁)


 なお、開港場の設置と通商の開始は、中国の民衆生活にも、大きな影響を与えることになった。たとえば外国人が滞在することになった天津では、住民が外国人と直接対面する機会が生まれた。

資料 直隷総督 譚廷襄たんていじょうの上奏分(1858年6月13日)
外国船が最初やってきたとき、まず金銭や物品で貧民を釣ろうとしました。そのとき住民たちは驚きうろたえ、続々と避難をはじめました。ある者は戦いをやめるように求め、ある者は通商を求めて、世論が沸き立ち、まさにばらばらになってゆくようでした。私が手段を講じて落ち着かせるようにしたので、住民は次第に安心してきたのです。しかし、ぶらぶらしていて生業がない輩はかえって外国と関係を持とうとし少しも憚ることがないでしょう。……昨日イギリス人・フランス人が無理に住民の家に入り込み帽子と衣服をとられて逃げ去り、今また金家窰きんかようで騒ぎを起こしました。……これらのことから衝突が起こり大事に至ることが、実に憂慮されるのです。(出典:吉澤誠一郎訳『世界史史料9』岩波書店、45-46頁)

Q. この総督が懸念しているのは、どのようなことなのだろうか?

 


■幕末の日本の動揺

 幕末の日本では、開国の是非や政策決定プロセスをめぐり、天皇と幕府の関係を問い直す運動が生まれた。特に天皇を推し立てることで、対外強硬政策をとろうとする尊王攘夷運動が、長州藩を中心に有力となった。
 この頃、独自に西洋式軍隊の導入を進めていった薩摩藩の発言力も高まり、国内各地で軍事的な緊張が高まった。

 1867年、将軍徳川慶喜とくがわよしのぶは天皇に自発的に政権の返上を申し出た。

資料 大政奉還 上表文(1867年10月14日)
「十月十四日の徳川慶喜の奏聞。
天皇の臣である、この慶喜が、謹んで日本の歴史的変遷を考えてみますと、昔、天皇の権力が失墜し藤原氏が権力をとり、保元・平治の乱で政権が武家に移ってから、私の祖先徳川家康に至り、更に天皇の寵愛を受け、二百年余りも子孫が政権を受け継ぎました。そして私がその職についたのですが、政治や刑罰の当を得ないことが少なくありません。今日の形勢に立ち至ってしまったのも、結局は私の不徳の致すところであり、全く恥ずかしく、また恐れ入る次第であります。まして最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、ますます政権が一つでなければ国家を治める根本の原則が立ちにくくなりましたから、従来の古い習慣を改め、政権を朝廷に返還申し上げ、広く天下の議論を尽くし、天皇のご判断を仰ぎ、心を一つにして協力して日本の国を守っていったならば、必ず海外の諸国と肩を並べていくことができるでしょう。私・慶喜が国家に尽くすことは、これ以上のものはないと存じます。しかしながら、なお、事の正否や将来についての意見もありますので、意見があれば聞くから申し述べよと諸侯に伝えてあります。そういうわけで、以上のことを謹んで朝廷へ申し上げます。以上 」
(出典:小さな資料室。太字は筆者)

Q1.「ますます政権が一つでなければ国家を治める根本の原則が立ちにくくなりました」という認識が生まれたのは、どのような危機感によるものだろうか?
Q2. 新しい政権は、どのようなものであるべきということが述べられているだろうか?


 この大政奉還は、江戸幕府を徳川家を中心とする合議制の政体へと発展させることで、権力の維持をはかろうとするものだったが、薩摩藩は長州藩と手を結び、あくまで徳川家を打倒しようとした。

 こうした日本国内の情勢の背後には、東アジアにおけるイギリスとフランスの勢力争いもあった。
 国内においても、列強の進出という共通の危機感や問題を共有しつつ、さまざまな対立を抱えつつ、近代国家の形成にむけて協調する動きが生まれていったのである。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊