15.1.1 戦後世界秩序の形成と米ソ冷戦の始まり① 世界史の教科書を最初から最後まで
日本では、第二次世界大戦の終わり(1945年8月15日の「終戦記念日」)で、いろんなことを “ひとくぎり” にすることが多いよね。
けれども、世界的に見るならば、1945年で “ひとくぎり” にしないほうがいい。
1945年の前後の “つながり” に注目しなければ、その後 1953年頃までの国際情勢のうつりかわりが、よくわからなくなってしまう。
—というわけで今回は、第二次世界大戦の末期に時計の針を戻して、1948年頃までの動きを見ていくことにしよう。
第二次世界大戦
第二次世界大戦は,イギリスの指導者に不信感を抱いたソ連の指導者〈スターリン〉が,ドイツの指導者と結んだこと(独ソ不可侵条約)によってはじまった。
当初,世論の了解が得られないアメリカ合衆国はヨーロッパでの戦いには直接的に参戦しようとしなかったけれど,日本との戦争が始まると,日本の同盟国であるドイツやイタリアとも戦うことになり,ヨーロッパの戦争が,アジア・太平洋における戦争と連結した。
しかし,のちに一転してソ連はドイツとの戦争を開始(独ソ戦)。
ソ連の指導者は,アメリカとイギリスに「ドイツを西側からも追い込んでほしい」と要請したけれど,米・英はなかなか応じようとしなかった。
イギリスの首相〈チャーチル〉は,ドイツ占領下のギリシアやユーゴスラヴィアを,先にソ連に解放されてしまったら,これらの国は助けてくれたソ連のいうことを聞くようになるだろう。ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリーも同じだ,とにらんでいたのだ。
イギリス首相の予感は的中し、数年後の勢力図はこうなる
ドイツをたたき、ソ連の勢力を西方に拡大させたかった指導者〈スターリン〉は,なかなか動こうとしないイギリスに対して,疑念をつのらせる。
イギリスはやはりソ連をつぶそうとしているのではないか,ドイツとの戦いを長期化させ共倒れをねらっているのではないかと,疑念を抱くようになったのだ。
他方,日本との戦いに苦戦していたアメリカ合衆国の指導者層は,ソ連に日ソ中立条約を破棄させ,日本を背後から攻めてもらったらいいんじゃないかと考えるようになった。
こうして米・英とソ連の利害は一致。ついに米英はドイツを背後から攻撃するための作戦が着手された。
これがノルマンディー上陸作戦だ。戦争末期といえども,ドイツ軍はしぶとく抵抗をつづけたため,米英主体の連合軍は,この作戦に多くの人員を裂いた。
東ヨーロッパをドイツから解放したソ連
この間,ソ連は着々と東ヨーロッパへの進出をすすめ,東ヨーロッパ諸国をつぎつぎに解放していた。
ポーランド,ハンガリー,チェコスロバキア,ルーマニア,ブルガリア,ユーゴスラヴィア,アルバニアに対するソ連の勢力圏への取り込みは,戦後しばらくの間は緩やかなものだった。多大な犠牲を払ったソ連は復興を第一目標とし,イギリスとアメリカとの協調関係を保とうとしたからだ。
これらの諸国では,共産党が他の政党と連立し,さまざまな政党の“ごった煮”である人民民主主義的な連立政権が建てられた。しかし人民とか民主というのは名ばかりで,ソ連共産党によるトップダウンによる体制へと変わっていった。
そもそもポーランド,ユーゴスラヴィア,アルバニアでは戦時中から共産党が実権を握っていた。
ブルガリアやルーマニアは当初は連立政権といえるものだったけれど、急速に共産党が権力を掌握していった。
これらの国をソ連が勢力下におくことで,ドイツが万が一この先また侵攻してきたとしても,それをせき止めるための「防波堤」にすることができ,経済的にも有利だとスターリンは考えたのだ。
ポーランドにおけるソ連の支配固めは早くにすすんでいった、1944年に,ソ連が後押しするかたちで,ポーランドに親ソ政権(ソ連の協力する政権。のちの共産党政権。ルブリンに置かれた)が成立していた。
しかしドイツ軍の支配地として残されていたワルシャワには1944年7~8月にソ連軍が侵攻し,それに合わせてポーランド人が立ち上がる(ワルシャワ蜂起)。この蜂起を呼びかけたポーランド亡命政府(ロンドンにあった)を米・英が支援していたことから,ソ連はポーランド人への支援を停止,代わりにドイツに鎮圧させてしまった。
ワルシャワの伝統的町並みのほとんどが,このときに失われ,死者15万人以上を出った(映画『戦場のピアニスト』(2002ポ・英・仏・独)は,この蜂起がモチーフとなっている)。
米英が支援するロンドンのポーランド亡命政府がポーランド政府なのか,それとも,ソ連の支援するポーランド政府が本当の政府なのか?
イギリスの指導者チャーチルと、ソ連の指導者スターリンとの間で火花が散らさた。
そこでヤルタ会談において、アメリカ合衆国は総選挙の実施を提案。
しかし、その後も対立は続いたため,1945年4月の国際連合憲章を採択するためのサンフランシスコ会議には、ポーランドのみ代表を送れないことになった。
その後、ソ連はロンドンの亡命政府関係者を帰国後に逮捕し、ポーランドにはソ連の支援する政府のみが残された。
これにアメリカのトルーマン大統領は強く反発。対立は決定的なものとなった。
ちなみにポーランドの国境は,オーデル=ナイセ線を新たに引いてポツダム宣言により従来よりも西側にずらされることになった(下記の説明)。
「連合国」が、そのまま国際連盟に代わる国際組織になった
1945年4〜6月のサンフランシスコ会議で国際連合憲章が採択され、国際連合は1945年10月に,本部をアメリカ合衆国のニューヨークに置いて発足した。
国際連盟の本部はスイスのジュネーヴだったよね。
つまり、国際政治の中心が、本格的にヨーロッパからアメリカに移ったことを象徴づける展開となったのだ。
アメリカ合衆国,イギリス,フランス,ソ連,中華民国は五大国として,安全保障理事会の常任理事国となり,拒否権を行使する権限を得た。
なお日本では「国際連合」と翻訳されたこの組織は,中国語では「連合国」つまりUnited Nationsを指す。だから,連合軍の敵国であったドイツ,イタリア,日本などは引き続き「敵国」とされ,加盟することはゆるされなかったのだ。
ドイツは分割占領された
ドイツはアメリカ,イギリス,フランス,ソ連に分割占領されることになった。
首都ベルリンも,西ベルリンはアメリカ,イギリス,フランスの管理下。東ベルリンはソ連の管理下に置かれた。
まだ「ベルリンの壁」はないことに注意しよう。
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イタリアでは王政が廃止された
イタリアはバドリオ新政権が国民投票を実施し、ムッソリーニに政治を任せた王政が廃止され共和政になった。
占領軍は,アメリカ合衆国とイギリスが中心となっており,アメリカ合衆国寄りの外交が進められていく。
日本の占領政策でも,同様にアメリカ合衆国が主導権を握ることになった。
チャーチルが「鉄のカーテン」を察知した
以上の情勢をつぶさに観察していたのは,すでに首相の座をおりていたイギリスのチャーチルだ(戦争末期に選挙で敗れて下野していた)。
彼は1946年3月、アメリカ合衆国のフルトン大学で行われた講演で,ソ連が東ヨーロッパから南ヨーロッパにかけて,勢力圏をしだいに拡大させている可能性があるが、中で何が起こっているのかはわからない。まるでヨーロッパには,バルト海からアドリア海にかけて南北方向に降ろされた「鉄のカーテン」があるようだ、と指摘する。
ソ連の拡大を食い止めたかったものの,もはやイギリスにはその力はあるわけない。
同じ頃,ソ連の動きを分析した長文電報をモスクワから送っていたジョージ=ケナンは,1947年にXという匿名を使って『フォーリン=アフェアーズ』という外交専門誌に「拡大しようとしているソ連を阻止する必要がある」と主張。
これを信じたマーシャル国務長官(任1947~49)がケナンを登用したことが,トルーマン大統領の「封じ込め政策」(containment policy,1947.3)の発表へとつながった。
トルーマン大統領は、「アメリカの外交政策の主要目標の一つは、われわれと他の諸国民が圧政に脅かされることなく生活を営むことのできる状況を創り出すことにある」と議会への特別教書演説で訴え、次のように述べた。
二つの生活様式として、トルーマンは以下を挙げる。
原文はこちら。
トルーマンは、「自由な諸制度」が脅かされているギリシャやトルコを救わなければ、「混乱と無秩序が中東地域全体に広がる」と指摘。
本来ならばイギリスがその役目を果たすはずなのだが、もはやそんなパワーは残されていない。
そこでアメリカがイギリスに変わって、積極的にソ連(「自由な諸制度」を脅かす国)の拡大を防ぐ必要があるという方針を立てたのだ。
1947年6月には、マーシャル国務長官がヨーロッパ諸国に経済援助をするマーシャル=プランを、ハーバード大学名誉学位授与式の演説の場を借りて発表。
原文はこちら(Marshall Foundation)。
マーシャルは演説の中で「特定の国や教義に反対するものではない」と述べている。しかし実際には、援助政策はソ連に対抗するものだった。
当初、ポーランドとチェコスロヴァキアはプランへの参加を表明したものの、ソ連の圧力により、かなわなかった。アメリカに対抗するため、諸国の共産党間の情報交換のために1947年にソ連はコミンフォルム(共産党情報局)を結成している。
こうしてさっそくアメリカ合衆国は,ソ連の地中海への南下を防ぐため、ギリシアとトルコの親米勢力に贈与・借款を大規模に実施する。
ようするに黒海方面からのソ連の南下を防ぎ、地中海に出てこないように封じ込めようというわけだ。
こうしてヨーロッパから中東にかけての地域は、アメリカの援助を受け入れる「西側」と、ソ連の援助を受け入れる「東側」とに引き裂かれていくこととなったのだ。
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自由なビジネスを世界中で!
アメリカはイギリスが世界にある自国植民地との貿易から他国を排除していること(ブロック経済)を批判し、世界中で自由な貿易ができる仕組みをつくろうと動き出す。
新たな自由貿易体制においては、ドルが基軸通貨(キー=カレンシー)とされ,お金が足りない国にはアメリカ合衆国が中心となって出資するIMF(アイエムエフ,国際通貨基金)や、IBRD(アイビーアールディー,国際復興開発銀行)が貸し出す機関をつくり、アメリカ合衆国が世界で投資をしやすい仕組みを整えていった。
また,GATT(ガット,関税と貿易に関する一般協定)が1947年に署名され,世界各国が輸入品に対し個別にかけている関税を,国際会議によって減らし,自由貿易を推進していくことが定められた。
参考書籍
・歴史学研究会編『世界史史料11 20世紀の世界—第二次世界大戦後の冷戦と開発』岩波書店、2012年
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊