見出し画像

新科目「歴史総合」を読む 2-3-6. 第二次世界大戦における連合国と戦後構想

メイン・クエスチョン
第二次世界大戦は、”何“ と、”何” の戦いであったといえるのだろうか?

はじめに

 第二次世界大戦は、1939年にナチス政権のドイツとソ連が提携し、第一次世界大戦後のヨーロッパの既成秩序を崩そうとしたことから始まった。

 しかし、その性格は、1941年6月の独ソ戦の開始や、同年12月の日本によるアメリカ・イギリスとの戦争の開始とともに変化していくことになる。

 まず、1942年1月、日独伊の枢軸国と交戦するアメリカ合衆国、イギリス、ソ連を中心とする26か国は、アメリカの首都ワシントンで「連合国共同宣言に署名し、枢軸国に対する戦争目的を明確化した。

資料 連合国共同宣言(1942年)
〔アメリカ合衆国、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国、ソヴィエト社会主義共和国連邦、中国、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コスタ・リカ、キューバ、チェコスロヴァキア、ドミニカ共和国、サルヴァドル、ギリシャ、グァテマラ、ハイティ、ホンデュラス、インド、ルクセンブルグ、オランダ、ニュー・ジーランド、ニカラグァ、ノールウェー、パナマ、ポーランド、南アフリカ及びユーゴースラヴィアの共同宣言〕
(1942年1月1日ワシントンで署名)

 この宣言の署名国政府は、大西洋憲章として知られる1941年8月14日付アメリカ合衆国大統領並びにグレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国総理大臣の共同宣言に包含された目的及び原則に関する共同綱領書に賛意を表し、
 これらの政府の敵国に対する完全な勝利が、生命、自由、独立及び宗教的自由を擁護するため並びに自国の国土において及び他国の国土において人類の権利及び正義を保持するために必要であること並びに、これらの政府が、世界を征服しようと努めている野蛮で獣的な軍隊に対する共同の闘争に現に従事していることを確信し、次のとおり宣言する。

(1) 各政府は、三国条約の締約国及びその条約の加入国でその政府が戦争を行っているものに対し、その政府の軍事的又は経済的な全部の資源を使用することを誓約する。

(2) 各政府は、この宣言の署名国政府と協力すること及び敵国と単独の休戦又は講和を行わないことを誓約する。

 この宣言は、ヒトラー主義に対する勝利のための闘争において物質的援助及び貢献している又はすることのある他の国が加入することができる。

(出典:https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/pw/19420101.D1J.html)

 日本が主催した大東亜会議(1943年11月)は、連合国共同宣言を意識したものだった。

資料 大東亜会議(1943年11月)
(『日本外交年表竝主要文書』下巻、外務省、593-594頁)
昭和一八年一一月六日大東亞會議事務局發表
昭和十八年十一月五日及六日ノ兩日東京ニ於テ大東亞會議ヲ開催セリ同會議ニ出席ノ各國代表者左ノ通
日本國 内閣總理大臣 東條英機閣下
中華民國 國民政府行政院院長 汪兆銘閣下
「タイ」國 内閣總理大臣「ピー、ピブン、ソンクラム」元帥閣下ノ名代トシテ「ワンワイタヤコーン」殿下
滿洲國 國務總理大臣 張景惠閣下
「フィリピン」共和國大統領「ホセ、ペー、ラウレル」閣下
「ビルマ」國 内閣總理大臣 「バー、モウ」閣下

同會議ニ於テハ大東亞戰爭完遂ト大東亞建設ノ方針トニ關シ各國代表ハ隔意ナキ協議ヲ遂ケタル處全會一致ヲ以テ左ノ共同宣言ヲ採擇セリ

大東亞共同宣言
抑々世界各國カ各其ノ所ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隸屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ケ大東亞ノ親和ヲ確立ス

一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ増進ス

一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンテ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス

(出典:https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/pw/19431106.T1J.html


 連合国は、敵国の枢軸国側を「自由」と「民主主義」を抑圧する全体主義体制であると非難し、それをマス・メディアを通して広く発表し続けた。




■第二次世界大戦の終結

サブ・クエスチョン
連合国は、どのような経過を経て、終結に向かったのだろうか?

 1943年はじめ、ドイツはスターリングラードの攻防戦でソ連に敗北した。
 同年にはシチリア島に連合軍が上陸し、ムッソリーニ政権が崩壊。9月にイタリア新政府は無条件降伏を受諾した。

 1943年11月に米英首脳は中華民国の蒋介石とカイロで会談し、日本の無条件降伏と植民地の放棄についてとりきめた。


資料 カイロ宣言(1943年)
「3国の目的とするところは、日本国が1914年の第一次世界大戦の開始以来奪取または占領した太平洋上の一切の島嶼を剥奪すること、および満洲、台湾および澎湖島のごとき日本国が中国人より盗取した一切の領域を中華民国に返還することにある。……前期の3大国は朝鮮人民の奴隷的状態に深く注意し、やがて朝鮮を自由にして独立のものとすることを固く注意している。……以上の目的をもって3同盟国は、日本国と交戦中の連合国と協力して、日本国を無条件降伏せしめるには必要な重大にして長期にわたる行動を続行するであろう。」


 1943年11月〜12月にはテヘラン会談が開催され、スターリンが望むドイツに対する西部戦線(第二戦線)の構築について、英米首脳が同意した。これにのっとり、1944年6月からノルマンディー上陸作戦がおこなわれ、8月にパリが解放された。

 1945年2月には、米英ソの首脳が、ドイツの戦後処理について話し合った。これにより、ドイツは分割占領されることが決められたほか、ソ連がドイツから解放した諸国では自由な選挙がおこなわれることが宣言された。
 なお、このとき、チャーチルとスターリンの間で戦後ヨーロッパにおける勢力圏の割合の取り決めが密約で結ばれている。

 1945年4月、ソ連がベルリンに迫ると、ヒトラーは地下壕で自決した。5月にドイツが連合軍に無条件降伏すると、7〜8月にベルリン郊外のポツダムで、米英ソの首脳がヨーロッパの戦後処理について話し合った。

資料 ポツダム宣言

千九百四十五年七月二十六日
米、英、支三国宣言
(千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)

下記の通り

(出典:外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊、国立国会図書館ウェブサイトより重引、https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html
  • 一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ

  • 二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ

  • 三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ

  • 四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ

  • 五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
    吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス

  • 六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス

  • 七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ

  • 八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ

  • 九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ

  • 十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ふりょヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ

  • 十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ

  • 十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ

  • 十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス


■戦後の国際秩序

サブ・クエスチョン
戦後の国際秩序は、どのように構想されていったのだろうか? 

 アメリカ合衆国大統領は、早くから戦後世界の国際秩序について構想し、協議の場をもうけていた。
 これには、かつてウィルソン大統領が「十四か条」によって戦後構想を示していたのにもかかわらず、戦後にはイギリスとフランスに講和の主導権を握られてしまったことと、同じ轍を踏まないようにとの意識も働いていた。


国際経済秩序の形成

サブ・サブ・クエスチョン
新たに構想された国際経済秩序には、第一次世界大戦や第二次世界大戦におけるどのような点が教訓とされ、どの程度生かされているのだろうか?

 1943年11月の米英ソ中によるモスクワ宣言においては、国際連盟にかわるあらたな国際組織を設立する必要性が訴えられ、1944年にはアメリカ合衆国のブレトン・ウッズで連合国44か国が、国際通貨基金(IMF)国際復興開発銀行(IBRD)の創設を決定した。
 これは、世界恐慌後の1930年代に広まったブロック経済化が、第二次世界大戦を招いたという認識にもとづくものである。
 これにより、各国の通貨の交換比率(すなわち為替相場かわせそうば)は固定されることとなり、金との交換(兌換だかん)を保障されたアメリカの通貨ドルが、国際的な基軸通貨となる国際経済秩序(金ドル本位制ブレトン=ウッズ体制)が発足した。それが可能であったのは、第二次世界大戦終了期のアメリカが、世界の金の70%近くを保有し、鉱工業生産の60%を占めるという圧倒的経済力を備えていたからである。

資料 世界各国の金準備を風刺した絵(1947年)

https://devemyhg.lycee-darchicourt.net/category/multimedia/images/caricatures/page/2/
https://www.stlouisfed.org/on-the-economy/2020/august/trade-gold-reserves-classical-gold-standard-era


資料 国際復興開発銀行協定
第1条第1項 生産的な目的のための投資を助長することによって、加盟国領土の復興や開発を援助すること。そのなかには、戦争によって破壊または解体された経済の復興や平時需要への生産設備の再転換および低開発諸国における生産設備や資源の開発の助長が含まれる。
資料 国際通貨基金協定 
第4項 加盟国間の経常取引に関する多角的決済制度の確立ならびに世界貿易の拡大を阻害する外国為替制限の除去を援助する。

(出典:『世界史史料11』岩波書店)


国際連合の形成

サブ・サブ・クエスチョン
国際連合は、どのような目的によって構想され、その目的の実現にあたっては、どのような限界があったのだろうか?

 1944年8〜10月にかけて、ワシントンDC郊外のダンバートン・オークスに米英ソ中の代表が集まり、国際連合の構想が話し合われた。

風刺画 風刺画「国連クラブ」(1945年)

それぞれ、どの国を表しているのだろうか?
Fine team but could do with a dash of unity…(日本語訳:素晴らしいチームだが、もう少し団結力が欲しいところだ...。)


 1945年のヤルタ会談で、ソ連は拒否権などについて、アメリカ側に要求。アメリカは譲歩の姿勢を示し、ソ連の意向を受け入れた。
 こうして1945年4〜6月のサンフランシスコ会議で国際連合憲章が採択され、国際連合は原加盟国51か国で発足した。

 第一次世界大戦後のアメリカは孤立主義こりつしゅぎに立ち戻ったが、第二次世界大戦後のアメリカは自由貿易体制の中心と、国際連合の常任理事国として、指導力を発揮することとなり、国内世論もそれを後押しした。

資料 「国際連合憲章」
われら連合国の人民は、われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、
並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和および安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、
これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
よって、われらの各自の政府は、サンフランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける
(国際連合広報センター https://www.unic.or.jp/info/un/charter/)

資料 連合国のポスター「UNITED we are strong」(1943年)
Q. 1943年と年のポスターにおける「The United Nations=連合国=国際連合」の描かれ方には、どのような違いがあるだろうか?

(パブリック・コモンズhttps://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:United_we_are_strong._United_we_will_win.jpg


資料 NATIONS UNIES(Henry Eveligh作)(1947年)

https://collections.mnbaq.org/fr/oeuvre/600025943


資料 国際連合に対する風刺画(1948年、『PUNCH』)
サブ・サブ・クエスチョン
この風刺画は、国際連合のどのような点を風刺しているのだろうか?

(出典:「文句なしのラクダ「どうでもいいですね。どうせ立ち上がれないんだから。」右下の鎌とトンカチはソ連を表し、鎌には「拒否権(VETO)」と書かれている。ラクダは「国連(UNITED NATIONS)」をあらわし、そこに続々と主にが載せられていく。すでに積まれた荷物には「ハイデラーバード、朝鮮、イタリアの植民地、ベルリン、パレスチナ、委任統治領」とあり、そこに「ギリシアとバルカン半島」の荷物を持ってくる人も。https://punch.photoshelter.com/image/I0000_68JWDKLCLg)



 なお、1948年には第3回国連総会で世界人権宣言が採択された。この宣言においては人権が国を超えて保障される規範としてはじめて示され、戦後世界の全人類が共有すべき理念がはじめて国際政治の表舞台で採択された点で意義深いものである。



資料 世界人権宣言(1948年)
前文
 人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、
 人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、
 人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権保護することが肝要であるので、
 諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要であるので、
 国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、
 加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約したので、
 これらの権利及び自由に対する共通の理解は、この誓約を完全にするためにもっとも重要であるので、
 よって、ここに、国際連合総会は、
 社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。

資料 世界人権宣言(1948年)

前文

 人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、
 人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、
 人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権保護することが肝要であるので、
 諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要であるので、
 国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、
 加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約したので、
 これらの権利及び自由に対する共通の理解は、この誓約を完全にするためにもっとも重要であるので、
 よって、ここに、国際連合総会は、
 社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。

第一条
 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

第二条
1  すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
2  さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

第三条
 すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

第四条
 何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。

第五条
 何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。

第六条
 すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。

第七条
 すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。

第八条
 すべて人は、憲法又は法律によって与えられた基本的権利を侵害する行為に対し、権限を有する国内裁判所による効果的な救済を受ける権利を有する。

第九条
 何人も、ほしいままに逮捕、拘禁、又は追放されることはない。

第十条
 すべて人は、自己の権利及び義務並びに自己に対する刑事責任が決定されるに当っては、独立の公平な裁判所による公正な公開の審理を受けることについて完全に平等の権利を有する。

第十一条
1  犯罪の訴追を受けた者は、すべて、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。
2  何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない。また、犯罪が行われた時に適用される刑罰より重い刑罰を課せられない。

第十二条
 何人も、自己の私事、家族、家庭若しくは通信に対して、ほしいままに干渉され、又は名誉及び信用に対して攻撃を受けることはない。人はすべて、このような干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。

第十三条
1  すべて人は、各国の境界内において自由に移転及び居住する権利を有する。
2  すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する。



Q. 世界人権宣言のどの点に、第二次世界大戦に対する反省がみられるだろうか?

(仮訳、外務省、https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html


■日本の安全保障に対する影響

 日本占領当初のアメリカ政府は、安定的な米ソ関係を維持し、国連や安保理の常任理事国の防衛によって、軍事力を放棄した日本の安全を保障しようと考えていた。
 しかし1947年以降、米ソ関係が悪化し、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、そのような楽観的見方は排除された。朝鮮戦争における国連軍組織はアメリカにより主導され、その意味で安保理の機能は維持されたが、ソ連が拒否権を発動すれば、安保理の機能が麻痺するおそれが出てきたのである。
 そこで日本の吉田茂首相は、日本の主権回復後もアメリカ軍の駐留を容認することを決定し、1951年の日米安全保障条約に繋がった。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊