はじめに
第二次世界大戦は、1939年にナチス政権のドイツとソ連が提携し、第一次世界大戦後のヨーロッパの既成秩序を崩そうとしたことから始まった。
しかし、その性格は、1941年6月の独ソ戦の開始や、同年12月の日本によるアメリカ・イギリスとの戦争の開始とともに変化していくことになる。
まず、1942年1月、日独伊の枢軸国と交戦するアメリカ合衆国、イギリス、ソ連を中心とする26か国は、アメリカの首都ワシントンで「連合国共同宣言に署名し、枢軸国に対する戦争目的を明確化した。
日本が主催した大東亜会議(1943年11月)は、連合国共同宣言を意識したものだった。
連合国は、敵国の枢軸国側を「自由」と「民主主義」を抑圧する全体主義体制であると非難し、それをマス・メディアを通して広く発表し続けた。
■第二次世界大戦の終結
1943年はじめ、ドイツはスターリングラードの攻防戦でソ連に敗北した。
同年にはシチリア島に連合軍が上陸し、ムッソリーニ政権が崩壊。9月にイタリア新政府は無条件降伏を受諾した。
1943年11月に米英首脳は中華民国の蒋介石とカイロで会談し、日本の無条件降伏と植民地の放棄についてとりきめた。
1943年11月〜12月にはテヘラン会談が開催され、スターリンが望むドイツに対する西部戦線(第二戦線)の構築について、英米首脳が同意した。これにのっとり、1944年6月からノルマンディー上陸作戦がおこなわれ、8月にパリが解放された。
1945年2月には、米英ソの首脳が、ドイツの戦後処理について話し合った。これにより、ドイツは分割占領されることが決められたほか、ソ連がドイツから解放した諸国では自由な選挙がおこなわれることが宣言された。
なお、このとき、チャーチルとスターリンの間で戦後ヨーロッパにおける勢力圏の割合の取り決めが密約で結ばれている。
1945年4月、ソ連がベルリンに迫ると、ヒトラーは地下壕で自決した。5月にドイツが連合軍に無条件降伏すると、7〜8月にベルリン郊外のポツダムで、米英ソの首脳がヨーロッパの戦後処理について話し合った。
一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ
四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ
五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
■戦後の国際秩序
アメリカ合衆国大統領は、早くから戦後世界の国際秩序について構想し、協議の場をもうけていた。
これには、かつてウィルソン大統領が「十四か条」によって戦後構想を示していたのにもかかわらず、戦後にはイギリスとフランスに講和の主導権を握られてしまったことと、同じ轍を踏まないようにとの意識も働いていた。
国際経済秩序の形成
1943年11月の米英ソ中によるモスクワ宣言においては、国際連盟にかわるあらたな国際組織を設立する必要性が訴えられ、1944年にはアメリカ合衆国のブレトン・ウッズで連合国44か国が、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)の創設を決定した。
これは、世界恐慌後の1930年代に広まったブロック経済化が、第二次世界大戦を招いたという認識にもとづくものである。
これにより、各国の通貨の交換比率(すなわち為替相場)は固定されることとなり、金との交換(兌換)を保障されたアメリカの通貨ドルが、国際的な基軸通貨となる国際経済秩序(金ドル本位制、ブレトン=ウッズ体制)が発足した。それが可能であったのは、第二次世界大戦終了期のアメリカが、世界の金の70%近くを保有し、鉱工業生産の60%を占めるという圧倒的経済力を備えていたからである。
資料 世界各国の金準備を風刺した絵(1947年)
国際連合の形成
1944年8〜10月にかけて、ワシントンDC郊外のダンバートン・オークスに米英ソ中の代表が集まり、国際連合の構想が話し合われた。
風刺画 風刺画「国連クラブ」(1945年)
1945年のヤルタ会談で、ソ連は拒否権などについて、アメリカ側に要求。アメリカは譲歩の姿勢を示し、ソ連の意向を受け入れた。
こうして1945年4〜6月のサンフランシスコ会議で国際連合憲章が採択され、国際連合は原加盟国51か国で発足した。
第一次世界大戦後のアメリカは孤立主義に立ち戻ったが、第二次世界大戦後のアメリカは自由貿易体制の中心と、国際連合の常任理事国として、指導力を発揮することとなり、国内世論もそれを後押しした。
資料 NATIONS UNIES(Henry Eveligh作)(1947年)
なお、1948年には第3回国連総会で世界人権宣言が採択された。この宣言においては人権が国を超えて保障される規範としてはじめて示され、戦後世界の全人類が共有すべき理念がはじめて国際政治の表舞台で採択された点で意義深いものである。
■日本の安全保障に対する影響
日本占領当初のアメリカ政府は、安定的な米ソ関係を維持し、国連や安保理の常任理事国の防衛によって、軍事力を放棄した日本の安全を保障しようと考えていた。
しかし1947年以降、米ソ関係が悪化し、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、そのような楽観的見方は排除された。朝鮮戦争における国連軍組織はアメリカにより主導され、その意味で安保理の機能は維持されたが、ソ連が拒否権を発動すれば、安保理の機能が麻痺するおそれが出てきたのである。
そこで日本の吉田茂首相は、日本の主権回復後もアメリカ軍の駐留を容認することを決定し、1951年の日米安全保障条約に繋がった。