14.4.6 ファシズム諸国の攻勢と枢軸の形成 世界史の教科書を最初から最後まで
世界恐慌後のイタリア
もともと経済基盤の弱かったイタリアは、世界恐慌で経済危機に直面。
これを打開するべく、イタリア王国の指導者(肩書きは主席宰相および国務大臣)であるムッソリーニは、1935年にエチオピア帝国に侵攻し、翌年には全土を征服した。
ムッソリーニは、「エチオピアの命運は尽き、ついにイタリアは、帝国を獲得した。それは、文明の帝国であり、エチオピアの全人民に対して人道的な帝国である」(荒井信一、上掲、36頁)とし、エチオピア侵略を文明国イタリアが人道をもたらすものとして正当化した。
国際連盟はこの行為を「侵略」と認め、国際連盟史上初めて「経済制裁」を発動。しかし、国際連盟に入っていなかったアメリカからは依然として石油などを輸入することができたのだから、制裁は不十分に終わった。
アジアやアフリカに植民地を多数もっていたフランスをはじめとする列強も、エチオピア側に立とうとはしなかった。連盟がイタリアの爆撃を非難したのは、ヨーロッパ諸国の赤十字の救援隊が爆撃した場合に限られた。
こうしてイタリアのエチオピア侵略を止めることができず、「連盟では世界平和を守れない」との認識が広がった。
ヒトラーとムッソリーニの接近
そんな中、国際社会から孤立していたイタリアに目をつけたドイツのヒトラーは、ムッソリーニに接近。
1936年のスペイン内戦ではともにフランコを支援し、同年10月にはイタリア外相がドイツを訪問し、議定書を交わした。
これに関するムッソリーニの演説にちなんで、両国の関係は「ベルリン=ローマ枢軸」(すうじく。アクシス)と呼ばれるようになる。
ヨーロッパは、ドイツとイタリアの協調関係はドイツの首都ベルリンと、イタリアの首都ローマを結ぶ「軸」(アクシス)を中心にくるくると回転するようになるぞ、もうイギリスやフランスの時代は終わりだし、ソ連なんて論外だぞ、というわけだ。
オーストリア併合(1938年3月)をもくろむヒトラーにとって、イタリアとの協調関係は必要不可欠なものだったのだ。
世界恐慌後のスペイン
さて、しばらくご無沙汰していたスペインはどうなっているのだろう。
当時スペインを統治していたのは、ブルボン(ボルボん)家の国王アルフォンソ13世。
第一次世界大戦では中立政策をとり、戦時景気をもたらすものの、国内の不平等が進行し、社会は不安定になっていった。
アルフォンソ13世
社会不安をおさえるため、イタリアの真似をして1923年には将軍(プリモ=デ=リベーラ)に強権的な政治を任せてみるものの、世界恐慌勃発でどん詰まり。
プリモ=デ=リベーラ将軍
1930年に将軍を辞めさせたものの、1931年には国王自身も亡命を余儀なくされ、混乱に拍車がかかった。
そんな中、1936年にはソ連との提携によって、ファシズムを打倒しようとする「人民戦線派」(リーダーはアサーニャ)が選挙に勝って政府を組織した。
しかし課題は山積みで、国内のさまざまな勢力を納得させることはできないまま、軍人のフランコが政府に対し公然と反乱を起こした。
フランコは、「スペインが社会主義の国になったら困る」と心配する地主層(カトリック教会も)や、「王政を取り戻してほしい」と願う旧王党派の支持を得たのだ。
スペインは内戦状態に陥った。
これをスペイン内戦という。
イギリスとフランスは「スペインの国内の揉め事には首を突っ込まない」と不干渉(どちらかに首を突っ込まないこと)を決め込んだ。
特にイギリスにとってみれば、人民戦線派が政権をとってスペインがソ連の友好国になるよりは、ソ連嫌いのフランコが勝ってくれたほうが都合がいいからね。
フランコ側には、地中海制覇をねらうムッソリーニ率いるイタリアが接近。
ヒトラー率いるドイツとともに、フランコ側をなんの隠し立てもなくサポートした。
そんな中ドイツは、バスク人の小さな町「ゲルニカ」を攻撃、新兵器を使用した空爆だった。スペインからフランスにまたがって分布し独自の文化を保っていたバスク人が標的とされたことは、当時から世界に大きな衝撃を与え、ピカソに大作〈ゲルニカ〉を描かせることとなった。
アサーニャ側にはソ連や、欧米の社会主義者と知識人が国際義勇軍として支援。
国際義勇軍の中には、アメリカ人の作家ヘミングウェー(1899〜1961年)、フランス人のマルロー(1901〜1976年)、イギリスのジョージ=オーウェル(1903〜1950年)も含まれ、それぞれ内戦にまつわる作品をのこした。
ヘミングウェイ『誰(た)がために鐘は鳴る』
ジョージ=オーウェル『カタロニア讃歌』
アンドレ=マルロー『希望』
こうして、スペイン内戦は、“単なる内戦” ではなくなり、国際問題に発展。
結果的に1939年にフランコ側が、首都マドリードを陥落させて勝利した。
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この過程で日本は1936年(昭和11年)にドイツとの間に日独防共協定を結ぶ。
防共の「共」は、「共産主義」のこと。
すなわち、共産党の指導する「ソ連」を指す。
当時、急速にスターリン体制を固めていたソ連にとって、西のドイツと東の日本は「仮想敵国」。
ユーラシア大陸の両端にあったドイツと日本が、ソ連を媒介にして結びつき合うこととなったのだ。
1937年9月にはムッソリーニがドイツを訪問。
ドイツとイタリアの「枢軸」の絆を、国際社会に見せつけた。
1937年(昭和12年)11月にはイタリアも加わって「三国防共協定」に発展。
ドイツの強い要望で日独防共協定に、イタリアが原署名国としての資格で加盟する形態が取られた。
三国はともに、国際連盟」からの「脱退」組となる(日本1933.2、ドイツ1935.10、イタリア1937.12)。
イギリス・フランスに敵対する点でも共通している。
ソ連も、秘密協定によって仮想敵国とされていた。
ベルリン=ローマ枢軸に日本が参加したことで「三国枢軸」グループが成立。
日本は「三国枢軸」のメンバーとして国際政治に足を踏み入れることになる。
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