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14.4.6 ファシズム諸国の攻勢と枢軸の形成 世界史の教科書を最初から最後まで


世界恐慌後のイタリア


もともと経済基盤の弱かったイタリアは、世界恐慌で経済危機に直面。


これを打開するべく、イタリア王国の指導者(肩書きは主席宰相および国務大臣)であるムッソリーニは、1935年にエチオピア帝国に侵攻し、翌年には全土を征服した。

史料 エチオピア皇帝の国際連盟における演説(1936年1月30日)

[…]イタリア軍はおもに宣戦から遠くはなれて暮らす人々を恐怖に落としいれ、絶滅するために攻撃を集中した。彼らの飛行機にはマスタードガスの噴霧器がとりつけられていたので、微細で致死性の毒ガスを広範囲に散布することができた。1936年1月からは、兵士、女性、子ども、家畜、川、湖と野原がこの果てしない雨でびしょ濡れにされた。生きとし生けるものを滅ぼし、さらに確実に水路と牧野を破壊するため、イタリア軍司令官は絶え間なく飛行機を巡回させた。おそろしい戦術は成功だった。人間も動物も死んだ。死の雨にふれた人は皆逃げ出し、苦痛の叫びをあげた。毒入りの水を飲み汚染された食べ物を食べた人は皆、苦悶しつつ死んだ。[…]


*この演説は、エチオピアにおける一般住民に対する毒ガスの使用、無差別爆撃を非難するものだ。この司令官ピエトロ・バドリオは、ムッソリーニ退任後、イタリア首相となる人物だ。
「[…]アジスアベバ占領後にエチオピア副王に任命されたルドルフォ・グラツィアーニは残酷さで有名であった。1936年2月に彼の暗殺未遂事件が起こると、ファシスタ党の義勇兵組織、黒シャツ隊に三日間好きなだけエチオピア人を殺してもよいと命令をだした。シルヴィア・パンクハーストの『NTEN』紙(3月13日付)は「黒シャツ隊の一団は、ライフル銃、ピストル、爆弾、ナイフ、こん棒などを用いて好き勝手なことをした。今回の虐殺での犠牲者の数は約6000人といわれている」(岡本登志訳)と報じた。」

荒井信一『空爆の歴史』岩波書店、2008年、35-36頁。


史料 エチオピア皇帝の国際連盟総会における演説(1936年6月30日)

[…]私は同盟国に対する侵略が生じた際、援助を行うと約束した52か国に依頼したい。小国が消滅することがないよう、そしてエチオピアで生じた悲運が同盟国で同様に生じないように集団的安全保障を約束したあなた方列強は、エチオピアの自由が侵害されることなく、領土保全が尊重されるためにどのような援助をしてくれるつもりなのでしょうか? ここに集まる世界の代表たる方々、私は私皇帝にふりかかった最も悲劇的な義務を果たすためにジュネーヴにやってきたのです。私は人民にいかなる答えを持ち帰ることができるでしょうか。

歴史学研究会編『世界史史料10』岩波書店

ムッソリーニは、「エチオピアの命運は尽き、ついにイタリアは、帝国を獲得した。それは、文明の帝国であり、エチオピアの全人民に対して人道的な帝国である」(荒井信一、上掲、36頁)とし、エチオピア侵略を文明国イタリアが人道をもたらすものとして正当化した。

国際連盟はこの行為を「侵略」と認め、国際連盟史上初めて「経済制裁」を発動。しかし、国際連盟に入っていなかったアメリカからは依然として石油などを輸入することができたのだから、制裁は不十分に終わった。
アジアやアフリカに植民地を多数もっていたフランスをはじめとする列強も、エチオピア側に立とうとはしなかった。連盟がイタリアの爆撃を非難したのは、ヨーロッパ諸国の赤十字の救援隊が爆撃した場合に限られた。

史料 フランスの国防省ムーラン将軍からのフランス首相宛の手紙(1936年1月29日付)
イタリアの敗北は、すべての植民地領有国の敗北と受け取られるだろう。植民地支配国はいずれかのヨーロッパ強国に黒人国家が勝利するのを見たいとは思わないだろう。」

(荒井信一、上掲、37頁)



こうしてイタリアのエチオピア侵略を止めることができず、「連盟では世界平和を守れない」との認識が広がった。


ヒトラーとムッソリーニの接近

そんな中、国際社会から孤立していたイタリアに目をつけたドイツのヒトラーは、ムッソリーニに接近。
1936年のスペイン内戦ではともにフランコを支援し、同年10月にはイタリア外相がドイツを訪問し、議定書を交わした。
これに関するムッソリーニの演説にちなんで、両国の関係は「ベルリン=ローマ枢軸」(すうじく。アクシス)と呼ばれるようになる。



ヨーロッパは、ドイツとイタリアの協調関係はドイツの首都ベルリンと、イタリアの首都ローマを結ぶ「軸」(アクシス)を中心にくるくると回転するようになるぞ、もうイギリスやフランスの時代は終わりだし、ソ連なんて論外だぞ、というわけだ。

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オーストリア併合(1938年3月)をもくろむヒトラーにとって、イタリアとの協調関係は必要不可欠なものだったのだ。


世界恐慌後のスペイン


さて、しばらくご無沙汰していたスペインはどうなっているのだろう。


当時スペインを統治していたのは、ブルボン(ボルボん)家の国王アルフォンソ13世。

第一次世界大戦では中立政策をとり、戦時景気をもたらすものの、国内の不平等が進行し、社会は不安定になっていった。

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アルフォンソ13世


社会不安をおさえるため、イタリアの真似をして1923年には将軍(プリモ=デ=リベーラ)に強権的な政治を任せてみるものの、世界恐慌勃発でどん詰まり。

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プリモ=デ=リベーラ将軍



1930年に将軍を辞めさせたものの、1931年には国王自身も亡命を余儀なくされ、混乱に拍車がかかった。


そんな中、1936年にはソ連との提携によって、ファシズムを打倒しようとする「人民戦線派」(リーダーはアサーニャ)が選挙に勝って政府を組織した。
しかし課題は山積みで、国内のさまざまな勢力を納得させることはできないまま、軍人のフランコが政府に対し公然と反乱を起こした。

フランコは、「スペインが社会主義の国になったら困る」と心配する地主層(カトリック教会も)や、「王政を取り戻してほしい」と願う旧王党派の支持を得たのだ。

スペインは内戦状態に陥った。

これをスペイン内戦という。

イギリスとフランスは「スペインの国内の揉め事には首を突っ込まない」と不干渉(どちらかに首を突っ込まないこと)を決め込んだ。
特にイギリスにとってみれば、人民戦線派が政権をとってスペインがソ連の友好国になるよりは、ソ連嫌いのフランコが勝ってくれたほうが都合がいいからね。

フランコ側には、地中海制覇をねらうムッソリーニ率いるイタリアが接近。
ヒトラー率いるドイツとともに、フランコ側をなんの隠し立てもなくサポートした。

そんな中ドイツは、バスク人の小さな町「ゲルニカ」を攻撃、新兵器を使用した空爆だった。スペインからフランスにまたがって分布し独自の文化を保っていたバスク人が標的とされたことは、当時から世界に大きな衝撃を与え、ピカソに大作〈ゲルニカ〉を描かせることとなった。



アサーニャ側にはソ連や、欧米の社会主義者と知識人が国際義勇軍として支援。
国際義勇軍の中には、アメリカ人の作家ヘミングウェー(1899〜1961年)、フランス人のマルロー(1901〜1976年)、イギリスのジョージ=オーウェル(1903〜1950年)も含まれ、それぞれ内戦にまつわる作品をのこした。

ヘミングウェイ『誰(た)がために鐘は鳴る』

ジョージ=オーウェル『カタロニア讃歌』


アンドレ=マルロー『希望』



こうして、スペイン内戦は、“単なる内戦” ではなくなり、国際問題に発展。
結果的に1939年にフランコ側が、首都マドリードを陥落させて勝利した。



***


この過程で日本は1936年(昭和11年)にドイツとの間に日独防共協定を結ぶ。
防共の「共」は、「産主義」のこと。
すなわち、共産党の指導する「ソ連」を指す。

当時、急速にスターリン体制を固めていたソ連にとって、西のドイツと東の日本は「仮想敵国」。
ユーラシア大陸の両端にあったドイツと日本が、ソ連を媒介にして結びつき合うこととなったのだ。


1937年9月にはムッソリーニがドイツを訪問。
ドイツとイタリアの「枢軸」の絆を、国際社会に見せつけた。

1937年(昭和12年)11月にはイタリアも加わって「三国防共協定」に発展。
ドイツの強い要望で日独防共協定に、イタリアが原署名国としての資格で加盟する形態が取られた。



三国はともに、国際連盟」からの「脱退」組となる(日本1933.2、ドイツ1935.10、イタリア1937.12)。
イギリス・フランスに敵対する点でも共通している。
ソ連も、秘密協定によって仮想敵国とされていた。


史料 ヒトラーの日本観 (ヒトラー『わが闘争』「文化の創始者としてのアーリア人種」より)
もし、人類を文化創造者、文化支持者、文化破壊者の三種類に分けるとすれば、第一のものの代表者として、おそらくアーリア人種だけが問題となるに違いなかろう。すべての人間の創造物の基礎や周壁はかれらによって作られており、ただ外面的な形や色だけが、個々の民族のその時々にもつ特徴によって、決定されているにすぎない。かれらはあらゆる人類の進歩に対して、すばらしい構成素材、および設計図を提供したので、ただ完成だけが、その時々の人種の存在様式に適合して遂行されたのだ。たとえば、数十年もへぬ中に、東部アジアの全部の国が、その基礎は結局、われわれの場合と同様なヘレニズム精神(※5)とゲルマンの技術であるような文化を自分たちの国に固有のものだと呼ぶようになるだろう。ただ、外面的形式──少なくとも部分的には──だけがアジア的存在様式の特徴を身につけるだろう。日本は多くの人々がそう思っているように、自分の文化にヨーロッパの技術をつけ加えたのではなく、ヨーロッパの科学と技術が日本の特性によって装飾されたのだ。実際生活の基礎は、たとえ、日本文化が──内面的な区別なのだから外観ではよけいにヨーロッパ人の目にはいってくるから──生活の色彩を限定しているにしても、もはや特に日本的な文化ではないのであって、それはヨーロッパやアメリカの、したがってアーリア民族の強力な科学・技術的労作なのである。これらの業績に基づいてのみ、東洋も一般的な人類の進歩についてゆくことができるのだ。これらは日々のパンのための闘争の基礎を作り出し、そのための武器と道具を生み出したのであって、ただ表面的な包装だけが、徐々に日本人の存在様式に調和させられたに過ぎない。
[中略]
ある民族が、文化を他人種から本質的な基礎材料として、うけとり、同化し、加工しても、それから先、外からの影響が絶えてしまうと、またしても硬化するということが確実であるとすれば、このような人種は、おそらく「文化支持的」と呼ばれうるが、けっして「文化創造的」と呼ばれることはできない。この観点から個々の民族を検討するならば、存在するのはほとんど例外なしに、本来の文化創始的民族ではなく、ほとんどつねに文化支持的な民族ばかりであるという事実が明らかになる。

(出典:平野一郎・将積茂訳、角川


ベルリン=ローマ枢軸に日本が参加したことで「三国枢軸」グループが成立。
日本は「三国枢軸」のメンバーとして国際政治に足を踏み入れることになる。





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