新科目「歴史総合」を読む 2-3-4. 日中戦争と大戦に進む世界
■日中戦争
1931年の満州事変勃発以降、日本政府の国策によって、満洲への移民が奨励された。これには昭和恐慌の影響により荒廃していた内地の農民を、国外移住によって救済するとともに、「満洲国」の防衛要員を確保したい関東軍の思惑もあった。1936年の二・二六事件の後、関東軍は満州農業移民百万戸移住計画を策定し、これをもとに広田弘毅内閣は二十カ年百万戸送出計画を策定した。
「満洲国」と日本との貿易関係は急速に伸び、日本経済にとってなくてはならない存在となっていった。
資料 満洲の地域別輸出額と輸入額の推移
1937年7月7日に北京郊外で盧溝橋事件が勃発すると、その4日後に松井・秦徳純協定により収拾が図られた。その後日本では近衛内閣が「北支派兵に関する政府声明」を発表し、事件を「北支事変」と呼称。当初は不拡大の方針をとったが、蒋介石側も徹底抗戦に傾き、しかし閣議で華北への派兵が決定され、8月13日には上海で日本軍と中国軍が衝突するに至った(これを第二次上海事変という)。同年中に占領した南京では南京事件をひきおこし、国民政府は首都機能を重慶にうつした。
日本は中国での軍事衝突を局地的なものとして処理しようとしたが、中国は多国間交渉を望んでいた。他方、ドイツは中国に軍事顧問を派遣するなど友好関係を築き、中国権益の保護にも関心は大きかった。また、日本の関心がソ連から中国に向かうことを恐れ、和平工作を仲介することには前向きだった。しかし、中国は8月にソ連と不可侵条約(中ソ不可侵条約)を結び、翌月には抗日民族統一戦線を結成することになった。ここにおいて、ドイツのヒトラーの態度は硬化し、中国とドイツの関係は冷却することとなる。
一方、日本は12月首都南京を占領し、一般住民と捕虜を虐殺(南京事件)、中国の戦時首都であった重慶を空爆した。1938年にはドイツは日本の満洲国を承認し、中国から軍事顧問団を引き上げることとなった。その後、国民政府は援蒋ルートを通じたアメリカ、イギリス、ソ連などの援助を受けて交戦を続けていった。
資料 援蒋ルート
満州事変以降、マスメディアは戦争に関する情報をさかんに人々に伝えた。日中戦争の目的が明確でなかった分、ルポルタージュや手記、映画は、兵士の戦う姿を克明に描き出していった。
■ファシズムの対外膨張
ドイツでは、ヒトラーがドイツ民族の「生存圏」の拡大を訴えた。その標的となったのは、東方に居住する劣等人種とされたスラヴ人地域だった。
まず1938年にはオーストリアを併合し、チェコスロヴァキアの一部割譲を要求した。イギリスとフランスはこの要求に対し宥和的な態度をとり、ミュンヘン会談で要求を認めた。
資料 ミュンヘン会談の風刺画(「マンチェスターガーディアン」、1938年10月1日)
参考 ミュンヘン・アナロジー
ドイツはチェコスロヴァキアの一部をただちに併合すると、翌年にはチェコスロヴァキア全土を占領・解体してしまった。
ドイツが東方に進出するのを黙認したイギリスとフランスに対しては、ソ連が猜疑心を強めていた。
しかしソ連は同時に極東で日本の進出にもさらされており、二正面作戦は厳しかった(1939年のノモンハン事件)。
そこでソ連は、いっそのことドイツに接近することで、イギリス、フランスを牽制する道を選び、1939年8月に独ソ不可侵条約が締結された。 ソ連のこの一手はまさに奇策であり、日本の平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」として総辞職することとなった。
資料 「いつまで仲良くできるかな?(蜜月はいつまで続くのかな?)」と題された風刺画(クリフォード・ベリーマン画、1939年10月9日)
資料 「疑わしい友人」と題された風刺画(雑誌『パンチ』1939年9月27日)
Q. 上図の作者は、風刺画を通して何を示そうとしたのだろうか?
しかし日本軍は満洲国とモンゴル間の国境地帯で、ソ連の機械化部隊に惨敗。
以後北進ではなく、南進をすすめる方向性に転換していくこととなった。
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