"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第23話 総力戦体制と人類史上最悪の大戦 1929年~1945年
「総力戦」に対応した、新しい「国のしくみ」づくりがエスカレートする時代
【1】世界経済危機によって国際関係に亀裂が走った
◆経済危機が起きると国によりさまざまな対応がとられ、国際連盟に批判する国も現れた
―第一次世界大戦によって、戦争が「異次元」に突入したことについては前回確認したよね(注:1870年~1920年、1920年~1929年の"世界史の中の"日本史のまとめ)。
世の中のあり方もそれに合わせて一変したんでしたよね。
―そう。
いかに忠実で健康な国民の「数」を確保し、最新科学を応用した次世代の重化学工業を盛んにできるかが、国の命運を分けるものと考えられるようになったんだ。
でも、すでに差は大きくついている。
イギリスの支配エリア
フランスの支配エリア(当時は紺色の部分)
世界中がイギリスとフランスの植民地ですね!
―「植民地」という形による支配スタイルは、おおっぴらにはできなくなってしまったけど、第一次世界大戦の後に導入された「委任統治領」(そのうちの特に「C式」)は実質的に植民地とほとんど変わらない代物だった。
イギリスの支配領域は第一次世界大戦後に最大となったといわれるよ。
* * *
◆国際連盟を中心とする戦後処理への不満が噴出した
イギリスやフランスが中心となって国際連盟という組織がつくられた。
たけど、中心メンバーが圧倒的広さの海外の支配エリアを持っているしていることに対する反発も起きるようになる。
反発した国の代表例が、ドイツ、イタリアと日本だ。
この3国は、この時代の初めに起きた世界規模の大不景気(注:世界恐慌)によって、経済の行き詰まりに苦しんでいた。
これを解決するために、既存の国境線を変更しようとする軍事行動が実行にうつされていった。
それに対する国際連盟の反応は?
―既存の国境線を否定したら「国際社会」に対する反乱とみなす!という考え方がとられた。
実際にどんなことをしたんですか?
―経済的な制裁だ。
これにはある程度の効果があったけど、イギリスやフランスはしばしば制裁に消極的で必ずしも足並みがそろったとは限らない。
どうして消極的だったんですか?
―第一次世界大戦で戦場になったばかりだからね。
なるべく争いを回避しようという方向に働いてしまったんだ(注:宥和政策)。
また、そもそも国際連盟に加入していない国があったのも問題だ。
世界的な不況の震源地となったアメリカ合衆国と、労働者や農民が不自由な立場から脱却して”みんな平等な国”をつくろうとしていたロシアを中心とするグループ(注:ソ連)だ。
ソ連って植民地を持っていませんよね。世界的不景気の影響は受けなかったんですか?
―ソ連では、中央の政府が経済のすべてをトップダウンでコントロール仕組みがとられていた。
「みんなで平等な社会をつくろう」ということで、全体の利益が優先されたんだ。
だから、民間企業に多くを任せていた資本主義の国と違って不景気の影響はほとんど受けなかった。
それに、植民地がないとはいえ、ソ連はユーラシア大陸の広大な領土に分布する多くの異民族を、ソ連というグループのひとつに加盟させることで間接的に支配していた。
体裁としては各民族の自治を認めたんだけれども、そこにある資源はソ連のために吸い上げられていったわけだ。
でも、ドイツ、イタリア、日本は解決に時間がかかりそうですね。
―国際的に協力しようという機運は盛り上がらず、不景気に対して「自分の国だけがなんとかなればいい」というムードがはびこっていった。
ドイツは植民地の多くを第一次世界大戦後に失っている。
イタリアも第一次世界大戦の途中に”寝返って”イギリス・フランス側で参戦した。しかし戦後の「取り分」は少なく経済構造も貧弱なままだった。
日本は台湾や朝鮮を植民地化していたけど、北部中国への進出をねらうアメリカ合衆国が「目の上のたんこぶ」だ。
アメリカの東アジアへの進出は江戸時代以来のことですね。
―そうだったよね。
膨大な人口を擁する中国マーケットは、やはり魅力的だからね。
アメリカ合衆国は北アメリカ大陸の大部分だけでなく、太平洋の島々を獲得し、少しずつ領土を増やしていたけれど、石炭や鉄鉱石のような鉱産資源や大豆・小麦のような農産物が栽培できるほどの広大な海外領土を持っていたわけではなかった。
不景気対策の意味もあり、この時期のアメリカ合衆国はソ連に接近し、国交を回復。
これによってソ連は国際連盟にも加盟することになる。
アメリカ合衆国は依然として加盟していないままだけどね。
アメリカって、国際連盟とは距離を置き続けるんですね。
―世界中に植民地を持っているイギリスやフランスへの対抗心もあるよね。
イギリス・フランス主導の連盟に加わらない代わりに、「中立」と称して独自の行動をとるようになっていくよ。
* * *
【2】欧米・日本で国の権限が強くなっていく
◆難局をのりこえるため、政府に権限が集中されていった
―政府のパワーが強まるのが、この時期の欧米諸国・日本に共通する特徴だ。
ソ連では”平等な国”をつくるための「準備期間」ということで、少数の指導者(注:スターリン)による独裁が認められていた。
第一次世界大戦後にできたばかりのポーランドでも、独裁者(注:ピウスツキ)が出現。
特にイタリアでは、前の時代から企業や組合といった国民のさまざまなグループを国のもとに結集させ、古代ローマを彷彿(ほうふつ)とさせるイメージを多用して、個人の権利よりも国を重視する「国づくり」がつくられていった(注:ムッソリーニ)。
イタリアの手法を取り入れたのはドイツの国家指導者(注:ヒトラー)。「科学」的にドイツ人は世界でもっとも優秀な民族だが、東ヨーロッパのスラブ人(ポーランド人やロシア人)やユダヤ人は劣等な遺伝子を持つ民族だということを宣伝し、ドイツがうまくいっていない理由をこうした人々のせいにして国をまとめようとした。
イギリスやフランスが植民地をたくさん持っていることに対しても異議を唱えたわけですね。
―そうそう。
同じような考え方は、国をまとめることに失敗していたヨーロッパ諸国にも広がった。
スペイン(プリモ・デ・リベーラ→フランコ)
ポルトガル(注:サラザールの「新体制」)
クロアチア(注:ウスタシャ)
どれも自分の国のことを「国際社会」よりも優先させようとする考え方ですね。
―そう。
そういう主張が「暴力」を肯定する思想として現れていったんだ。
「非常事態」なんだからしょうがないというわけですね。
―そう。
欧米中心の植民地主義体制を打破しようとする勢力は、日本でもにわかに活動的になっていくよ。
(注)なお、スウェーデンにおける福祉国家政策も、この時期にとられた方針だ(「国民の家」)。
* * *
【3】経済問題と軍縮問題で、日本国内が大揺れ
◆国際経済問題と軍縮の問題が、国内の問題に影響を与えた
―当時の日本の内閣は政党が主導する内閣だった(注:立憲民政党の浜口雄幸内閣)。
この政党は外交的には諸外国と「協調」し、財政の膨張をおさえることを方針としていた(注:協調外交・緊縮財政)。
さらに当時の大蔵大臣(注:井上準之助)は「円の価値を安定させるため」に、主要国がとっていた「金本位制」という制度に復帰することを検討した。
どうしてですか?
―日本は第一次世界大戦が終わった後、関東大震災の影響もあり不況が長引いていた。
金本位制という制度には国の通貨の価値を安定させる効果があり、採用すれば日本の産業の競争力も高まると考えられていたんだ。
でも、結果は裏目に出る。
解禁の直前に、世界経済の中心であったアメリカ合衆国のニューヨークで株価暴落が起こり、じわじわと世界規模の不況がはじまってしまったのだ。
タイミングが最悪だったんですね。
―金本位制に復帰したことで物価も暴落し、深刻な不景気が始まった(注:昭和恐慌)。輸出もダウンし、失業者が続出。労働者や小作人(自分の土地を持っていない農民)による争議も多発した。
政府は何とかしなかったんですか?
―経済政策を変更することはなかったよ。
また、世界規模の不景気が起こった1年後、日本・イギリス・アメリカ合衆国の代表はロンドンで国際会議をおこなっている。
何を話し合ったんでしょう?
―日本の軍備を縮小させることが、アメリカ合衆国やイギリスの支配者の思惑だ。
日本政府(注:浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣)としても膨らむ一方である軍事予算をおさえるため、軍備の縮小には積極的だった。
政府は代表として元首相(注:若槻礼次郎(わかつきれいじろう))を派遣して、アメリカ・イギリスの保有する補助艦(注:巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)に比べて日本は約7割しか保有できないという取り決めを交わした。
ところがである。
これに対し「「統帥権」(とうすいけん)に政府が首を突っ込むとは何事だ!」という声があがった。
統帥権って何ですか?
―当時の日本の憲法では、軍は天皇の指揮下にあるとされている。だから行政がかってに軍のことに首をつっこむのは「憲法違反」じゃないかってことになったんだ。
海軍のことについては、天皇に直属する海軍組織のトップ(注:海軍軍令部)に決定権があるというわけだ。
海軍組織のトップは「せめて大型巡洋艦はアメリカ・イギリスの7割にしてほしい」と要求していたけど、それもかなわなかったんだ(約6割になってしまった)。
軍のクレームに対して「そんなことはない」って言えなかったんですか?
―当然与党の内閣(注:浜口雄幸内閣)は「問題ない」と訴え続けたよ。
金本位制に復帰するには、国はまとまった量の金(きん)を保有している必要がある。そのためには、軍事費をカットして国のお金の使いすぎを防ぎたいところなのだ。
しかも、この方針に対して反対したのは軍だけではなかったんだよ。
誰が反対したんですか?
―野党であった政党(注:立憲政友会)までもが批判に加わったんだ。
与党とか野党があったんですね。
―そうそう当時の日本は一応「二大政党制」だからね。
首相の人事には天皇に近い大物(注:元老)が関与していたけど、総選挙はちゃんとあった。
だけど、天皇やその側近たち(注:牧野伸顕(まきののぶあき)内大臣)と大物政治家(注:西園寺公望(さいもんじきんもち))は与党の方針を支持。なんとか条約の締結を、国内で認めさせることに成功したんだ。
「しこり」が残りそうな出来事ですね。
―しこりどころか、なんと首相(注:浜口雄幸)が東京駅で襲撃され、その翌年に亡くなるという最悪のパターンになってしまった。
首相が暗殺されるなんてめちゃくちゃですね。
―この頃から、現状の国際関係や政府の方針を否定し「新しい国づくり」を目指そうというグループの動きが盛り上がるようになっていたんだ。
すでに前の時代の終わり頃には、陸軍の中堅層グループ(木曜会。永田鉄山、東條英機、石原莞爾(いしはらかんじ)、鈴木貞一(すずきていいち)、根本博、岡村寧次(やすじ))を中心とする組織ができていた。掛け持ちメンバーもいるけど、これに別の組織が合流して(注:二葉会。永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎(おばたとしろう)、板垣征四郎、東條英機、山岡重厚、河本大作(こうもとだいさく)、土肥原健司(どいはらけんじ)、磯谷廉介(いそがいれんすけ)、山下奉文(やましたともゆき))、新たな合同グループ(注:一夕会(いっせきかい))が成立。
日本の問題を解決するには満州とモンゴルを獲得し、「新しい国際秩序」を賭けた世界最終戦争に、科学技術の粋を尽くして勝ち抜くことしかない―。メンバーの一人はこのように考え(注:石原莞爾(いしはらかんじ)の『世界最終戦論』)、その考えは陸軍内部でも少なからず共有されていた。
そして、新しい考え方を理解してくれる将軍(注:荒木貞夫、眞崎甚三郎(まさきじんざぶろう)、林銑十郎)に熱い視線が注がれるようになったのだ。
* * *
【4】日本国内の問題を満州・モンゴルへの進出で解決しようという思想が広がり、満州事変が起きた
◆中国の利権をめぐり、アメリカ・イギリス、ソ連、日本の駆け引きが深刻化する
―前内閣を引き継いだのは、同じ政党総裁となった人物だ(注:若槻礼次郎)。
発足直後から、中国との関係で難しい処理を迫られることとなった。
どうしてですか?
―前の時代の終わり頃、中国では国民党の指導者(注:蒋介石)による統一が進められ、日本がロシアから引き継いだ満州の利権などの返還が求められるようになっていたからだ。
どうして統一が必要だったんですか?
―北方では、社会主義に基づく「国づくり」をすすめていたロシア人が「ソ連」の支配エリアを広める思惑から、中国人の社会主義者グループ(注:中国共産党)をサポートしていた。
中国で社会主義の国が建てられることを恐れた中国人経営者・資産家たちは、社会主義者グループの活動を抑えるべく北上し、「統一」を成し遂げたんだ。
工業化を進めるためには北方の鉱山地帯が重要だ。
資本も必要ですね。
―そう。イギリスやアメリカは、中国を統一した国民党をサポートし、資金を貸し付けたり投資話を持ち込めば「もうかる」と浮足立ったわけだ。
国民党の協力を取り付けるため、イギリスやアメリカは不平等な条約を改正(注:関税自主権の撤廃)。
日本政府もこれに従う形で、すでに同じように不平等な条約を改正していた(注:日華関税協定)。
中国側はこのようにして欧米や日本に奪われていた利権を回復しようとしていったわけだ(注:国権回復運動)。
そんな中、国民党の政府側についていた中国東北地方(注:満洲)の大物(注:張学良)も、この地方に敷かれていた鉄道を外国から取り返す運動を始めていく。
「外国」ってどの国ですか?
―もともとはロシアが敷いた鉄道だけど、当時は日本(実質的には日本の企業)が経営していた(注:南満州鉄道)。
この満州の有力者は、日本に対抗しようと別の鉄道を敷設するプロジェクトを進めようとしていく。
この状況を憂慮していたのは、中国に駐留する日本の軍(注:関東軍)や、陸軍の中堅層グループたちだ。
すでに前の内閣の末期には、「あたらしい日本」をつくろうとするグループが国を改造しようとする運動を起こそうとして失敗していたよね(注:三月事件(発覚したのは戦後になってからのこと))。
かねて計画していた通りに満州鉄道を爆破し、「国民党のせいだ」と主張。満州全域への進軍を開始した。
関東軍だけでそんなことは可能だったんでしょうか?
―朝鮮半島を担当していた軍のトップ(注:林銑十郎(はやしせんじゅうろう))もこの計画に参加。
軍隊を独断で朝鮮から満州に動かしてしまう。
もちろん筋書き通りの行動だ。
これに対して内閣(注:第二次若槻礼次郎内閣)は追認するほかなかったけど、「事態をこれ以上拡大させない方針(注:不拡大方針)」を表明した。
天皇もこの方針に賛成する。
ずいぶん慎重ですね。
―アメリカ合衆国やイギリスの動向いかんによっては、日本経済は大きな打撃を受けることになるからね。
経済制裁を発動されてはたまらない。
しかし、外交努力の甲斐もなく、中国の軍は「満州の大物」(注:張学良)の拠点であった都市(注:錦州(きんしゅう))を爆撃。
これが決定打となり、日本の国際的な立場はがた落ちしてしまうんだ。アメリカ政府の対応もいっそう厳しくなっていく。
天皇が支持していないのに、どうしてそんなに過激な行動にでちゃうんですか?
―ここが難しいところだね。
当時の陸軍の中堅グループはまったく天皇の意向を軽視していたといっていい。
天皇がどう言われようが、満州とモンゴルをとらなければ「新しい日本」を建設することはできないんだっていう熱い思いがあったわけだ。
天皇にとってみても、「暴力」を発動することができる軍により「下剋上」(注:クーデタ)されるんじゃないかという不安もハンパない。
「国際社会」はどんな対応をとったんですか?
―国際連盟は「中立」を表明していたアメリカを「オブザーバー」のポジションで招いた。そして、13:1で日本に対して満州からの撤退を勧告した。反対票の「1」は日本のことだ。
国際連盟による勧告とほぼ同じころ、陸軍中堅グループによる強制的な「国家改造クーデタ計画」があとちょっとで発動されるところだった(注:十月事件)。
これはかなり大がかりな国家転覆計画で、陸軍中堅グループに対する理解の深い大物(注:荒木貞夫)を首相にかつぎ、民間の右翼グループや海軍、大規模な宗教団体(注:大本教)、さらには労働組合(注:赤松克麿、亀井寛一郎)までをも巻き込んだものだったんだ。
かなり緊迫した状況ですね…
―これではとてもまとめられない。内務大臣(注:安達謙蔵(あだちけんぞう))が主導し二大政党が「大連立」を組んで乗り切ろうという構想もあったけど「幻」に終わってしまった。
結局、内閣の中の意見がまとまらない(注:閣内不統一)ということで、満州事変の「不拡大」方針をとった内閣(注:第2次若槻礼次郎)は総辞職することとなった。
こんな状況では次の首相は軍人になっちゃうんじゃないですか?
―そう思うでしょ。
でもなんとか持ちこたえたんだ。
天皇に近い”大御所”(注:西園寺公望(さいおんじきんもち))のご指名”により、政党(注:立憲政友会)の総裁(注:犬養毅(いぬかいつよし))が首相となった。
彼はかつて中国で革命(注:辛亥革命)が起きた時に、「アジアはひとつ」と唱える運動家(注:頭山満(とうやまみつる))とともに中国にパイプがある。彼なら国民党と交渉できるという期待もあったんだ。
そして取り組んだのは経済の立て直しだ。
金本位制に復帰してからというもの、経済が混乱していましたよね。
―経済が混乱するから、国民の生活が苦しくなる。
だから政府に対する批判も強まり、軍が外国への進出で問題を解決させようとする。
この負のスパイラルから脱却しようとしたんだね。
この政策をとった大蔵大臣(注:高橋是清(これきよ))の下、日本は綿織物の輸出で世界ナンバーワンに躍り出た。
こうして世界的な不景気から、ついに脱却できたわけだ。
国民の支持はあったんですか?
―総選挙の結果は圧勝だ。
ただ、それでも軍をコントロールすることは難しかった。
陸軍大臣には陸軍中堅グループからの支持の厚い軍人(注:荒木貞夫(あらきさだお))を取り立てざるをえなかった事情もある。
同じころには中国の上海にも軍隊を送り、国民党の軍隊と戦闘に突入。
ついに戦場が満州から上海にまで拡大してしまったんだ。
アメリカ政府の姿勢は一段と厳しいものとなる(注:スティムソン・ドクトリン)。
さらに満州では、中国の最後の皇帝(注:溥儀(ふぎ))をトップに仕立てて「国」を建設。満州をふるさととする満州人だけでなく、さまざまな民族が「仲良く」暮らす国と宣伝し、国民党に対抗した。
首相は支持したんですか?
―国際連盟の派遣した調査団(注:リットン調査団)が、そもそも日本の軍事行動は「陰謀」で「自作自演」と判定することは確実だった。「国際社会」の目もあり、首相はこの国の成立をなかなか認めることはしなかった。
そんな中、「悪いのは巨大企業の経営者」や「それとつるんだ政治家」だ。「国民の大変な思いをまったく理解していない!」と、軍や民間の右翼が攻撃。過激な右翼思想家(注:井上日召(いのうえにっしょう))のグループ(注:血盟団)が、大企業(注:三井財閥)の幹部(注:團琢磨(だんたくま))と、前の大蔵大臣を暗殺してしまった。
さらにその後、この右翼思想家と海軍の関与で、ついに首相が暗殺されてしまった(注:五・一五事件)。
国民はどう考えていたんですかね…
―国民の間には、「そうはいっても満州とモンゴル(注:満蒙(まんもう))は、(なんだかよくわからないけれど)日本の将来にとって大切だというのなら大切なのだろう」という考えが広まっていた。新聞の論調や、すでに普及していたラジオの影響が大きい。政党を基盤とする政治家よりも、軍のほうがまだマシだという意見も根強くなっていった。
―首相暗殺という前代未聞の事態を受け、首相に指名されたのは海軍の穏健派(注:斎藤実(さいとうまこと))だ。
内閣には二大政党の人も入れ、挙国一致ということにした。
指名したのは天皇に近い大物政治家(注:西園寺公望)だ。
でも直近の選挙では片方の政党(注:立憲政友会)が圧勝したんじゃなかったでしたっけ?
―そうだよね。でも「国家の非常事態」だからしかたないよね、という理屈だ。この時期にはアメリカで複数回当選したアメリカ大統領や、同じく挙国一致内閣をつくったイギリス首相など、いろんな勢力をいっしょくたにしたに政権は各国でも見られていたものだけどね。
こうして「政党が中心となった内閣」は、第二次世界大戦が終わるまで二度と復活しなかった。
陸軍大臣は前内閣の人物(注:荒木貞夫)が留任した(注:途中で林に交代)。陸軍の中堅派グループからの人気が高い人物だ。
この内閣は満州での軍事行動に対してどんな方針をとったんですか?
ー満州国の存在がついに認められたよ。
中国北東部の軍(注:関東軍)にとっての念願だ(注:日満議定書)。
しかし、日本軍の行動が国際法上「アウト」であることが国際連盟の派遣した調査団の報告書によって明らかになると、日本の立場は厳しくなっていく。
そんな中、中国での軍事行動の範囲は満州から北京近く(注:熱河)にまで迫る勢いを見せていた(注:熱河作戦)。
国際連盟は厳しい対応を取りそうですね。
―日本は満州から撤退するべきだという勧告案が、42対1で可決された。タイ王国だけが棄権している。
これを受け日本の外務大臣は「国際連盟」からの脱退を通告した。
これは国際連盟のつくりあげた世界の秩序を否定し、「日本は日本の道を行く」という表明でもあった。
中国での戦いはずっと続いているんですか?
―国民党に「満州国」の成立を事実上認めさせたところで満足。国際連盟からの脱退後に停戦協定が成立したよ(注:塘沽(タンクー)停戦協定)。
国民党にとって倒すべき敵の優先順位は、国内の社会主義グループ(注:中国共産党)だったんだ。
満州国ってどんな国だったんですか?
―国際的には「国」として認められていないわけだけど、トップは一応、満州人だ。
中国最後の皇帝を「皇帝」として即位させたけど、実際には現地の軍(注:関東軍)の「操り人形」状態だった。
【5】日本は景気が回復し、重工業化が進む
◆ヨーロッパで独裁者が政権をとる中、日本では挙国一致内閣の下で景気回復が進んだ
同じころヨーロッパでは?
―ドイツでは、反ユダヤ人・反共産主義をうたった指導者(注:ヒトラー)のたくみな演説と宣伝を利用し、ナチという政党が支持をのばしていった。
初めは”過小評価”されていたけれど、ソ連(共産主義)に対する国民の不安を効果的に煽(あお)り立てることで、じわじわと独裁的な権力を掌握していったんだ。
そして、大規模な公共事業を推進し、重工業化を進めることで、不景気からの回復を成し遂げていったんだ。
この知らせは日本にとっても驚きとともに受け取られた。
一方その頃、日本の経済は立ち直っていますか?
―実は経済の動向はすこぶる好調だ。
満州事変の起きた年からは輸出が上向き、しだいに日本の経済は軽工業中心から重工業中心へと構造が変化していった。
その分、日本の産業を支えていた綿花・石油・くず鉄の輸入元であるアメリカ合衆国の重要性は、どんどん高まっていくことになった。
中小企業を飲み込み、大企業(注:日本製鉄株式会社)が成立。いくつも新しい企業グループが作られていったよ(注:新興財閥の日窒(にっちつ)、昭和電工、理化学研究所、中島飛行機)。
じゃあ生活水準はどんどん上がっていったんですか。
―都市部ではね。
政治の部分だけ見ていると暗いイメージがあるかもしれないけど、ずいぶん近代的な文化が花開いていたよ。
でも農村の状況はうってかわって厳しい。
国は「緊急事態」をしのぐために、国が”借金”をする形で資金を調達し、公共事業をばんばん進めていった。
農民を公共事業に雇用させて現金を稼がせたりもしたけれど、せっかく調達したお金は地方のためにはあまり使われず、軍事費に回されてしまう。
都市部の周りに軍事関連の工場が立ち並ぶようになり、各地の”軍都”がうるおった半面、農村部の生活は苦しいまま。
さまざな人たちによって農民の生活を良くしようという署名運動(注:自治農民協議会(←日本村治派同盟))も起こされた。
しかし結局は、農民自身が工夫したり切り詰めたりして「自力でなんとかしましょう」という政策(注:農山漁村経済更生運動)に変わってしまった。
これによりゆっくりではあるけれども農村の景気は上向き、ようやく電気が通ったり、みんなで農機具をシェアするようにもなっていく。
でも、こうした状況が「かわいそうだ」「国民みんなが”家族”となって、農業中心に新しい『古き良き日本』をつくろう」というグループが盛り上がる拝啓となっていったんだ。
首相の暗殺に絡んだ右翼グループ(注:血盟団)にも、農業中心の国づくりをすすめようとする思想(注:農本主義)グループとの接点があった。
政治家が暗殺されるような世の中じゃ、言いたいこともうかつに言えたもんじゃありませんね。
―言論統制(注:滝川事件)も強くなっていき、それまで社会主義などの「新しい思想」を支持していた人の中には「主義主張を変更(注:転向)する」人も現れるようになった(注:日本共産党の佐野学、鍋山貞親(なべやまさだちか))。
活動が認められていた労働者の意見を代表する政党(注:社会大衆党)も、軍と結びつく形で理想社会の実現をめざすようになっていった(注:国家社会主義)。
するとますます反対意見を言う人は少なくなり、国の力が強まることになっていく。
―そんな中、やはり穏健派の海軍大将(注:岡田啓介)をトップとする内閣が生まれた。
この内閣では、法学者により発言された「天皇は国にとって「機関」である」(注:天皇機関説)という発言が「失言」ととらえられ、岡田内閣はこの考えを誤りと表明せざるを得なくなっている。
どこが問題なんですか?
―これまではべつに何の問題もなかったんだけどね。
法学的にも通説だった。
天皇という「人」が支配しているのではない。天皇は国という組織の一部分を構成する存在なのだという解釈だ。
そもそも日本の憲法はヨーロッパにある国(注:プロイセン)の憲法を参考につくられたものだからね。
ただ「ヨーロッパ流の憲法に対する考え方」だったから、「天皇は日本ではそんな考えで解釈できる存在ではない!」という話になってしまったんだ(注:天皇機関説事件)。
こういった動きに国民からの批判はなかったんですかね。
―批判はあまり起こらない。
都市でも農村でもこの時期に景気が上向き始めたために、政党の内閣よりもマシなんじゃないかという実感も高まったことが背景にある。
国民の支持によって政治が動かなくなると、政治の舞台にはさまざまなミニグループがうまれ、まとまりがなくなっていった。
陸軍・海軍も二大政党に加え民間グループなど、有象無象(うぞうむぞう)の集団が「あたらしい日本」を掲げてひしめく状況。
それならいっそのこと、各ミニグループのトップ同士で会議を開き、意見をまとめちゃえばいいじゃんと、憲法学者(注:美濃部達吉)も言い出した。このプラン(注:円卓巨頭会議)は、一部実現している(注:内閣審議会、内閣調査局)。
それくらいまとまりがなくなっていたわけだ。
そんな中で、総選挙がおこなわれた。
国民の下した判断は?
―二大政党のうちの1つ(注:立憲政友会)が惨敗。代わって軍の方針に反対する政党(注:立憲民主党)が圧勝したんだ。
しかし、その直後に陸軍中堅グループを中心とするクーデター未遂事件が勃発(注:二・二六事件)。天皇が実行したグループに「お墨付き」を与えなかったために失敗。
この責任をとって内閣は総辞職した。
次の首相を選ぶための特別国会では、軍隊に反対する演説を行った議員もいた(注:反軍演説)けど、この後成立した内閣では、ますます軍事予算がアップされていくことになる。
―さて、次にできた内閣は軍にベッタリ。一応二大政党から同数を内閣に加えた挙国一致の内閣だ。
新内閣は、政府の陸軍大臣と海軍大臣には現役の将校でなくては就任できないという制度(注:陸・海軍大臣現役武官制)を復活。
これによって、陸軍と海軍が、現役の将校を内閣のメンバーとして推薦しなければ内閣を倒すことも可能になってしまった。
それじゃ陸軍と海軍の思うつぼですね…
―しかしこの内閣も、政党と軍との対立をおさえることはできず倒れると、次の首相に推されたのは穏健派の海軍大臣(注:宇垣一成(うがきかずしげ))。
しかし海軍と陸軍との対立もあって、陸軍は陸軍大臣を出すことを拒否。
―結局陸軍大将(注:林銑十郎)が内閣をつくることになった。
陸軍側が首相ポストを獲得したというわけだ。
この時期には政権に、大企業(注:三井財閥の池田成彬)や「日本改造」に乗り気な若手新官僚が、みずからの思想の実現に向けて接近するようになっていくところも見逃せない。
しかし、政党側も完全に力を失ってしまったわけではない。
この状況であっても、議会で軍事予算が通るのをブロックすることはできたからだ。
憲法を守ろうとする政党と、「あたらしい日本」のために根本的に変えようとする軍の間の対立も起こる中、”調整役”として期待されたのが摂関家出身のセレブ(注:近衛文麿(このえふみまろ))だ。
【6】「総力戦」体制が作られていく
◆「宣戦布告」のないまま中国全土に戦闘が拡大していった
―彼のときに「総力戦」に向けた「あたらしい日本」づくりが一歩前進したといっていいだろう。
総力戦の時代を勝ち抜くための「新しいシステム」づくりとして、国民を「精神も含めて」国のために総動員しようという運動(注:国民精神総動員運動)を盛り上げ、実際にさまざまな形で国に協力できるような体制を整えていった(注:国家総動員法)。
経済は国(注:新官僚)が完全に主導する形ですすめられ、そのための組織もつくられた(注:企画院)。
官僚が中心になって「国が主導して経済を発展させる」という仕組みは、戦後になっても受け継がれていく構図だね。
「労働者のことも見捨てていませんよ。でも社会主義の運動には加わらないでね」と、国の管理下で労働者グループがひとつにまとめられた(注:産業報国会)。
どうしてそんなに急いでいたんでしょう?
―前の内閣の終わりごろに、アメリカ合衆国が外交方針を大きく変えていることも背景にある。
アメリカでは中立に関する法律が修正され、戦争に関与している国について、①武器・弾薬・軍用機材の禁輸、②公債・有価証券の取り扱いの禁止、③資金・信用供与の禁止、④物資・原材料の輸出制限などを発動できることとなった。
さらに、「どの国が戦争に関与している国」かどうかは、大統領が判断できることになったのだ。
それって「中立」って言えるんですか?
―ある国に対して「経済制裁」ができるってことはもはや「中立」とはいえないよね。微妙だ。
こんなふうに、国際連盟を中心とする「国際社会」の秩序は崩れ、その場その場で「マイルール」が積み重ねられていく状況になってしまっていたわけだ。
国際関係がどんどん不安定になってしまいますね。
―そんな中、新内閣では、ついに北京郊外で日本と中国との戦闘が始まる(注:盧溝橋事件)。
中国側は、「まずは日本と共同で戦おう」ということで、国民党と共産党が協力に転じていた(注:第2次国共合作。ただし、共同で戦っていた例は決して多くはない)。
本格的に日本と中国は戦争状態に突入したわけですね。
―うん。
ただ、経済制裁を受けたくない日本は、「日本と中国は戦争していないんだ」って言い張り続ける。
戦闘は上海にも拡大し、戦線が次々に拡大。
天皇が宣戦布告しているわけでもないのに、中国という国との間で戦闘が広がっていく「奇妙な状況」になってしまっているわけだ。
日本は南京を占領し、中国人捕虜・一般中国人を殺害したと、同時代の海外メディアがこれを報じている(注:南京事件)。「日本軍が中国の都市で虐殺行為をはたらいた」というニュースは、驚きをもって受け止められた。
でも、中国との戦いの着地点ってどこにあるんでしょう?
―当時の首相には、どこかで和平に持ち込む必要があるという認識をもっていた。
そこで中国とのパイプをもっていたドイツを介して和平交渉がすすめられたんだけど、結局首相は和平をあきらめることに(注:トラウトマン和平交渉)。
中国では「中国国民党」が政権をとっていたわけだけど、「日本が交渉相手としてみなすことができる中国の政権は「中国国民党」の政権ではない」と発表した(注:「国民政府を対手とせず」の声明)。
その後、首相はこの軍事行動の大義を打ち出している。
東アジアに、日本・満州・中国の3か国による「あたらしい地域世界」(注:東亜新秩序)をつくりましょうという声明だ(注:近衛声明)。
じゃあ、何が「中国の政権」なんですか?
―日本が南京で「日本に協力的な人物」(注:汪兆銘(おうちょうめい))をトップに据えた政権が、「中国の政権だ」と認めたんだ。日本の”操り人形”政権だね。
日本に勝算はあったんでしょうか?
―ちょうどそのころヨーロッパでは、ドイツがヨーロッパ各地への快進撃を進め、イタリアとともにアフリカ大陸にも拡大。
その姿に勇気づけられたところも大きい。
でも、国民党側はアメリカがイギリスを経由して支援するよになるし、ゆくゆくはソ連の援助も受けるようになる。
物量ではとうてい勝ち目のない戦いに突き進んでいくことになってしまったわけだ。
―ドイツに期待を寄せていた日本と裏腹に、ヨーロッパでは誰も予想だにしていなかった激変が起きてしまう。
何ですか!?
―社会主義の国づくりを進めるソ連が、ドイツを手を組んで(注:独ソ不可侵条約)、ポーランドに攻め込んで占領してしまったんだ。
この頃、日本はソ連との間に、満州やモンゴル東部をめぐって戦闘を繰り返していた(注:張鼓峰事件、ノモンハン事件)。
中国との戦いに必要な資源を、北に進出することで確保しようとしたからだ。
しかし、そのソ連が、日本政府と親しいドイツと組むとなると、これまで積み上げてきた外交戦略はまったく通用しなくなってしまった。
そこでこの内閣は短命に終わる。
―その後は、海軍穏健派の内閣が相次いで成立するも、陸軍によって倒されてしまう。
―結果的に、”調整役”としてまたまた摂関家のセレブ(注:近衛文麿(このえふみまろ))が軍の支持を得て成立。
この人物は「国を刷新しようとする」野心がたっぷりで、国による思想(注:矢内原事件、人民戦線事件、津田左右吉(そうきち)の発禁)・教育(注:国民学校)・生活へのコントロールはますます厳しくなり、さらにいっそう戦争に国民の力を動員することができる運動(注:新体制運動)をすすめた。
動員の対象には、植民地支配を受けた人々も含まれるよ(注:皇民化政策)。
その結果、政党は解散し、首相をトップとする政治団体がひとつだけ存在する形になってしまった(注:大政翼賛会)。
イタリアのファシズムみたいですね。
―そうだね。
組織のトップは首相。その下に各地の府県知事、さらに町の組織に至るまでが「たったひとつの組織」にみるみるうちにまとめあげられてしまったんだ。
(出典:http://heiwa.yomitan.jp/3/2581.htmlより)
さらには労働組合も解散し、たったひとつの労働者の組織(注:大日本産業報国会)がつくられ、あらゆる会社がこの下に吸収されていった。
イタリアとドイツとの間に軍事同盟(注:日独伊三国同盟)が結ばれると、アメリカとの関係も悪化するようになっていった。
どうしてですか?
―アメリカにとってヨーロッパの優先順位は高かった。その平和をおびやかすイタリアとドイツに日本が接近したことはアメリカ政府にとって放ってはおけないことだったんだ。
また、日本と中国との戦いが中国全土にひろまると、各地にあったイギリスやアメリカの利権が脅かされるようになった。
そこでアメリカは日本との通商条約を撤廃。経済制裁を発動する。
日本の対応は?
―先にみたように、重工業の発展していた日本にとって、鉄くずや石油といった資源はアメリカ合衆国に大きく依存していた。
それが規制されるとなると「新しい資源供給地」を探すほかない。
そこで向かったのが、フランス領のインドシナだ。
フランスに勝てる見込みはあったんですか?
―ちょうどそのころ、フランスはドイツ軍に侵攻されていたんだ。そのスキをねらった形だよ。
「アジアの民族がみんなで栄えるエリア」(注:大東亜共栄圏)の建設を大義として掲げる一方、同時に、中国の政権に対するイギリス・アメリカの援助ルート(注:援蔣ルート)をじゃましようとしたことも目的の一つだ。
日本はこうして東南アジア方面に進んでいくことになったわけですね。
―そう。
でもアメリカ合衆国からの経済制裁も、できることなら回避をしたい。
そこでアメリカに派遣された大使(注:野村吉三郎)を中心にアメリカ政府との交渉の場がもうけられることになった(注:日米交渉)。
それに、もう北でソ連と戦っている余裕はないよね。
そこでソ連との間に「おたがい敵でも味方でもない」ということを確認する協定を結んでいるよ(注:日ソ中立条約)。
ソ連はどうしてそんな条約を結んだんでしょう?
―ソ連は当時、ドイツと再び戦争をする準備に入っていた。そのためには日本と戦っている余裕がなかったということがある。
【7】ヨーロッパの戦争がアジア・太平洋の戦争とリンクした
◆ドイツ・イタリアとの同盟とアメリカ合衆国・イギリス・オランダとの開戦によって、日本は初の「総力戦」を経験する
―しかし、依然としてアメリカとの間の交渉には、妥協点が見いだせないままだった。
そもそもGNPが当時の日本の11.83倍もある国との戦争なんて現実的ではない。
必死の外交交渉が続けられていた。
それに対し軍の中には、「長期化する日中戦争」を解決させるために、東南アジアから太平洋に進出しようという意見が目立つようになっていた。
そんな中、陸軍大臣(注:東條英機)はアメリカとの開戦を主張。
この対立がもとで内閣は総辞職し、この陸軍大臣を首相とする新内閣ができた。
内閣ははじめのうちはアメリカとの交渉を続けていたけど、その裏で開戦準備も進めた。
天皇はどのように判断したのですか? 軍隊のコントロール権を持っているのは天皇ですよね?
―天皇はアメリカとの戦争にはさすがにためらったものの、陸軍と首相が天皇を説得。
この時点になると、陸軍をコントロールできるはずの天皇にすら、陸軍をコントロールすることは難しくなっていたんだ。
アメリカの対応は?
―アメリカ合衆国もはじめは交渉に前向きだったけど、途中からイギリスや中国とともに日本への姿勢を強め、外交担当の国務長官(注:ハル)は「日本軍は中国とフランス植民地のベトナムから兵を撤退させなさい」という要求を提示した。
これを受け「もう交渉は不可能」と判断した内閣は、天皇の目の前でおこなう会議(注:御前会議)でアメリカ・イギリスとの戦争を決定した。
こうしてハワイの真珠湾を攻撃したんですね。
―そう。
その直前、軍部の謀略によってアメリカにある日本大使館への「交渉打ち切り」を伝える電報が遅れてしまった。
この事実は、大統領による開戦時の演説でも「恨み」として記憶され、他国との戦争に消極的だったアメリカの世論を大きく動かすこととなったんだ。
ハワイ攻撃の直前には、現在のマレーシアのコタバルというところにも上陸。ここはイギリスの植民地だったところだ。
日本はアメリカとだけ戦争したのだと思っていました。
―東南アジアに進出するということは、そこを支配していた欧米諸国を敵に回すということだからね。
日本は短期間のうちに東南アジアから太平洋にかけての広大な地域を支配下に置いた。
そんな中、国内では「緊急事態」ということで「反対意見」がでないような「国のしくみ」を急ピッチで整えているよ。
「総力戦」に対応した国づくりですね。
―そう。
なんと政府がじきじきに推薦した人を、議員として当選させたんだ(注:翼賛政治会)。
そんなこと憲法に書いてありましたっけ?
―もちろん書いてない。
そもそも法をつくる議員を、行政を担当する内閣が決めちゃあまずいよね。三権分立にならない。
ドイツではすでに、政府に法をつくる権力を与える法が制定されていたよね(注:全権委任法)。これは憲法の規定のスキを突いて「緊急事態」だからしょうがないという理屈で成立したものだった。
日本はこんなに領土を広げて、支配できたんですか?
―さすがに広すぎるよね。
でもアメリカに対抗するには、最低限これだけのエリアを死守しなければ勝てないという考えにとりつかれていたんだ(注:絶対国防圏)。
働き手も必要ですよね。
―各地の人々の協力が必要だ。そこで「やる気」を出してもらうため、欧米の植民地から解放して独立した国をつくらせた。
このような考えを共有するため、首相は東京で国際会議をひらいた(注:大東亜会議)。
どうしてわざわざそんなことを?
―アメリカとイギリスはすでに戦争の目的をはっきりと世界に訴えていた。
その中では、世界中で恐怖と欠乏に苦しむ人々を解放し、平和な世の中を作っていくことが目的だと、高らかにうたい上げられていた。
日本政府もそれに対抗するだけの「論理」や「目的」の必要性が認識されたわけだ。
この戦争のことをアメリカは「太平洋戦争」と呼んだけど、政府はこれを「大東亜戦争」と呼んだ。ヨーロッパから解放された、アジア中心の「新世界」をつくっていくことが戦争の大義とされたからだ。
でも実態は東南アジアの人々にとっては厳しいものだった。
歴史や文化を無視した対応をとったり、「戦時中の緊急事態」ということで無理やり働かせたり資産を没収することもあった。
シンガポールでは「敵国」である中国人の虐殺も起こっている。
【8】未曾有の暴力の果てに
◆大戦は、イギリス・ソ連・アメリカを中心とする連合国の勝利に終わった
―その後の推移は、よく知られているように数多くの悲劇をともなうものだった。
フィリピンのサイパン島が陥落すると、責任をとって、アメリカとの開戦に踏み切った首相の内閣は総辞職することになった。
太平洋の島々を取られてしまったことで、日本列島に対する直接の空爆も始まった(注:本土爆撃)。
さらに翌年になると、飛行機や魚雷を人間が操縦したまま、敵の軍艦に体当たりする攻撃(注:神風特別攻撃隊)までもスタートしてしまう。
―日本では空爆が相次ぎ、国民の戦意も下がっていった。
新首相は海軍の中でも「戦争を回避させようとする」考えの持ち主で、この戦争をなんとか収拾させるために動き出すことになった。
そんな中、沖縄にはアメリカ軍が上陸。沖縄本島だけでなく周辺の島々も戦争に巻き込まれ、3か月の猛烈な地上戦の末に沖縄はアメリカの占領下に置かれることとなった。
これでますます敗戦は時間の問題となった。
連合国は日本に対してどのような措置をとっていくんですか?
―すでにドイツはこの時代の最後の年に降伏。
降伏後の条件は「戦勝国に任せる」という無条件降伏方式がとられた。
敗戦後のドイツで開かれた会議では日本側への対応が話し合われた。
アメリカ政府は、ソ連の協力なしに日本に勝つことはできないと考えていたため、すでに開かれていた会議でもソ連に大幅な譲歩がされている。
たとえば、ソ連が日本に対して宣戦したら、日本が北海道周辺にもっている島々をソ連が獲得できるという内容だ(注:北方領土問題のルーツ)。
ソ連は当時日本との間に「中立」を守るという条約を結んでいたから、これは国際法違反だ。
連合国は無条件降伏を要求した宣言(注:ポツダム宣言)を日本政府向けに通告した。しかし、条文の中に「天皇の地位を守る」という内容(注:国体護持)が含まれていなかったため、黙殺。
そうこうしているうちに、これを「拒絶」と判断したアメリカ政府は、極秘のうちに進めていたウラン型核爆弾の実用化に成功し、これを一般市民の暮らす軍事工場の多い大都市(注:広島と長崎)の真上から容赦なく落とした。
日本に対する手柄をアメリカにとられてしまうことを恐れたソ連は、1発目の核爆弾が落とされた直後に、日本が事実上支配していた満州に軍隊を進め、北海道周辺の島々まで占領した。
こうして、日本が初めて経験した「総力戦」は、きわめて多数の軍人や一般市民を含む犠牲者の"悲惨な死"と、連合国の”占領”という形で幕を閉じたのだ。
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