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"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第22話 大戦と革命の衝撃と国内情勢の転換(1920年~1929年)

この時代はどんな時代ですか?

大戦革命地震恐慌がキーワードだ。

地震って、関東大震災のことですね?

―そう。首都直下型の大地震だった。


関東大震災で被災した東京都心(銀座4丁目から見た日本橋方面)(毎日新聞

焼け野原ですね…

―そう。死者行方不明者は14万人を数えた。
 歴史学研究者の加藤陽子さんが指摘するように、災害の光景には、われわれに「戦争の光景」を思い起こさせるところがある。
 

東日本大震災で被害を受けた気仙沼港(震災の約2週間後に撮影された航空写真)(復興支援キリン絆プロジェクトより転載)

東京大空襲で被害を受けた現在の墨田区両国(wikimediaより)


「思い起こさせる戦争」というと、当時では第一次世界大戦ですか。

―そう。
 日本人の死者数は約1200人だったけど、戦死者数は1000万人以上を超える、まさに「ケタ違い」のものだった。
 最新鋭の化学が大量殺人のための武器に応用され、戦場と日常の区別をうしなった戦争(注:総力戦)だった。


だけど、日本は戦場にはなってないですよね?

―そう。
 だからこそ、同時代的にはいまいちピンと来なかったわけだ。
 そこへ来たのがこの大地震(注:関東大震災)。

 非常事態宣言(注:戒厳令)が発令され、これをチャンスに日本が植民地として支配していた朝鮮の人々が反乱を起こすとの「デマ」があっという間に広まり、各地で朝鮮人や中国人が犠牲になった。

 戦争、感染症や災害などの「非常事態」の際に、普段は「立場の下」の人々がやり返してくるのではないか?」という不安を背景にした暴力は、歴史上さまざまな地域でみられる現象だ。
 なお、どさくさに紛れて、体制に批判的な人物が捕まえられ、無残に殺されるという事件も起きている(注:甘粕事件)。

 復興の過程で東京の町並みは大きく変わった。

 しかし、開発がはじまっていた田園調布という計画都市は震災の影響が小さく、都心にほど近い郊外への移住がブームとなったよ(注:田園調布)。


ちょっといったん前に戻りますけど、大戦に参加した日本には、その後どんな変化があったんですか?

―第一次世界大戦の勝利による一番の変化は、日本はようやく欧米と肩を並べ“一流の国”になったのだというムードが広がったことだ。

 その現れが、前回紹介した、戦勝国の会議(注:パリ講和会議)における「人種差別を撤廃しよう」という提案にもあらわれている。結局、イギリスやアメリカの反対によって否決されてしまったけどね。


日本は戦勝国グループ(注:国際連盟)の中では、どんなポジションだったんですか?

―設立前の会議ではビッグファイブ(アメリカ、イギリス、イタリア、フランス、日本)のうちの1つを数え、アメリカが国内の反対でグループから外れても、固定中心メンバー(注:常任理事国)の役は揺らがなかった。

 事務局の次長には、昔五千円札の顔だった人(注:新渡戸稲造(にとべいなぞう))が就任している。
 なお、この時期のはじめには、次期天皇となる皇太子(注:のちの昭和天皇)がヨーロッパを外遊し、「立憲君主とはこういうものなのだ」という実感を深めて帰国した。

一気に日本の存在感が増したんですね。

―ヨーロッパとしては、ロシアで革命が起きて「労働者中心でみんな平等な社会をつくろうとする運動」(注:社会主義)が日本にひろまってしまうことも気がかりだった。
 中国にも勢力を伸ばそうとしている日本をグループ内に引き込めば、ユーラシア大陸の東西から、ロシアの「新しい国」を挟みうちにすることができるからね。

結局挟みうちは成功したんですか?

―国づくりを邪魔しようとした(注:対ソ干渉戦争)ものの止められず、もともとあったロシアを基礎にして「ロシアを中心に、労働者中心でみんな平等な社会をつくろうとするグループ」(注:ソ連)ができあがったよ。

 でも、日本への影響はゼロではない。
 この時期には労働者の運動も盛んになり(注:日本労働総同盟)、農民が「自分の土地」を要求する運動も盛んになった(注:小作争議賀川豊彦日本農民組合)。
 「みんなが平等な社会をつくろう」とする思想(注:社会主義)にもとづくグループ(注:日本社会主義同盟)もつくられたけど、政府は法律(注:治安警察法)によって禁止。
 当局の弾圧をかいくぐり、ロシアのグループの「支部」という位置づけで、「日本での革命をめざすグループ」(注:日本共産党)も設立されているよ(注:堺利彦(さかいとしひこ)、山川均(やまかわひとし))。



ロシアの革命のインパクトも強かったんですね。

―そう。この時代は、「第一次世界大戦」という未曽有のスケールの戦争だけでなく、ロシアにおける革命(注:ロシア革命)のインパクトを受ける時代だ。


 「日本はこのままじゃ危ない」「もう一度世界大戦が起きたらどうするんだ」という危機意識が強まり、社会のあらゆるところに影響を与えたわけだ。


例えば?

あらゆる人が戦争に協力する体制(注:総力戦体制)が整っていったことで、「国のために貢献しているのに、選挙権がないのはおかしい」と、「だれでも選挙に行ける権利」を求める運動(注:普通選挙運動)がますますさかんになった。

 ひと足先に欧米では、女性の選挙権も認められている状況だ。


 それに比べて日本は遅れているということで、女性のポジションを高めるためのグループ(注:新婦人協会)が結成され、参政権を求める運動(注:婦人参政権運動)が盛り上がった。


その結果は実ったんですか?

―女性の政治参加を禁止する法律(注:治安警察法第5条)が改正されて、女性でも政治のイベントに参加できるようになっているよ。こうしてさらに、先ほどのグループは政治に参加する権利をゲットするためのグループ(注:婦人参政権獲得期成同盟会)へと発展した。

 こうした動きには、先ほどのロシアにおける革命の影響もあって、「平等な社会をつくろうとする思想」(注:社会主義)に基づくグループ(注:赤瀾会(せきらんかい))も加わった。

* * *

ところで、戦勝国メンバーになった日本は、どのような外交方針をとったんですか?
より一層、中国への支配を強めていきそうな気がするんですが。

―いや、じつはその逆で、とっても慎重な方針をとったんだ。

 日本はドイツの植民地だった太平洋に進出していたし、ドイツが利権をもっていた北京近くの港や鉄道(注:膠済(こうさい)鉄道)の利権を、ドイツから引き継いでいたよね。

山東省の青島から西に伸びるのが膠済鉄道(世界の歴史まっぷより)


 それを好ましく思わなかったのがアメリカやイギリスだ。
 「日本が中国でのビジネスや支配権を独占してしまうのではないか」との危機感を抱いたわけだ。


じゃあ、イギリスやアメリカは日本に対して横槍を入れていったわけですか。

―そう。
 日本の勢力が「これ以上ひろがらない」ように「釘を刺す」必要があった。
 例えば軍隊を配備するなどの手を打ちたかったわけだけど、国内では「戦争に対する反対意見」が大きかったこともあり、当時のアメリカの大統領(注:ハーディング)は会議による解決をとったのだ。
 こうして国務長官(注:ヒューズ)を中心に、日本をイギリスとの同盟から引き離し(注:四カ国条約日英同盟の終了)、中国や太平洋でこれ以上行動範囲をひろげないように釘をうち(注:門戸開放の原則の承認)、重要性のたかまっていた海軍の軍備を日本よりもアメリカとイギリスが高い形となるように調整したんだ。

どうして、アメリカにそんな発言権があるんですか?

―大戦のとき、アメリカはイギリスにたくさんの資金を貸している。だから立場が上となったのだ。 

さらにこの会議で日本は、ドイツから引き継いだ中国の利権を中国に返還している(注:山東半島の返還九カ国条約)。


でも軍隊を縮小させるなんてことしたら、軍人は反発しませんか?

―そうそう。
 当時の若手軍人たちには、日露戦争のときに軍人にあこがれてその道に進んだ者が多かったからね。

 そこへ急転直下の「軍縮」だ。
 政府としては「支出」が減るし、キツキツだった財政を建て直す口実となったわけだけど、軍人への世間の目もきびしくなり「リストラ」されるんじゃないかという不安も広がった。


政治はどんな状況だったんですか?

―「人々の発言力」をもはや無視して政治は回せないとの認識から、特別な階級出身じゃない人(注:平民)が首相に推薦されて、内閣ができたんだ(注:原敬内閣)。

 彼がとったのは、じゃんじゃん国がお金を使って地方にお金を流す政策だ。
 リーダーシップを発揮して、教育・産業・国防などの分野で積極的にプロジェクトをおこなった(注:積極政策)。選挙権も大幅にひろげる(注:直接国税10円以上→3円以上)一方、大きな政党に有利となるような選挙の方式(注:小選挙区制)を採用し、幅広い支持を得るにいたった。

すごい。

―でも、彼と仲良くしておけば、お金を誘導してくれるわけだから、大企業のおえらいさんも、わらわらと集まっていくる。
 すると、それが汚職スキャンダルに発展しまうことに。
 さらに彼は「誰でも選挙にいける制度」(注:普通選挙制)には「まだ早い」として反対だった。
 しだいに人々の支持を失い、最期は東京駅で暗殺されてしまった。

その次は?

―引き継いだのは、同じ党(注:立憲政友会)のトップ(注:総裁)を引き継いだ人物(注:高橋是清(これきよ))が首相となった。
 前の人が亡くなっても同じ政党の人が引き継いだわけだから、政党を基本とする政治が根付いたといってよい人事だったわけだけど、結局内閣がバラバラになって総辞職となってしまう。

あら…

―その後は、政党の出身者ではない人(下図)による内閣(注:加藤友三郎内閣)が引き継いだ。
 この人は海軍の大将だったけど、先ほどの通り海軍の縮小をおこなった人物だ。

どうしてそんなことを?

―海軍は「でかけりゃいい」わけじゃない。
 組織や装備の「中身が重要だ」「海軍は軍人の専有物ではなく、総合的な国力が重要だ」と考えたんだ。
 ここにも、大戦における欧米諸国の国や軍隊のあり方の変化を目の当たりにしたことが影響しているよ。
 同時に陸軍でも、陸軍大臣のもとで6万の兵力が減らされた(注:山梨軍縮)。これが功を奏して、国家予算のうちの軍事費はぐんと下がっていったんだ。


その後の内閣は長続きしたんですか?

―短命に終わる。
 次の内閣も政党中心ではない内閣(注:山本権兵衛内閣)だ。そんな中、先ほどの大地震が首都を襲ったわけ。

就任早々大変でしたね。

―復興に全力をあげるとともに、「お金を払えなくなってしまった会社の取引」を日本銀行が特別に穴埋めする緊急策もとられた。

 そして、いよいよ「だれでも選挙にいける法案」を通そうと動いた。
 しかし、その最中、当時の天皇(注:大正天皇)の補佐役(注:摂政)をつとめていた人物(注:次の昭和天皇)の暗殺未遂事件(注:虎ノ門事件)がおきてしまう。こりゃ「だれでも選挙にいける法案」を通す状況じゃないということで、振り出しにもどってしまった。

 次にあとを継いだのは、特権階級や官僚中心の内閣(注:清浦奎吾(きようらけいご)内閣)だった。

それは反発も起きますね。

―「あと一歩」で「だれでも選挙にいける法案」が通りそうだったわけだからね。
 そこで、政党勢力(注:立憲政友会、憲政会(前・立憲同志会)、革新倶楽部(前・立憲国民党))が一致団結して、「政党を中心とする政治を実現させる3つのグループ連合」(注:護憲三派)をつくって、内閣をたおす運動を起こした。
 結果、「だれに政権を任せるか?」決める選挙で圧勝した3つのグループは、特権階級を守ろうとするグループ(注:立憲政友会から分かれた政友本党)に対して圧倒的な票をあつめ、内閣(注:清浦奎吾内閣)を総辞職に追い込んだ。

じゃあ、勝った側の政党中心の内閣ができたわけですね!

―そう。一番票をあつめた党(注:憲政会)のトップ(注:加藤高明下図))が中心になって、3グループ合同の内閣ができたよ。

大変な変化ですね。

―その頃には、国外でも大変な変化が起きていた。
 アメリカで日本人移民をシャットアウトする法律(注:新移民法(排日移民法))が制定された。当時のアメリカでは「イギリス系の白人(注:WASP)がいちばん偉い」という考えが広まり、なにより自国のことを第一に考える風潮が強まっていた(注:孤立主義)。

日本は抗議しなかったんですか?

―軍事費節約のためにも、アメリカとは友好関係を保ちたいというのが、日本政府(注:幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外務大臣)の方針。
 アメリカのペースに「合わせる」外交がとられた(注:協調外交)。

 また、「北の政府」のほかにさまざまな地方有力者が入り乱れていた中国で、「を拠点として「王様のいない国」をつくろうとするグループ」(注:国民革命軍下図)。指導者は蒋介石)が「中国統一」をめざして北上しても、それに対して軍を出したりということはしなかった。
 また、「労働者を中心に平等な社会をつくること」を目標に掲げたロシア中心のグループ(注:ソ連)とも「正式な国の関係」が結ばれた(注:日ソ基本条約)。

柔軟な方針がとられたんですね。

―そうだね。
 震災もあったし、誰でも選挙に行くことのできる法律(注:普通選挙法)もつくられようとしている中、まずは国内の体制のバージョンアップが必要だという意識があったわけだ。


で、その、誰でも選挙に行くことのできる法律はどうなりました?

―先ほどの、ソ連との国交が結ばれた年に、政権をとった「3グループ合同の内閣」(注:加藤高明内閣)でついに制定されたよ。
 でも、「だれでも」っていっても、マジでだれでも」選挙に来られちゃ困るわけ。

 例えば、「天皇を否定するグループ」や「革命を起こそうとするグループ」が政治に参加しちゃ困るわけだ。

 そこで、そういうグループはそもそも日本国内に存在しちゃあいけないんですよ(注:治安維持法)という法律も同時に制定されたわけだ。
 ソ連との国交が結ばれたとはいっても、「ソ連の考え方はダメだからな」という「釘」を刺したということだ。
 ちなみに当のソ連では、当時は「だれでも選挙に行ける」わけではなかったんだけどね。


政党が中心の政治となって、日本はようやく安定したわけですかね?

―たしかに表向きは、2つの政党(注:立憲政友会と立憲民政党)が交替で政権を担当する時代がやってきた。

 2つの政党というのは、地方を重視し積極的にお金を使おうとする政党(注:立憲民政党)と、中央政府を重視しお金を使うのには消極的な政党(注:立憲民政党)のことだ。

 だけど、従来からの支配層は、この2つの政党を「隠れみの」にして、裏でなんとか生き残ろうとする。
 つまり、表向きには政党が政治をやっているようでも、裏では軍や特権階級中心の議会(注:貴族院)、天皇の「相談役」レベルの長老政治家の会議(注:枢密院(すうみついん))が、それぞれ絶大な力をにぎり続けていたわけ。
 政権が代わるときには、決まってどちらかの政党が、議会の外のこうした勢力と結んで、相手の政党を政権から追い落とすという形がとられ、国民の選挙によって政権が代わったということはあまりなかったんだ。

どうしてそんなことに?

―そもそも憲法に「政党」に関する記載がないからだ。

 以前、当時の憲法によってプログラミングされた国の仕組みを「ぶどうの房(ふさ)」にたとえたことがあったよね。


 軍、特権階級、官僚、天皇の「相談役」など、それぞれの「」は独立して存在している。

 その「房」のトップには、方向付けるために「天皇」が設定される。
 これはヨーロッパでいうところの、キリスト教の神だ。
 その神に代わる絶対的な審級として設定されたのが、「天皇がみずから国を治める」というストーリーだ。
 
 昔の昔、江戸幕府をたおした功績のある「レジェンド級の政治家」が生きていたころには「鶴の一声」でこれらをまとめ上げたり、天皇と議会や軍・官僚の間を取り持ってバランスを調整したりすることもできたわけだけど、そういうことができる人がいなくなっちゃうと、まとめようがなくなるわけ。

 政党は政党で、「権力」を握ると、国の予算を「何に使うか」を決めることができるようになるわけで、その「おこぼれ」にあずかろうと、巨大な企業グループとの親密交際がスキャンダルになるなど、「政治とカネ」の問題も起きるようになる(注:金権政治)。


それじゃあ、国民の信頼は得られませんね。

―そうだよね。
 一方、先ほどの内閣の首相が、在職中に病に倒れ、亡くなってしまう。
 これを引き継いだ首相(注:第1次若槻礼次郎内閣)が取り組んだのは、大震災の痛手をうけた経済の立て直しだった。しかし、大蔵大臣(注:片岡直温(かたおかなおはる))の失言によって、「銀行の預金が危ないのでは」という騒ぎ(注:取り付け騒ぎ)が起き、その結果大不況に発展してしまう(注:金融恐慌)。
 大手の銀行(注:台湾銀行)までもが倒産し、内閣は天皇のおふれ(注:緊急勅令)をつかって解決しようとしたけど、有力政治家たち(注:枢密院)によって却下され、総辞職。

なんだか、どんどん悪い方向に向かっていますね。

―次の内閣(注:立憲政友会の田中義一(ぎいち))は、いったん全国の銀行を閉店させて、日本銀行からなんと20億円を緊急で貸し出した。

すでにこの時期にはラジオ放送がスタートしていた。


 この荒療治によってなんとか不況はおさまったわけだけど、その間に中小企業はつぶれ、さまざまな業種が巨大企業グループ(注:三井(→立憲政友会とパイプ)・三菱(→憲政会、のち立憲民政党とのパイプ)・安田・住友の四大財閥)によって乗っ取られていった。
 銀行もね(注:三井・三菱・安田・住友・第一の五大銀行)。

 一族によって経営されたこうした企業グループは、業種の枠を超えて「多業種グループ」(注:コンツェルン)を形成し、日本の産業を支配するにいたった。
 

政治家との結びつきもあったんですよね?

―そう。
 これらの企業グループは、中国にも工場を進出させ、糸をつくる工場を建設していった(注:在華紡(ざいかぼう))。

植民地 台湾の開発
 一方、植民地となっていた台湾では日本の資本が投下され、工業化やインフラ整備が進んでいた。台湾南部の嘉南平野に当時としては世界最大の烏山頭ダムを建設した土木技師(注:八田與一(はったよいち))、その功績が知られている。
 当時の植民地には「若手があたらしいことをやってみる場」「あらたしい政策の実験場」としての役割もあった。日本が植民地を積極的に開発したことは、その後の韓国や台湾(後に新興工業経済地域と呼ばれる)の産業の発展にも少なからぬ影響を与えている(木村光彦『日本統治下の朝鮮 - 統計と実証研究は何を語るか』中公新書、2018。)。

 それを後押しするように、この内閣(注:田中義一内閣)は中国に軍をおくる(注:山東出兵)。

どうして軍を?

―前の内閣(注:第1次若槻礼次郎内閣)のときから、南を拠点に「皇帝のいない国」を建設しようとするグループ(注:国民革命軍)が、「北京にいる軍の有力者による政府」をたおすために北上。
 このままいくと、中国が統一され、かえって中国進出がしにくくなると考えられたんだ。

バラバラなほうが都合がいいというわけですね。

―統一をめざす軍は長江のあたりにも至り、長江沿岸に拠点をもつイギリスは日本に「一緒に軍を出そう」と持ちかけた。
 でも内閣(注:第1次若槻礼次郎内閣)はこれを拒否。
 イギリスが単独で攻撃すると、すでに南京を占領していた「中国統一をめざす軍」のリーダー(注:蒋介石(しょうかいせき))は、「イギリスの攻撃の裏には「平等な社会を目指そうとするグループ」(注:中国共産党)のせいだ」と主張して、このグループに対して上海で大弾圧(注:上海クーデタ)を加え、自分のグループ(注:中国国民党)中心の政権を南京で樹立した(注:南京国民政府)。


中国は中国で、仲間割れしていたんですね。

―国の方針をめぐってね。
 
 一方、日本で不景気が深刻化すると、「中国での利権を守れない政府はなにやっているんだ!」「外務大臣(注:幣原喜重郎(しではらきじゅうろう))は弱腰だ!」という厳しい声もあがるように。

 そんな中あらたに就任した首相(注:立憲政友会の田中義一内閣)は、外務大臣をも兼任。
 おもてむきは、アメリカ・イギリスの主導する「日本の軍備を縮小」させることが目的の軍縮会議に参加したり(注:ジュネーヴ軍縮会議。結果は合意にいたらず)、「自衛以外の理由による戦争を禁止する条約」(注:不戦条約)を結んだりしたものの、中国に対しては強い姿勢をとった。
 例えば、「中国を統一しようとするグループ」が南京から北上すると、これを「じゃま」しようと山東半島に兵を送って、戦闘行動をとっている(注:済南(さいなん)事件)。
 なんとしても「満州とモンゴル南部(注:内蒙古)」の利権を守らねばとの方針をかため(注:東方会議)、満州の有力軍人政治家(注:張作霖(ちょうさくりん))に「日本に協力し、満州を守ってね」と期待をかけた。


結果は?

―中国統一をめざすグループはつに北京まで北上し、満州の有力軍人政治家も日本に協力的ではなくなった。
 そこで、「用無し」と認定された満州の有力軍人政治家(注:張作霖)は、北京から満州に撤退する途中、中国に置かれていた日本の軍隊(注:関東軍)の高級指揮官(注:河本大作大佐)の判断によって、乗っていた鉄道ごと爆破されてしまう(注:張作霖爆殺事件)。

首相の指示だったんですか?

―中国に置かれていた日本の軍隊(注:関東軍)がひそかに計画したものだ。
 しかし、当初情報は錯綜し、「真犯人を知っていた」首相は野党から責任を追究されると、「軍法会議をひらいて真犯人を処罰しよう」と考えて天皇に報告したが、彼にそんな力もなく、天皇との約束も果たされず、犯人は軽い処分で済む結果となった。


 天皇はこのとき首相のことを厳しく叱り、内閣を総辞職にまで追い込んだ。
 その後、天皇はこのときのことを「やりすぎた」と感じたようで、その後はほとんど表立って方針を述べたりということは、第二次世界大戦の末期まではしなくなる。

中国の動向は?

―父を殺された満州の有力者(注:張作霖の息子の張学良(ちょうがくりょう))は、「中国の統一運動」に加わることを決意し、満州を明け渡すことになる。
 日本国内には、こうした状況を「政党の政治家による大失敗」ととらえる主張も上がるようになる。


アメリカやイギリスを敵視する意見もあがりそうですね。

―すでにインド洋周辺の西アジア、南アジア、東南アジア、そして大西洋・インド洋にかこまれたアフリカ(注:この時期に、不治の病とされた感染症研究を日本人医師(注:野口英世)が現地でおこなっている)は、アメリカやイギリスのほかヨーロッパ諸国によってほぼ完全に植民地化され尽くしている状況だった。




 残るは、中国を中心とする太平洋周辺
 大戦後のアメリカ合衆国は、いっそう海軍を増強させていた(注:マハンダニエル計画)。

当時のアメリカはどんな状況だったんですか?

―イギリスやフランスに多くの資金を貸し付けてていたアメリカは、戦後に「空前の繁栄」をむかえていた。

 しかし、それも「時間の問題」。
 この時代の末には、「空前の大不況」がニューヨークを震源に発生。世界規模の不況に発展していくこととなるよ。

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