世界史のまとめ × SDGs 第16回 ヨーロッパ諸国の3大洋への進出とそのインパクト(1500年~1650年)
SDGs(エスディージーズ)とは「世界のあらゆる人々のかかえる問題を解するために、国連で採択された目標」のことです。
言い換えれば「2019年になっても、人類が解決することができていない問題」を、2030年までにどの程度まで解決するべきか定めた目標です。
17の目標の詳細はこちら。
SDGsの前身であるMDGs(ミレニアム開発目標)が、「発展途上国」の課題解決に重点を置いていたのに対し、SDGsでは「先進国を含めた世界中の国々」をターゲットに据えています。
一見「発展途上国」の問題にみえても、世界のあらゆる問題は複雑に絡み合っているからです。
しかも、「経済」の発展ばかりを重視しても、「環境」や「社会」にとって良い結果をもたらすとはいえません。
「世界史のまとめ×SDGs」では、われわれ人間がこれまでにこの課題にどう直面し、どのように対処してきたのか、SDGsの目標と関連づけながら振り返っていこうと思います。
海を中心に交流が活発化し、ヨーロッパ諸国が3大洋(大西洋、インド洋、太平洋)に進出していくと、各地の人類はどのようなインパクトを受けたのか?
◆目次
【1】ヨーロッパ諸国の海外進出は、アメリカ大陸の社会にどのような影響を与えたか?
【2】ヨーロッパ諸国が進出しても、「アジアの繁栄」はなぜ続いたか?
【3】ヨーロッパ諸国の海外進出によって、世界各地の人々の食生活はどのように変化したのか?
【4】「ヨーロッパ諸国の海外進出」はアフリカの人々や生態系にどんな影響を与えたか?
【1】ヨーロッパ諸国の海外進出は、アメリカ大陸の社会にどのような影響を与えたか?
目標10.1 2030年までに、各国の所得下位40%の所得成長率について、国内平均を上回る数値を漸進的に達成し、持続させる。
目標10.2 2030年までに、年齢、性別、障害、人種、民族、出自、宗教、あるいは経済的地位その他の状況に関わりなく、全ての人々の能力強化及び社会的、経済的及び政治的な包含を促進する。
前の時代の終わりごろ、ついにヨーロッパの人たちがアメリカ大陸にたどり着いていますね。
―そうだね、これまでコミュニケーションがほとんどなかった南北アメリカ大陸とユーラシア大陸が関わり合うようになったわけだから、すごいインパクトをもたらしたわけだ。
アメリカ大陸に金銀財宝が無限にあるんじゃないかと期待したヨーロッパ諸国は、こぞってアメリカ大陸に進出することになる。
現在の世界への影響はありますか?
―アメリカ大陸の人種の構成をみてごらん。
この時代にはじまる人の動きの影響が、現在のアメリカ大陸の人種の比率にも色濃く残っていることがわかる。
アメリカにはヨーロッパのどのような国から人がやって来たんですか?
― 一番乗りはスペインとポルトガルだったけど、それをオランダ、フランス、イギリスが追いかけていくよ。
アメリカ大陸にはその後もさまざまなバックグラウンドを持つ人たちが海を渡って移住していくことになる。
アメリカ大陸の人たちはどんな影響を受けたんですか?
―アメリカではスペインとポルトガルが支配エリアを拡大している。先住民の国々は滅ぼされ、住民は強制的に働かされたり攻撃されたりしたよ。
ヨーロッパから持ち込まれた病気(注:天然痘(てんねんとう)やインフルエンザなど)によってアメリカの人たちが亡くなると、アフリカから代わって黒人の奴隷が輸送された。
先住民の中には高い山や森に逃げ込めた人たちもいたけれど、ヨーロッパの人たちや黒人との間に生まれた子どもも増えていくんだ。
とっても複雑な社会ができていくけど、基本的にはヨーロッパの人たちをトップとするピラミッド型の社会ができあがっていくよ。
アメリカ大陸では現在に至るまで、人種の違いが社会的な差別につながっている問題がつづいているところが少なくない。
もともといた人たちはどんな目にあったんですか?
―領主の所有する広い土地の農園の働き手となっていった。
土地を一部持てる場合(注:小作人)や、土地は持てず働く場合(注:農業労働者)があった。ブラジルではファゼンダ、メキシコ・パラグアイでアシェンダ、アルゼンチンでエスタンシアと呼ばれるものだ(注:大土地所有制)。
これは非常に不平等な制度で、一部の大土地所有者に富が集中していた。
土地を持っている人はどんな人ですか?
―ほとんどがスペインやポルトガル系の人だ。
ただ、北アメリカの先住民たちと、移り住んできたヨーロッパの人たちとの間にはほとんど交流はなく、ヨーロッパの人たちによって一方的に攻撃を受けていくことになる。
この時期にはイギリスやフランスが北アメリカに植民地を建設しているよ。イギリスのものはのちに「アメリカ合衆国」の、フランスの一部は「カナダ」のルーツになっていく。
* * *
【2】ヨーロッパ諸国が進出しても、「アジアの繁栄」はなぜ続いたか?
目標 9.1 全ての人々に安価で公平なアクセスに重点を置いた経済発展と人間の福祉を支援するために、地域・越境インフラを含む質の高い、信頼でき、持続可能かつ強靱(レジリエント)なインフラを開発する。
―海って、交通っていう面から見ると、「障害物」だと思う? それとも自由に通れる「道」だと思う?
障害…ですかね。通るのが大変そうです。
―たしかに。
でも、海って陸と違って明確な線を引くことは難しいよね。
どこからが誰の海で、どこからが誰の海だということも言いにくい。
東アジアから東南アジアにかけての海(注:東シナ海、南シナ海)は、伝統的に中国の皇帝がコントロール下に置かれてきた。
でも、中国の南の民間の人たちは、しばしばコントロールから抜け出して、自由に貿易をしようと何度も試みてきた。
逆に、この海のまわりにあった、現在の沖縄とかタイとかマレーシアやインドネシアにあった国は、「中国とコネができれば、権威がアップする」と考え、「正式な経済関係」を求めて積極的に中国に向けて船を出すようになっていった。
例えば?
―沖縄の那覇に「中国人たちが済んでいた集落」跡がのこされている(注:中国の福建(ふっけん)から移り住んだ閩人(びんじん)三十六姓)。
沖縄の外交文書(注:『歴代宝案』)には、当時の王国がタイ、ベトナム、ジャワ、スマトラ島、マレー半島などの政権とさかんに取引していた記録が残されている。
アジアって、ヨーロッパ諸国が来る前から、そんなにインターナショナルだったんですね!
―「国なんて関係ない(意識していない)」という集団も多かったようだ。
アジア各地をつないだ存在として重要だったのが、沖縄とマラッカの商人。
だからこそ後者のマラッカは、この時期のはじめにやって来たポルトガルに目をつけられたわけだ(注:ポルトガルによるマラッカの占領)。
でも、自由に商売していて、中国の皇帝からは目をつけられなかったんですか?
―取締まるにも限界があるし、彼らがいなければ物資がまわらないから「必要悪」というところもあった(注:互市(ごし))。
でも、これだけ商業エリアが広がり、商品の販売先が中国だけではなくて日本やヨーロッパ諸国にまで広がり、それを供給できるだけの工業地帯も長江下流域に広がると、交換につかわれていた「銀」の量が不足するようになった。
そこで白羽の矢が立ったのが、日本の島根県の銀鉱山だ(注:石見銀山)。同時に、この時期にはスペインが太平洋を超えてメキシコから持ち込んだ銀も決済につかわれるようになっていた。
当時戦国時代だった日本も含め、中国から東南アジア一帯の密貿易で「荒稼ぎ」していた中国人商人(注:王直)は、日本に初めて鉄砲を持ち込んだときに通訳をした人物だという。
この人物は長崎県の平戸とも密接な関係があるから、記録にはないだけで、もっと前にすでに鉄砲をもちこんでいた可能性もある。
日本の戦国大名は、こぞって中国の密貿易商人から「火薬」を買い付け、銀で支払った。
その後、キリスト教の宣教師(注:ザビエル)が日本に来た時に連れていた人物は、マラッカで出会った鹿児島出身者(注:アンジロー)だった。
「ポルトガル人がマラッカで、日本人に出会って日本に行く」なんて、すごいグローバルな話ですね。
―でしょ。
「ヨーロッパ諸国がやって来たから、地球が一体化した」なーんて単純な話じゃないことがよくわかるでしょ。
それ以前から、アジアの海では空前の貿易ブーム(大交易時代)が起きていたんだから。
でも、それまで「ゆるやかな広がりをもった空間」だったアジアも、商業がさかんになり、ヨーロッパ諸国が貿易に参入したことによって、各地の狭いエリアを支配するいくつかの政権が並び立つ状況に変わっていくことになる。
各地の国が海の貿易をコントロール下におさめようとしていったわけですか?
―そう。「自由な海」は、「各地の陸の政権に支配される海」へと変貌していったわけだ。
日本の支配者(注:豊臣秀吉)が朝鮮を攻めてからというもの、その傾向はさらに強まっていった。
そこにヨーロッパ諸国が貿易に参入すると、「さまざまな勢力が角逐(かくちく)する海」になっていくわけだ。
西ヨーロッパの人たちはどの程度アジアの貿易に参入できたんですか?
―ポルトガルはかなり成功したほうだと思うよ。
日本と中国の間の中継貿易で莫大な富を築いたんだ。
「ヨーロッパ諸国の進出」っていっても、もともと地元の人たちの間で盛んだった貿易の「おこぼれ」をもらいに行った感じだ。船に大砲を積んで脅かし、重要な港に要塞(ようさい)をつくって貿易に無理やり参加しようとしたわけ。
ヨーロッパ諸国の進出に対し、当時のアジアの定住民や遊牧民(注:ジュンガル)の支配者も、新兵器である銃や大砲を主体とするヨーロッパや西アジアの新戦法を軍隊に取り入れていった。
「ヨーロッパ諸国の到来によって、すぐさま植民地化が進んでいった」わけではないんだよ。
そういえば、中国、中国って言ってますけど、この時期にはもう「モンゴル帝国」はバラバラになってしまっているんですよね?
―うん、バラバラになって中国では漢人の皇帝支配(注:明(みん))が復活しているよ。
とはいっても「モンゴルの過去の栄光」はレジェンド(伝説)として語り継がれている。
草原地帯の遊牧民のリーダーになるためには、建国者の血を引いていることが絶対条件となったんだ(注:チンギス統原理)。
これだけ広い範囲に名前をとどろかせ続けるなんてスゴイですね。
―だね。西は今のロシアのほうから東は中国のほうまで、リーダーはモンゴルの建国者の子孫であることが求められたわけ。
で、モンゴルの本家本元の家柄は中国の北のほうでずーっと続いていたんだけど、モンゴルの血を引いていない新たな民族が現れた。
どんな民族ですか?
―当時のアジアは貿易ブームだったよね。
東南アジアから沖縄、沖縄から九州、本州、本州から北海道、北海道から中国の北のほう…というように、貿易ルートが数珠(じゅず)つなぎのようにはりめぐらされ、各地で貿易ルートを銃や大砲などの武器の力でコントロールし、リッチになった支配者が現れているんだ。
例えば、沖縄の王様、日本の信長や秀吉、北海道のアイヌなどだ。
北の海でとれるはずのコンブが沖縄料理の定番となっているのも、この時期以来の遠距離交易ルートのおかげだ。
北海道の方面とのクロテンなどの毛皮貿易や、朝鮮の薬用ニンジンの貿易で力をつけたのが女直(じょちょく)という民族。
彼らは高級品を中国の皇帝に売り込んで力を付け、数々の戦いを勝ち抜いていった。その結果、女直の王様はなんとモンゴル人から「あなたが遊牧民のリーダーになるべきです」と推薦されたんだ。
すごいことですね!
―モンゴルの支配層の間でも揉め事があったことも関係している。
女直はその後、中国に攻め行って皇帝を倒し、なんと中国の「皇帝」になっちゃうんだ。
こうして新しく中国にできた「清」(しん)という王国は、女直のふるさとである中国の東北方面(「満州」というところ)と、モンゴルの一部を従え、大きな国になっていくんだ。
草原地帯と定住民の地域をまたぐ国が、また新しくできたわけですね。
―そうだね。昔からの「基本パターン」だよね。
一方同じころ、インドの北にある世界有数の高山地帯で巨大な国ができた。
チベット人のお坊さんが、チベット仏教というお寺の「ふしぎな力」を利用して広い国をつくったんだ。リーダーは、ダライ=ラマという称号を名乗ったよ。
どうしてお坊さんにそんなことができたんですか?
―同じころ北のほうで成長していたモンゴル人の遊牧民の一派の力を借りたんだよ。モンゴル人の側も、自分たちのグループをまとめることができる考えを求めていたんだ。
モンゴル人とチベット人の協力ですか。スケールの大きな話ですね。
―そうだね。今でもチベットの観光名所となっている巨大な宮殿は、このときにつくられたものだ。
もっと北の寒い地域はどんなことになっていますか?
―北極に近いところだよね。このへんではトナカイにコケを食べさせながら移動する遊牧民が活動している。農業ができないので余るほどたくさんの食料をつくることはできないから、大きな国はできないよ。
しだいに「毛皮」を目当てに西のほうから進出したロシア人に、生活する場所を奪われていくことになるよ。
中国はどんな様子ですか?
―この時代の中国は明(みん)が支配しているけど、北の遊牧民と南の海を拠点に活動する人々によって、サンドイッチのように圧迫されている状態だ。
どうしてまたまとまったんですか?
―危機的な事態になると遊牧民は結集する傾向がある。
このときは中国の皇帝が遊牧民との貿易を制限しようとした。それに困って貿易を要求するために小競り合い(こぜりあい)が起きたんだよ。
さらに地球全体の気候の寒冷化(注:小氷期)も拍車をかけた。
寒冷化は、当時の中国や日本にも大きな影響を与えた。
日本ではこの時代に、現在の東京に武士の政権が置かれ全土が統一された(注:江戸幕府)けれど、終わり頃には大きな飢饉(ききん)に見舞われているね。
遊牧民側にも、のっぴきならない事情があったわけですね。
―そうだよ。
遊牧民は一時、中国の首都である北京を占領。さすがに現実を見た皇帝は、オフィシャルな形での貿易を再開しているよ。
一方、中国の皇帝は海の貿易もコントロール下に置こうとした。
都は中国の北のほうにあるけど、経済の中心は海を通して西の世界とつながっている南のほうにあるからね。
でも実力がともなわず、中国沿岸には隠れて貿易をしようとする人たちであふれかえっていたんだ。
「海賊」ですね。
―そう。中国の皇帝からは「日本の海賊」と呼ばれたけど、実際には中国の周りでビジネスを行っていたいろんな民族が混ざっていたよ。
このようにピンチに立たされた中国は、支配層の間で仲間割れが起き、おいうちをかけるように朝鮮に日本の秀吉が軍を進めた。
踏んだり蹴ったりですね。
―日本は当時、今の島根県で世界有数の銀(シルバー)を産出し、大阪や福岡の商人を中心に莫大な貿易の利益をあげていた。
そんな中、朝鮮の北の「満州」というところで、北方のビジネスによって力をつけた女直(じょちょく)という民族が、モンゴル人を味方につけて北京を占領。中国の皇帝に即位することになるんだ。
ちなみにこの時期、太平洋の地域も「世界の一体化」の影響を受けていますか?
―この時代、オセアニアがヨーロッパ人の「アジアへの通り道」になる。主体的に参加したというのではなく、ヨーロッパ人と「出会った」という形だ。
島民どうしの争いに介入するケースもあって、現在でも記憶されている事件(注:ラプラプ王によるマゼランの戦死)もある。
また、アメリカ大陸に進出していたスペイン王国が、太平洋を横断する貿易ルートの開拓に成功。アメリカで掘り当てた銀(シルバー)が大量にアジアに流れこみ、アジアの貿易ブームにも影響を与えた。
どうやって太平洋を横断したんですか?
―太平洋の海流をみてみよう。
フィリピンからは黒潮に乗っていく。そこから北アメリカ大陸に向かう海流に乗り換える。
北アメリカから太平洋に行くときには、それより南に針路をとる。
大きく円を描くようなルート。それが最短ルートだってことに気づいたんだ。
間違って日本に漂着しちゃう船もときどきあった。
オセアニアの島々はヨーロッパ人によって支配を受けたんですか?
―熱帯の気候は過酷だし資源も少ないので、直接的な支配は受けていないよ。オセアニアの人たちはさぞかしビックリしたことだろう。
スペインに引き続きオセアニアを目指したのはイギリスやオランダだ。イギリスはさかんにスペインの船を襲ったよ。イギリスの「王様公認の海賊」(注:バッカニア)は、スペイン船の積む金銀財宝を狙ったんだ。
オランダの探検家はオーストラリアやニュージーランドのあたりを「発見」している。タスマニア島もこのろき「発見」された。タスマニア島はオーストラリア大陸の南東沖にあって、独自の生態系と人間の文化が維持され続けてきた島だ。
ヨーロッパ人が知らなかっただけで、長い歴史があったわけなんだけどね。
そういえば、イースター島のモアイ像はまだ作られているんでしょうか?
―小さい島で資源が不足し、モアイ像の建設はストップしている。島民どうしで争いが起きて、モアイ像の多くが倒されてしまったようだ。
* * *
【3】ヨーロッパ諸国の海外進出によって、世界各地の人々の食生活はどのように変化したのか?
目標2.1 2030年までに、飢餓を撲滅し、全ての人々、特に貧困層及び幼児を含む脆弱な立場にある人々が一年中安全かつ栄養のある食料を十分得られるようにする。
目標2.3 2030年までに、土地、その他の生産資源や、投入財、知識、金融サービス、市場及び高付加価値化や非農業雇用の機会への確実かつ平等なアクセスの確保などを通じて、女性、先住民、家族農家、牧畜民及び漁業者をはじめとする小規模食料生産者の農業生産性及び所得を倍増させる。
―この時代の東南アジアでは、中国商人や日本商人が特産品を持ち込みみ、ヨーロッパ商人がアメリカや日本から運び込んだ銀で買い付けるようになっている。
日本人も東南アジアに進出していたんですね。
―そうだね。今みたいにバックパッカーとしてではなくて、気候の寒冷化にともなう飢えから逃れるために移住した人もいたようだ。
日本人は現地でどんな生活をしていたんですか?
―東南アジアの王国で兵隊として雇われたり、ビジネスをしたり。ほかにヨーロッパ諸国などによって奴隷として売られた人もいたようだ。
ちなみに、新大陸原産のジャガイモがジャカルタから日本にやって来たのはこの時代のことだ。
ジャガイモは、その毒性もあってほとんどの地域で「食べ物とは思えない」と避けられたけど、どんな土地でもよく育つので、次の時代にかけて「飢饉のときに命を救う野菜」として評価されるようになっていくようになる。
「日本人奴隷」ですか…。
―それを防ぐために日本の政権は「鎖国」に踏み切ったという見方もできる。
そんな中、東南アジアでは特産品のスパイスがヨーロッパに輸出されてヒット商品となっている。
スパイスは料理に使うんですか?
―そうだよ。昔は冷蔵庫がないから肉や魚の保存につかったり、薬としても重宝されたんだ。
―特に独特な風味をもつクローブは香料諸島でしか産出されなかった。
貿易がブームになると、各地でモノの流れをコントロールした支配者が現れそうですね。
―そうだね。
各地の王様は内陸の特産品を港に集めたり、大規模な田んぼを支配下におさめたりして、ビジネスしやすい環境を整えていった(例:ビルマ、タイ)。
王様のまわりには日本人や中国人の相談役が集められ、ヨーロッパから輸入した銃や大砲で武装していたよ。
インドはモンゴル人の影響は受けなかったんですよね?
―いや、インドも草原地帯の動向と無縁ではなかったんだ。
インドの北のほうでは、モンゴルの建国者の子孫の建てた国が続いていた。しかし、勢力争いに敗れた王様の一族が北インドに逃げ、今のデリーという町を都にして新しい国をつくった。
この国は今ではムガル帝国と呼ばれるよ。
インドの宗教といえばヒンドゥー教ですが、ムガル帝国は何教ですか?
―イスラーム教徒だ。
インドを支配しようと思ったら多数派はヒンドゥー教徒だから、支配するには工夫が必要だよね。そこで、有力なヒンドゥー教徒の大物をひいきしたり、税を免除したりしている。
現実的ですね。
―そうだね。
イスラーム教の「人間はみな平等」という考えの影響も受けて、シク教という新しい宗教も生まれたよ。ターバンとヒゲが特徴的な格好の宗教だ。
ムガル帝国はしだいに南へと支配エリアを広げていくけど、南インドは当時空前の貿易ブームだ。
南インドにあったヒンドゥー教の王国は “お隣さん” の東南アジアや西アジアとの貿易で、莫大な利益をたたき出している。
当時の南インドにはポルトガル王国やオランダの商人もやって来て、貿易のために頑丈な基地をつくっているね。
アラビア半島から大量の馬を海上輸送(今年度のセンター試験世界史B(④は「輸出」ではなく「輸入」なので誤り))して、権勢を誇った。
インドは何を売っていたんですか?
―熱帯性のコショウや、暖かくある程度の降水量のある地域を好む綿花からつくられる織物だ。
インドの中央部のデカン高原には、レグールという玄武岩でできた土が分布していて、綿花の栽培に適しているよ。
西アジアのほうはどんな感じですか?
―この時代にはトルコ人の建てたオスマン帝国という国が、地中海からインド洋にまたがる巨大な国に成長している。
当時、一大ブームとなっていた海の貿易で莫大な利益を稼ぎ出し、豊かなエジプトも獲得して栄えるよ。
オスマン帝国の皇帝は、イスラーム教徒の多数派のリーダーである「カリフ」の位も兼ね、聖地メッカを守ることで西アジアだけでなく世界中のイスラーム教徒から尊敬される存在になったんだ。
強さの秘密はなんだったんですか?
―宗教がちがっても認める度量の広さと、最新鋭の大砲や銃を装備した歩兵部隊が強さの秘密だ。
オスマン帝国はヨーロッパにも東から軍を進め、キリスト教徒の若者をこの部隊に取り立てたんだ。
バルカン半島に上陸したってことですか?
―そうだよ。
ドナウ川をさかのぼって軍をすすめていったんだ。
当時のヨーロッパの国々は互いにケンカばかりしていたから、オスマン帝国の進出にビックリしてしまったけど、ウィーンという大都市を占領するのには失敗してしまった。冬が迫り、雪が降っていたことも原因だった。
西アジアはオスマン帝国の独り勝ちの状態だったんですか?
―ううん、イランではイラン人の一派が大きな国を建て、海にも進出して貿易で利益を挙げている。オスマン帝国とも何度も戦っているし、当時海からやってきたポルトガル人とも戦って勝利している。
おなじイスラーム教徒の国なのにどうして中が悪いんですか?
―トルコ人とは言葉や文化に違いがあったということもあるね。
それだけでなく、イスラーム教のグループの違いも大きいよ。
そういえば、イスラーム教には多数派と少数派に別れた争いがありましたね。
―そうそう。オスマン帝国のほうは多数派のスンナ派だ。
イランの王様は、オスマン帝国との「違い」をハッキリさせようと、少数派のほうのシーア派を保護したんだ。その結果、今でもイランではシーア派が多いよ。教義や儀式のやり方にも、かなりの違いがあるんだ。
ちなみに、この時期のオスマン帝国の首都にできたのが、今では全世界に広まったカフェ。
そのコーヒーの噂はヨーロッパにも広まり、次の時代にはフランスやイギリスにもカフェ(コーヒーハウス)がつくられるようになっていく。
でもそのコーヒーは、やがて原産地である熱帯地域がヨーロッパ諸国に植民地化されると、しだいに人々の暮らしを苦しめる存在にもなってしまう。
現在ではアンバランスな取引をなくすために、さまざまな改善策が講じられつつある。
目標 10.a 世界貿易機関(WTO)協定に従い、開発途上国、特に後発開発途上国に対する特別かつ異なる待遇の原則を実施する(⇒S&D)。
* * *
【4】「ヨーロッパ諸国の海外進出」はアフリカの人々や生態系にどんな影響を与えたか?
目標 15.5 自然生息地の劣化を抑制し、生物多様性の損失を阻止し、2020年までに絶滅危惧種を保護し、また絶滅防止するための緊急かつ意味のある対策を講じる。
目標 15.7 保護の対象となっている動植物種の密猟及び違法取引を撲滅するための緊急対策を講じるとともに、違法な野生生物製品の需要と供給の両面に対処する。
アフリカはヨーロッパ人の海外進出の影響を受けましたか?
―めちゃめちゃ受けている。
アメリカ大陸の3K(キツイ、キタナイ、キケン)の仕事の労働力として、沿岸から数多くの住民が連れだされたんだ。
誰が積み出したんですか?
―アフリカの西のほうの沿岸の王様たちだ。
内陸から別の民族を捕まえてきて、ヨーロッパの商人に売ったわけだ。
これをはじめに始めたのはポルトガル王国。
ポルトガルは奴隷を運ぶだけで莫大な利益を上げ、のちにスペインやオランダ、イギリスなどの国々もマネし始めるよ。
アフリカには王国が意外とあるんですね。
―文字による記録があまりないから詳しいことがわかっていないだけで、われわれが思い込んでいるよりもずっと社会は複雑だ。
王様は特産物を海に運びだし、その貿易ルートは遠く中国ともつながっていた。特産品は金(ゴールド)や象牙(ぞうげ)だ。沿岸の港町があまりに栄えたものだから、ヨーロッパからやって来たポルトガル人や、北のほうのアラブ人やイラン人のターゲットになるよ(注:アラブ人による奴隷貿易)。
アフリカも貿易ブームとは無縁ではなかったんですね。
―そうだね。
サハラ砂漠を越えるラクダ貿易は昔から盛んだったよね。この時代にもサハラ砂漠を流れる川の周りに、貿易をコントロールした王国(注:ソンガイ王国)が栄えるよ。
でもその後、この利益に目をつけたサハラ砂漠の北はモロッコの王様に攻撃されて滅ぼされてしまった。
アフリカの北のほうはどんな感じですか?
―はじめのうちはオスマン帝国に従っていたけど、しだいにその土地の王様の支配に変わっていく。
なお、この時期のヨーロッパのことを日本では「大航海時代」というよ。
冒頭の説明のとおり、気候が寒冷化したことが背景にあるんでしたね。
―そうそう。
森林が減り、ブドウや小麦の生産も大変になった。
どうしてそんなことわかるんですか?
―当時はもちろん温度計なんてないからね。木の年輪を読んだり、教会が付けている地元の人の誕生やお葬式に関わる記録をみたり。あと、風向きや流氷の様子について記した文書を探す方法がある。
それに当時描かれた絵を手がかりにする場合もあるね。以前は雪なんてほとんど積もらなかったところに雪がが積もっていたりなんてことがある。
農民の絵を描いた有名な画家の作品。当時の風景がわかる。
そうなると、人々の生活も厳しくなりそうですね。
―そうだね。
こういう寒い気候を操っているんじゃないかと疑われた人は「魔女」というレッテルを貼られ、いわれのない罪で処刑されていったことがわかっている(注:魔女狩り)。
そんな中、西ヨーロッパはアジアやアフリカに活動エリアを広げたんですよね。
―そうそう。
アメリカではもともとあった国々を滅ぼし、支配下に置いた。
でもアジアには大きな国々があって貿易で栄えていたから、ヨーロッパが支配できたのは各地の貿易の拠点に過ぎないよ。
本格的な支配はまだなんですね。
―そうだね。でもこの時代のヨーロッパ人は、今まで知らなかった知識や情報に大きな衝撃を受け、考え方もガラっと変わっていくことになるよ。
数学の知識を使って世の中の様々な法則を表現し、新しいテクノロジーを生み出そうとする動きも盛んになった。絵や文学のテーマも宗教的なものから社会的なものへと変わっていたよ。
現実的な考え方になっていったわけですね。
―そうそう。ヨーロッパはとっても狭いわけだけど、各地で国による「まとまり」がつくられていって、王様の力が強まっていったんだ。
でも、国の力を強くするにはビジネスの成功がとっても大切だ。王様は「お気に入り」の商人(注:特権商人)と結びついて、どうしたら強い国がつくれるか考えた。
王様は、その国では「自分が一番えらい」ということを主張したかったわけですよね。
―でも、国民のほとんどはキリスト教の信者だ。
だから、人々の支持を集めるには「王様はキリスト教を守っている」というアピールが大切だ。
でも、伝統的にキリスト教は、西ヨーロッパではローマの教会、東ヨーロッパではコンスタンティノープルの教会が、それぞれいちばん強い権力をもっていたよね。
でもすでにコンスタンティノープルの教会を守っていた東ローマ帝国は、イスラーム教徒の国(注:オスマン帝国)によって滅んでいる。
今度はロシア人の王様が、コンスタンティノープルの「保護者」を称するようになっていった。
東と西の境目にあたるポーランドは「ローマの教会」を保護し、当時のヨーロッパで最も広い国に発展していた(注:ヤゲウォ朝)。
一方、ローマの教会の保護者は伝統的には「神聖ローマ帝国」の皇帝であったわけだけど、当時の西ヨーロッパではそれが気に食わないフランスやイギリスの王様も力を伸ばしていた。
「神聖ローマ帝国」の「ブランド」が低下していたわけですね。
―神聖ローマ帝国の国内でも、帝国の支配に反対する領主も増えていたんだ。
しだいに領主たちは、「ローマの教会」の主張が「キリスト教ほんらいの考えからそれている!」と主張する新説(注:ルター派)を支持し、「ローマの教会」グループから抜けようとする動きを進めていった(注:宗教改革)。
え、そんなこと平和的にできるものですか?
―もちろん、そうはいかない。
その後、西ヨーロッパ各地で血みどろの「ヨーロッパ大戦」が繰り広げられたんだ(注:三十年戦争)。
「宗教の争い」のようにみえるけど、実際には「国と国の争い」という面が大きい。「ローマの教会」の言うことを聞かずとも、「自分の国のことは自分で決めたい」王様が増えていたんだ。
気候をみてみると太陽活動が弱かった時期にあたり、気候がかなり冷え込んでいたこともわかっている。
結果的にこの時代には、イギリスでは「イギリスの国王をトップとする独自の教会」(注:イギリス国教会)がつくられ、事実上「ローマ教会を中心とするヨーロッパ」から抜けてしまった。
イギリスは寒さをしのぐためにカブをオランダから輸入し、狭い土地で効率の良い農業を行うシステムの改良がおこなわれていった(注:農業革命)。
イギリスの人たちは、大変ながらも食料生産をアップさせるための工夫をしていたんですね。
―そう。それにより余裕ができると、この時代に活躍した「科学的な考え」を打ち出した思想家(注:フランシス・ベーコン)の業績とともに、次の時代には「大きな飛躍」を迎えることになる。
人間が、科学を応用した技術によって、積極的に自然をつくり変えていこうとするマインドが高まっていくことになるんだ。
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