■アジア、アフリカ、ラテンアメリカにおける自立を目指す動き
世界恐慌の影響により、帝国主義諸国がブロック化を進める一方、アジア地域では依然として貿易関係が続いていた(アジア間貿易)。日本と中国、インドとの間には、紡績業をめぐる貿易摩擦も起きていた。
東アジア
中国では、蒋介石が1928年に北伐を完遂し、中華民国国民政府が全域を統一する形となった。中国は1930年までに関税自主権を回復し、財政基盤も強化した。
日本が満洲への進出を進めた後も、沿岸部を中心とする工業地帯において、軽工業製品の自給をほぼ達成した。
アジアにも1930年代には消費社会がひろがり、大衆文化の裾野が広がった。東京、台北、京城、天津、上海などには、欧米風のデパートが建設され、宗主国と植民地、欧米とアジアの違いを超えて共通する特徴を備えた都市景観が普及していった。
しかし、世界恐慌の影響は、アジアの人々にもおよんだ。
日本では賃金が引き下げられ、高橋財政による復調もあったが、失業者が生み出され、労働争議は1930年代前半に激増した。とくに農村部の困窮ははなはだしく、農産物の価格の下落は深刻だった。東北地方では凶作が続き、欠食児童や女性の身売りが相次いだ。小作争議も1930年台前半に激増した。
労働者や農民の中には、大衆運動に参加し、政治的な主張を展開するものも現れた。
東南アジア
東南アジアでも、シャムが立憲君主制となり、近代国家を形成していった。1939年には国号をタイに改称している。
南アジア
インドは、イギリスに対する債務えを背負いながらも、ガンディーの抵抗運動が大衆の支持のもとで進められた。ガンディーはイギリスに留学し、若くして弁護士資格をとるほどのエリートであったが、1930年の塩の行進のころの風貌は、まるでヒンドゥー教の行者を彷彿とさせるものであり、インドの大衆のみならず、世界各地の人々の関心をひいた。
1935年の新インド統治法は、要求した自治拡大とは程遠いものであったため、インド人のイギリスに対する不満は高まった。
西アジア
中東では、20世紀に入ると、石炭に代わる石油の産地としての重要性が高まった。まずペルシアの石油に目をつけたイギリスは、石油会社を設立してこれを支配下においた。その一方で、パフレヴィー朝は近代国家の建設をすすめ、1935年にはイランと改称した。
サウード家のアラビア、すなわちサウジアラビアの石油開発にはアメリカ合衆国の石油資本が手を伸ばし、その後もアメリカとの蜜月を深めていった。
イギリス軍の占領の続いていたエジプトは1922年に王国としての形式的独立が認められた。その一方で、イスラーム主義を掲げた運動が、経済成長の恩恵に預かれなかった人々の間で支持を集めた。
ラテンアメリカ
アフリカ
アフリカでは、植民地主義に対する抵抗運動も起きた。アフリカを植民地から解放し、将来的な統一を目指すパン・アフリカ主義の運動も、植民地の知識人を中心に盛んとなっているが、具体的な自治・独立にまでは至らなかった。しかし、パン・アフリカ運動は、カリブ海地域やアメリカなど、世界各地の黒人による運動に影響を与えた。
パン・アフリカ運動は、日本の動向とも絡み合う。日本が1918年にパリ講和会議人種差別撤廃案を提出した際に、黒人指導者が大きな期待を寄せたのだ。