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新科目「歴史総合」を読む 2-3-2. アジア・アフリカ・ラテンアメリカと大衆社会

■アジア、アフリカ、ラテンアメリカにおける自立を目指す動き

メイン・クエスチョン
第一次世界大戦後から世界恐慌前後にかけてのアジア、アフリカ、ラテンアメリカでは、どのような動きが起こっていたのだろうか?


 世界恐慌の影響により、帝国主義諸国がブロック化を進める一方、アジア地域では依然として貿易関係が続いていた(アジア間貿易)。日本と中国、インドとの間には、紡績業をめぐる貿易摩擦も起きていた。

資料 アジア間貿易
「19世紀末〜20世紀初頭の日本では、大阪を中心に面工業が発達しています。その原料の綿花は主に英領インドから輸入していました。宗主国であるイギリスでは綿糸の性質の違いからアメリカ綿の需要が高く、むしろインド綿の最大輸出先は日本だったのです。この交易で日本からインドに支払われたお金は、イギリスがインドに投資した鉄道や人件費の利払いとしてすべて吸い上げられていました。つまり、イギリス帝国の発展を大阪も支えていたということが見えてきます。」

(出典:秋田茂「国家の枠組みを超えた広域的な視点から人々の行動を探るグローバルヒストリー」『河合塾Guideline』2021年7・8月号、48-49頁)

 
東アジア

 中国では、蒋介石が1928年に北伐を完遂し、中華民国国民政府が全域を統一する形となった。中国は1930年までに関税自主権を回復し、財政基盤も強化した。
 日本が満洲への進出を進めた後も、沿岸部を中心とする工業地帯において、軽工業製品の自給をほぼ達成した。

 アジアにも1930年代には消費社会がひろがり、大衆文化の裾野が広がった。東京、台北、京城、天津、上海などには、欧米風のデパートが建設され、宗主国と植民地、欧米とアジアの違いを超えて共通する特徴を備えた都市景観が普及していった。

 しかし、世界恐慌の影響は、アジアの人々にもおよんだ。

 日本では賃金が引き下げられ、高橋財政による復調もあったが、失業者が生み出され、労働争議は1930年代前半に激増した。とくに農村部の困窮ははなはだしく、農産物の価格の下落は深刻だった。東北地方では凶作が続き、欠食児童や女性の身売りが相次いだ。小作争議も1930年台前半に激増した。

資料 世界恐慌の農家への影響
1929年(昭和4)10月、ニューヨーク株式取引所の株価暴落を契機に発生した世界恐慌の影響が、翌30年には日本に波及しました。アメリカ向け輸出生糸の価格下落による繭価の暴落が、農村や山村の養蚕農家を襲ったのです。福井県の養蚕戸数は、30年に約2万戸を数え、全農家の3割近くが養蚕業に携わっていました。30年は雪害を免れ養蚕農家が増産の意気込みをみせていたところへ、繭価の暴落が襲いかかったのです。
 さらに同年は、多くの農産物価格が下落し、秋に入ってついに米価が惨落しました。翌年にかけての米価は、白米1升が20銭にもならず、たばこ1箱とほぼ同じ値段であったといいます。また山村では木炭の価格低落、漁村では漁獲不振と魚価低落に苦しめられました。その結果、山村や漁村では小学校の欠食・欠席児童が増えつづけ、その対策として32年末から学校給食が開始されました。上級学校への進学者も激減し、大野中学や大野高女では32年度募集に志願者1名という事態に陥りました。農村社会では、比較的不況の影響が少ないとの理由から、都市の商工業や学校教員などの俸給労働者に対する反感がいっきに高まることになったのです。

(出典:『図説福井県史』より、https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/D19/D191.htm
左は米の生産量・価額の変遷、右は繭の生産量・価額の変遷


 労働者や農民の中には、大衆運動に参加し、政治的な主張を展開するものも現れた。


東南アジア


 東南アジアでも、シャムが立憲君主制となり、近代国家を形成していった。1939年には国号をタイに改称している。


南アジア

 インドは、イギリスに対する債務えを背負いながらも、ガンディーの抵抗運動が大衆の支持のもとで進められた。ガンディーはイギリスに留学し、若くして弁護士資格をとるほどのエリートであったが、1930年の塩の行進のころの風貌は、まるでヒンドゥー教の行者を彷彿とさせるものであり、インドの大衆のみならず、世界各地の人々の関心をひいた。
 1935年の新インド統治法は、要求した自治拡大とは程遠いものであったため、インド人のイギリスに対する不満は高まった。


資料 タゴール『ばあらたの岸辺』
「ここに来て あありや人も あなありや人も どらびだ人も しな人もーー さか ふんぬ ぽああた人も もんごる人も一つとなりぬ……母の高御座(たかみくら)に 来よ 疾く 吉祥(さちはひ)の瓶(かめ)は満ちたり 触るるものを みな 浄むてふ 今 ばあらたの 人多(さは)の 海の岸辺に」(アーリヤ人・非あーリヤ人その他の人々が、このインドという大海原に注ぎ込み一体となって溶け込んだ……みな急いで集まって来るがよい。母なるインドの戴冠式の時が来たのだ。)



西アジア

 中東では、20世紀に入ると、石炭に代わる石油の産地としての重要性が高まった。まずペルシアの石油に目をつけたイギリスは、石油会社を設立してこれを支配下においた。その一方で、パフレヴィー朝は近代国家の建設をすすめ、1935年にはイランと改称した。
 サウード家のアラビア、すなわちサウジアラビアの石油開発にはアメリカ合衆国の石油資本が手を伸ばし、その後もアメリカとの蜜月を深めていった。
 イギリス軍の占領の続いていたエジプトは1922年に王国としての形式的独立が認められた。その一方で、イスラーム主義を掲げた運動が、経済成長の恩恵に預かれなかった人々の間で支持を集めた。


ラテンアメリカ

資料 「アジア・アフリカに比べて良いスタート」
 
要するにラテンアメリカ主要国は、パクス・ブリタニカのもとに形成された全世界的な貿易・決済システムがもっとも円滑に機能した19世紀末から第一次世界大戦にかけての時期を、独立国として、しかも国内政治がかなり安定した状態でむかえることができたのである。この天で当時のアジア・アフリカ地域に比べれば格段に恵まれていた。(中略)
 さらに、ラテンアメリカ諸国が独立時に欧米各国と締結した通商条約は、中国や日本とは違い、領事裁判権や協定関税率制度を含まない平等条約であった。中国や日本の場合は、法制度が西洋とは別系統だという事情があったが、スペインから西洋の法制度を継承したラテンアメリカが相手では、治外法権を主張する理由がなかったのである。

(出典:高橋均『ラテンアメリカの歴史』山川出版社、1998年、36-37頁)


アフリカ

 アフリカでは、植民地主義に対する抵抗運動も起きた。アフリカを植民地から解放し、将来的な統一を目指すパン・アフリカ主義の運動も、植民地の知識人を中心に盛んとなっているが、具体的な自治・独立にまでは至らなかった。しかし、パン・アフリカ運動は、カリブ海地域やアメリカなど、世界各地の黒人による運動に影響を与えた。

資料 ガーベイ(ガーヴェイ)運動
1914年にマーカス・ガーベイによってジャマイカで結成された世界黒人地位改善協会(UNIA)に始まる黒人運動。1917年本部をニューヨークに移し、ガーベイ書記長のもとで19年までに全世界に30の支部をもち、当時世界最大の黒人新聞になった『ニグロ・ワールド』を発行した。ガーベイは中央アメリカを旅したのち、ロンドンでアフリカ黒人と交流し、白人のアフリカ侵略や植民地主義、人種的抑圧を知る一方、ブーカ・T・ワシントンの思想に傾倒した。UNIAの第1回大会(1920)で採択された「権利宣言」では、すべての黒人はアフリカの自由市民であり、民族自決権をもつべきであると主張され、アメリカの黒人差別にも攻撃的な抗議が加えられている。「アフリカへ帰れ」という中心スローガンは、1921年のUNIA第2回大会において、「アフリカ帝国」樹立宣言、ガーベイの臨時大統領就任、黒・赤・緑からなる国旗の制定、白人侵略者をアフリカから追放するための「アフリカ旅団」などの結成へと進展した。黒人の人種感情に触れる戦闘性と白人や混血黒人を敵とみなす敗北主義の同居するこの運動は、第一次世界大戦を契機として、南部農村から北部大都市へと移住し労働者化した、抑圧され、侮辱され、労働組合からも排除されていた都市下層の黒人大衆に広く受け入れられた。それは、上層の黒人を対象とした、白人や混血黒人により構成された既存の全国黒人向上協会や全国都市同盟への下層黒人の不満の表明でもあった。ガーベイは同胞をアフリカへ送るためにブラック・スター汽船会社をつくったが、こうした事業に手を染めるなかで、この運動は初期の急進主義を捨て、黒人のための社会的平等の闘争をしだいに放棄非難するようになる。1922年には、事業不振で汽船会社は破産し、ガーベイも郵便不正利用の罪で5年の刑に処せられた。2年の服役ののち出所したが、まもなく運動は分裂した。この運動は弱さを一面にもちつつも、その後の黒人の闘いのための精神的風土を培った。

(出典:日本大百科全書、https://kotobank.jp/word/ガーベイ運動-1522337
1924年のマーカス・ガーヴェイ(パブリック・コモンズ、https://ja.wikipedia.org/wiki/マーカス・ガーベイ#/media/ファイル:Marcus_Garvey_1924-08-05.jpg)

 パン・アフリカ運動は、日本の動向とも絡み合う。日本が1918年にパリ講和会議人種差別撤廃案を提出した際に、黒人指導者が大きな期待を寄せたのだ。

資料 日本の人種差別撤廃案提出と黒人たちの期待
「1918年11月、日本政府はパリ講和会議において人種差別撤廃を提出することを決定した。その理由としては、中国における日本の検疫の保護、アメリカやカナダにおける移民排斥問題の解決、国家としての体面などさまざまなものが挙げられるが、いずれにせよ人種平等という理念をアフリカや米国の黒人に適用させることについては全く想定されていなかった。しかし、それにもかかわらず黒人たちは、同案提出が自分たちに救済をもたらすものとして歓迎した。(中略)


(筆者注:以下は、リベリア代表団としてパリ講和会議に出席し、のちリベリア大統領となったC・D・Bキングが、フランスのクレマンソー大統領に、講和会議の公式記録に追加記載を求めて送った書案)

「アフリカ人として、また〔会議に〕出席する唯一の黒人として、私は、人種平等の問題に関する偉大で称賛すべき演説を行った、最も傑出し高貴な同輩、牧野男爵に対する心からの謝意を表明したく存じます。……牧野男爵と貴殿の偉大な国は、「人種平等」という大義を擁護しているという点において、人種排斥のもとで苦しんでいる無力な人種や人民ばかりでなく、文明の理想そのものと世界の将来的平和に対して多大な貢献をしています。故に……日本が非常に気高く主張している人種平等の理念が、国際関係の領域で最終的に支持され現実化されることを、静かな自信をもって、楽しみに待つものであります。」

(出典:荒木圭子『マーカス・ガーヴィーと「想像の帝国」—国際的人種秩序への挑戦』千倉書房、2021年、174頁)

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊