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10.2.3 合衆国憲法の制定 世界史の教科書を最初から最後まで

北アメリカの「13植民地」は、晴れて親分のイギリスから独立...できたはいいものの、これからどんなふうな国づくりをするべきかをめぐり、大論議が巻き起こる。

このまま13の植民地のゆる〜い連合を残すべきか?
それともいつリベンジを仕掛けてくるともわからないイギリスや周辺のスペイン植民地に対抗できるよう、強力な政府を残すべきか?

安全保障上の大問題だ。

自由になりたくて革命を起こしたんだから、なるべく各植民地が別個の「国」として自由にやっていけるのが理想ではある。

だが、理想は理想。

イギリスの脅威はなくなったわけではないし、元兵士や農民による反乱も怒る始末。
財政的にも、こうした警察・軍備を整えようにも限界はある。

そこで「強力な中央政府」をつくったほうがいいんじゃないかという動きが強くなって、1787年にフィラデルフィアの憲法制定会議でつくられたのがアメリカ合衆国憲法だ。

その中で各植民地は、大幅な自治を認められた「ステイト」((一部はコモンウェルスと呼ばれる))として扱われた。
日本語では「州」と訳されるけど、外交と通貨の発行権以外のほとんどの権限を持っていることから、「国」といってもいいレベルのもの。
「ステイト」があつまって「アメリカ合衆国」という連邦国家(ユナイテッド・ステイツ)がつくられるわけなので、「ステイト」には「国」ではなく「邦」という字があてられることもあるよ。ここでは「ステイト(州)」と表現するね。


合衆国憲法には「強力な中央政府」はつくるけど、その政府の力が強くなりすぎないようにする工夫がさまざまに盛り込まれている。
まず第一に、主権が人民(ピープル)にあることが明記された。人民主権で君主のいない共和政だ。

第二に、いくつもの自治を認められたステイト(州)が寄せ集まって構成するものの、全体として行動する場合には、中央政府が大きな権限を持つという連邦主義が採用された。

第三に、権力を3つに分散させるしくみが採用された。
まず、権力を執行する行政権大統領(プレジデント)がひきいる政府がにぎる。



そして、権力をどのように執行するべきかを決める立法権は、連邦議会がにぎる。


さらに、権力の執行を受けた人々を最終的にどう裁くかを決める司法権は(連邦)最高裁判所がにぎるという形になった。


これはまるで「じゃんけん」のような“三すくみ”となっていて、どこかが出過ぎると、どこかがツッコミをいれることができるという仕組みになっている。

たとえば、最高裁判所は大統領や州の政府、それに合衆国や州の法が「憲法に違反」しているかどうか判断することができる。その代わりに大統領は最高裁の判事を任命する権利を持っているし、連邦議会は最高裁の判事の不正に対し責任を問う裁判(弾劾裁判(弾劾裁判))を実施することができる。

また、大統領の不正に対し、連邦議会が責任を問う裁判を実施することができる。その代わり、大統領は連邦議会の法に対して拒否する権力を持つとともに、「こういう法がほしいんだよ」というメッセージ(一般教書)を議会に向けて発することができる。


「権力者は、権力を悪い方向に使いがち」という前提に立った、この三権分立の原則はこの時代においてはきわめて画期的だった。


ほかにも、政治と宗教を分けたり、軍隊のトップには軍人ではない人が就任するべきだとしたり(文民統制;シビリアン・コントロール)、連邦政府や各ステイト(州)が人権を奪うことのないような条項も明記された。


1789年にはこの憲法に基づき連邦政府が発足。
初代大統領にはワシントン(在任1789〜97年)が就任した。

戦後復興と国家建設に集中するため、同年に勃発したフランス革命には首を突っ込まず中立を守った。
「ヨーロッパのことに首をつっこまない」という原則は、基本的にのちの大統領にも受け継がれていくことになるよ。
中央政府の権限を強くした憲法を支持する連邦派と、批判的な反連邦派の対立があったものの、ワシントンのリーダーシップの下、連邦派のハミルトン(1755〜1804年)が財務長官、

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反連邦派の指導者ジェファソン


が外交を担当する国務長官に就き、バランスをとった。
のちに両者の派閥は政党を結成し、主張を戦わせるようになっていく。

首都はどのステイト(州)にも属さないワシントンにおかれた。「コロンビア特別自治区」として、どれか一つのステイト(州)に偏った国家運営がされないようにしたんだね。

これだけ大きな国で君主がいない共和政が実現したことは、国王だらけの当時のヨーロッパ諸国に甚大なインパクトを与えた。


でも一方、当時のアメリカ合衆国では、世界のほかの地域と同様に黒人奴隷制が公然とみとめられていたことにも注意したい。
アメリカは「黒人奴隷を公認する白人の共和国」だったのだ。

禁止されていたアパラチア山脈よりも西のエリアへの移住がみとめられるようになり、先住民のインディアンとの戦争も、激化していくことになるよ。



人々の自由や平等を明記した憲法の対象に、残念ながら黒人先住民のインディアン諸グループは含まれていなかったということだね。



ただ、アメリカ独立革命のかかげた「自由」や「平等」「ひどい政治への抵抗」といった考え方は、18世紀後半から19世紀初めに大西洋をぐるっと取り囲むエリアで起きた一連の騒乱に大きな影響を与えたことは間違いない。
たとえば、アメリカ大陸のほかの地域での先住民の抵抗運動(ペルーのコンドルカンキの乱)やスペイン・ポルトガルからの独立運動、イギリスに苦しめられていたアイルランドでの反乱、そしてフランス革命などなど。



イギリスで起きた産業革命など社会の飛躍的な変動に刺激される形で、人々の心を動かす「新しい価値観」が大西洋の両岸に広がっていたんだね。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊