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15.1.5 南アジア・西アジアの独立② 世界史の教科書を最初から最後まで

第二次世界大戦後、1950年代初めまでの西アジアの様子を見てみよう。

イラン

パフレヴィー朝の王様の支配下にあったイランは、第二次世界大戦中に「中立」を表明していたものの、イギリスとソ連軍が国内に駐留することを許した過去を持つ。

戦後になっても居座り続ける外国軍に対し反感が強まり、特にイギリス系の企業がイランでとれる石油を独占していたことへの批判が高まった。

1951年に政権についた〈モサデグ〉(在任1951〜1953年)は民衆の声にこたえて、イギリス系の石油会社の国有化を断行。

しかしイギリスとの関係がわるくなることを恐れた国王〈パフレヴィー2世〉は、クーデターでモサデグを追放し、民族運動はおさえこまれることとなった。
この追放劇の背後には、アメリカの諜報機関であるCIAが関与していたのは、もはや公然の秘密となっている。


アラブ諸国

エジプト、シリア、イラク 、レバノン、トランスヨルダン(1949年〜ヨルダン=ハーシム王国)、イエメン、サウジアラビアの、アラビア語を話すアラブ人たちの国々は、1945年3月にアラブ連盟を結成(下の地図の濃い緑色の国々)。

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アラブ人がまとまって行動することで、欧米の力を排除しようとするものだったけれど、メンバー間には当初から温度差があった。

そんな中、さっそく重大な問題が勃発。

イギリスが委任統治していたパレスチナが、期間終了を機にイギリスの手からはなれることになったのだ。

史料 国際連盟憲章第22条...これまでの支配国の統治を離れた植民地や領土で、近代世界の苛烈な条件のもとでまだ自立しえない人々が居住しているところに対しては...資源や経験あるいは地理的位置によってその責任を引き受けるのに最も適し、かつそれを進んで受諾する先進国に委任し...後見の任務を遂行させる...。
(『世界史史料10』岩波書店)


1945年5月に発足した国際連合は、1947年にパレスチナ地域をアラブ人エリアとユダヤ人エリアに分割すればいいんじゃないかと提案。
当時のユダヤ人はドイツの迫害を受け、国際世論もユダヤ人に同情的だった。

これを受け入れたユダヤ人は1948年にイスラエルの建国を宣言。ユダヤ人のグループも一枚岩ではなく、イスラエルの建国を特に推進したのは「シオニスト」(パレスチナにユダヤ人の民族国家をつくろうとする人々)が中心だった。



しかしアラブ人は「分割案」を受け入れず、イスラエルとの間に戦争が勃発した。
これを第一次中東戦争パレスチナ戦争)というよ。パレスチナに、欧米の後押しするユダヤ人の国が生まれるのを阻止するため、アラブ連盟がパレスチナ人側に立って戦った戦争だ。

1949年6月、国際連合が調停することでイスラエルは独立を確保したものの、100万人以上のアラブ人(パレスチナのアラブ人を「パレスチナ人」ともいう)が難民となった。
このパレスチナ問題はその後も西アジアにおける大きな不安定要因となっていく。

パレスチナ戦争中の1948年12月には世界人権宣言が制定。1950年には国連の勧告によりパレスチナ難民を救済するための組織ができ、1951年に「難民の地位に関する条約」が外交会議で定められた





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