■55年体制と日本
1950年代の日本人の多くは、いまだに第一次産業に従事していた。
資料 産業別人口の推移
1952年、日本は主権を回復した。
しかし、国内政治においては、各党内部において、講和への是非や再軍備への是非をめぐって対立が起きていた。
アメリカ合衆国の世界政策を支持する保守勢力(自由党と日本民主党)と、それを批判する革新勢力(日本社会党)の間に大きな対立が生まれた。
日本における革新勢力の伸張をおそれたアメリカ合衆国や財界は、自由党と日本民主党の合同による自由民主党(自民党)の結成を後押しした。これを保守合同という。
日本においては、これ以降自由民主党が38年にわたって、国会の議席数で優位を維持し、民主的な手続きを経ながら長期政権を実現させた。
一方、社会党は、労働組合の支援を得て野党第一党の位置を占め続けたが、アメリカ合衆国の政策に肯定的であった自由民主党と対立した(社会党からは1960年1月に民主社会党(のち民社党)が分かれている)。なお、日本共産党は第6回全国協議会において武装闘争を放棄している(参照:警察庁『警備警察50年』ウェブサイト、日本共産党ウェブサイト)。
保守(自由民主党)対革新(社会党など)の勢力比率はおよそ2対1であり、グローバルな冷戦体制が反映されたこの国内政治体制を「55年体制」と呼ぶ。
自民党は石橋湛山首相(1956.12.23〜1957.2.25)が病気のため退陣すると、タカ派の岸信介内閣(第一次1957.2.25〜1957.7.10、改造1957.7.10〜1958.2.20、第二次1958.6.12〜1959.6.18、改造1959.6.18〜1960.7.19)が発足した。
自由民主党と社会党は1960年の日米安全保障条約の改定・強化をめぐり、するどく対立した。
日本社会党は、日米安保条約改定によって、アメリカ合衆国との軍事的関係が強化されることに反対したのである。1959年3月には、日本労働組合総評議会、社会党、共産党などにより安保改定阻止国民会議が結成され、4月15日には第一次統一行動が起こされた。
当時はいまだに「戦時」の記憶の色濃い時期であったし、冷戦の激化は、大戦の再来という不安や恐怖を人々に呼び起こすには十分であった。
資料 黒澤明『七人の侍』(1954年)
占領が終結したことで、戦時に関する言表や戦記、アメリカに対する批判的な姿勢をもつ言論、作品も発布用されるようになった。
資料 映画 関川秀雄『ひろしま』(1953年)
岸信介内閣は、安保闘争とよばれる激しい反対運動のなか、改定の姿勢を崩さなかった。1960年6月19日にはアイゼンハワー大統領の訪日が決まり、この日までの批准が目指された。5月19日には国会前で10万人規模の請願デモが実施されたが、この日未明から翌日にかけて衆議院で自民党による単独採決がなされた。
6月に入り、4日に多数のストライキが起こされたり、15日に全学連が国会に突入したりするなど(学生の樺美智子氏はこのときに死去)、直接行動が実行される中、1960年6月19日に参議院で議決がなされないまま条約は自然承認となり、6月23日に批准書が交換され、日米安保条約を改定した(新安保条約の発効)。それとともに日米行政協定の後継として日米地位協定が発効された。
なお、この闘争と並行し、1959年〜1960年にかけて三池炭鉱で争議が起きている(三池争議)。
一方、日本の主権回復後にも、沖縄は依然としてアメリカの統治下のもとに残された。沖縄ではアメリカ軍の基地のため、土地が接収され、通貨や行政制度など、日本国内の制度外に置かれた。
アメリカ合衆国が1965年にベトナム民主共和国の北爆を始めると、沖縄の米軍基地からも、爆撃機が出動した。しかし、このベトナム戦争は泥沼化し、ベトナムからの撤退を含む和平が構想されるようになった。また、1971年にアメリカは中華人民共和国に国連の代表権を与え、中華人民共和国との関係改善を進めていった。このため、アメリカによる沖縄の重要性は低下した。
そんななか、佐藤栄作内閣はアメリカ政府と交渉し、1972年に沖縄は日本に復帰することとなった。しかし沖縄県に置かれた米軍基地は、本土復帰後にも依然として残された。
■冷戦と日本のアジア外交
日本はサンフランシスコ平和条約で翌年の主権の回復が認められたが、会議に出席しなかった東側諸国やアジア諸国との関係は、個別に改善していく必要が生じた。
1956年に鳩山一郎内閣は、日ソ共同宣言に調印し、両国の国交は回復した。ソ連の支持が得られたことから、日本は同年に国際連合に加盟した。
東南アジア諸国との間では、1950年代末までに、賠償問題をほぼ解決させていった。
韓国との関係
韓国との間には、1965年に佐藤内閣が日韓基本条約を朴正煕政権との間に締結した。日本は経済協力を行うかわりに、韓国は植民地支配に関わる請求権を放棄した。
資料 日韓漁業協定 こちら
資料 在日韓国国民の法的地位及び待遇に関する協定 こちら
なお、日本とアジアとの関係性は、第三世界の運動の影響も受け、アフリカも加えたより広い視野のもとで検討されるようにもなっていった。
1956年12月にはインドのニューデリーで第一回アジア作家会議が開かれ、1958年にはウズベキスタンでアジア・アフリカ作家会議が開かれた。