見出し画像

新科目「歴史総合」を読む 3-1-5. 冷戦下の日本とアジア

■55年体制と日本

サブ・クエスチョン
日本の国内政治に、冷戦体制はどのような影響を与えたのだろうか?

 1950年代の日本人の多くは、いまだに第一次産業に従事していた。

資料 産業別人口の推移

(出典:https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0204.html

資料 農村文化運動について
1950年代には職場や地域の人々による集団的な文化運動が広範に展開されていた。いわゆる「無名」の人々が集まって詩を書き,ガリ版印刷のサークル詩誌を作り,コーラスや美術,演劇を行い,学習サークルや生活記録のサークルを組織していた。文化が売るための文化となってからすでに久しい現在,私たちはこうした「文化」がかつて存在したことをうまく思い描くことができなくなっている。私たちは完成品としてパッケージ化された文化商品をいくらかの金と交換に私有し消費する文化消費者であり、現在の文化的行為とは,貨幣に媒介される他のさまざまな消費行動と等価の一項目であるにすぎない。私たちはもはやそうでない形で文化を思い描く能力を失っている。が,50年代当時の文化運動は,文化の生産者と消費者とが役割として固定され遠く隔てられてしまうことのない最小回路を生み出し,そこで人々は自分たち自身を表象し,その表象を通して繰り返し自らを生み出していた。文学史はこの時代の運動を登録せず,従って当然かつてそんな運動が存在していたという記憶は私たちから欠落しているが,それは偶然の言い落としではあるまい。

(出典:佐藤泉「1950年代文化運動の思想― 集団創造の詩学/政治学」、『立命館法學』 2010年(5・6), 2170-2196,、2010年、http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/10-56/satoizumi.pdf


資料 人生雑誌『葦』(1955 年 11 月)への投稿
「学校へ行きたいと思う心がどんなに強くて も,家人の反対で夜学にも行け」なかったあ る読者(会社員,一五歳)は,かつては「何 て不合理な世の中なんだろう,どうしてうま い具合にいかないんだろう」という思いに苛 まれつつも,のちに「読書が何よりの勉強 で,読書する事によつて,学校では学べない 事迄,はっきり知る事ができるようにな」り,「学校へ行かなくとも自信を持つ様にな」ったことを記している。

(出典:福間良明『「働く青年」と教養の戦後史 : 「人生雑誌」と読者のゆくえ』筑摩選書、2017年、57頁)「かつて「人生雑誌」「人生記録雑誌」とよば れる雑誌が広く読まれた時代があった。それは 戦後復興にひとつの区切りがついて,この国が 新たな経済発展を遂げようとしていた 1950 年 代から 60 年代半ばである。人生雑誌の主要な 読者層は,家計の事情で大学はおろか高校への 進学もかなわず,義務教育を終えて集団就職な どで農村から都市に流入して「働く青年」たち であった。彼ら,彼女らは「勤労青年」ともよ ばれたが,今日ではこうした言葉は概念的な意 味以上の現実感が失われている。そして,働く 青年が読者層となった人生雑誌とよばれるよう な雑誌も見当たらない。今は馴染みのない人生 雑誌とはどのような雑誌であったのだろうか。 本書を頼りに概観しておこう。 人生雑誌の代表的なものは,山本茂實によっ て 1949 年 1 月に創刊された『葦』,文理書院が 1952 年 1 月に創刊した『人生手帖』である。 山本は『あゝ野麦峠』(1968 年,朝日新聞社) の著者として知られている。また,『葦』の編 集部には,「東京空襲を記録する会」を立ち上 げ,『東京大空襲・戦災記』(1973 - 74 年,東京 大空襲を記録する会)を編纂し,『東京大空襲』(1971 年,岩波新書)を著した早乙女勝元も在 籍していた。 『人生手帖』を刊行した文理書院は,寺島文 夫が 1946 年に創業し,白柳秀湖,田中惣五郎, 柳田謙十郎,岡邦雄などの人生論,社会科学の 書物を出版していた。その文理書院の『人生手 帖』の編集部には,のちに大和書房を創業し, みずからも古代史の研究書を著した大和岩雄が 加わったが,大和はもともと『葦』編集部に在 籍していた。 このような編集者たちの手による人生雑誌 は,1950 年代半ばに隆盛期を迎える。誌面に は,働く青年たちの煩悶を綴った内省的な主題 の手記や投稿が多く掲載された。同時に,「生 き方」「読書」「社会批判」を主題として,柳田 謙十郎,戒能通孝,杉捷夫,野間宏,亀井勝一 郎といった哲学,政治学,文学などの領域の知 識人の論考も掲載された。それが,学歴エリー トではない働く青年たちに読まれていたのであ る。当時,『中央公論』の発行部数が 12 万部,
『世界』が 10 万部,『改造』『新潮』が 5,6 万 部であったのにたいして,『葦』や『人生手帖』 の発行部数は 8 万部にのぼっていた。」(出典:小林直毅
「福間良明著『「働く青年」と教養の戦後史 : 「人生雑誌」と読者のゆくえ』」、『大原社会問題研究所雑誌』723、83-87頁、2019年)


 
 

 1952年、日本は主権を回復した。

 しかし、国内政治においては、各党内部において、講和への是非や再軍備への是非をめぐって対立が起きていた。

 アメリカ合衆国の世界政策を支持する保守勢力(自由党と日本民主党)と、それを批判する革新勢力(日本社会党)の間に大きな対立が生まれた。
 日本における革新勢力の伸張をおそれたアメリカ合衆国や財界は、自由党と日本民主党の合同による自由民主党(自民党)の結成を後押しした。これを保守合同という。

サブ・サブ・クエスチョン
岸信介は「戦後」日本の政治は、どのようなものであるべきと考えていたのだろうか?

資料 岸信介「新保守党論」

 
岸が欧州視察に出かけた一九五三年(昭和二八)五月、雑誌『改造』に発表された「新保守党論」は、岸の描く構想のエッセンスをよくあらわしている。岸はいう。
(引用)
 正常な議会政治を運営するには、保守、革新のふたつの政党がなければならない。革新政党にしても──共産党はいかなる強弁をしようとも全くの独裁であるから、これに対してははっきりした線を引いて──右の方にも相当な基盤をもつような国民政党になっていなければならない。保守政党も暴力主義、議会否認の思想に対しては、はっきりした一線を引いて、左のふところを開いていなければならない。そして両方の──たとえば保守政党の一番左にいるものは、革新政党の一番右にいるものよりも、むしろ左にいるといった具合に各政党が交錯していなければならないのではないか。保守政党は、労働者あるいは勤労者階層に対しても社会政策的見地に立って相当なことをやらなければならない。……ティピカルな資本主義、自由主義で、すべてのものは自由競争に任すのではなく、全体としてひとつの計画性をもたねばならぬという考えをしなければならない。
(引用終わり)

(出典:姜尚中・玄武岩『興亡の世界史 大日本・満州帝国の遺産』講談社、2010=2016年、Kindle Location No. 2395)


 日本においては、これ以降自由民主党が38年にわたって、国会の議席数で優位を維持し、民主的な手続きを経ながら長期政権を実現させた。
 一方、社会党は、労働組合の支援を得て野党第一党の位置を占め続けたが、アメリカ合衆国の政策に肯定的であった自由民主党と対立した(社会党からは1960年1月に民主社会党(のち民社党)が分かれている)。なお、日本共産党は第6回全国協議会において武装闘争を放棄している(参照:警察庁『警備警察50年』ウェブサイト日本共産党ウェブサイト)。

 保守(自由民主党)対革新(社会党など)の勢力比率はおよそ2対1であり、グローバルな冷戦体制が反映されたこの国内政治体制を「55年体制」と呼ぶ。

 自民党は石橋湛山首相(1956.12.23〜1957.2.25)が病気のため退陣すると、タカ派の岸信介内閣(第一次1957.2.25〜1957.7.10、改造1957.7.10〜1958.2.20、第二次1958.6.12〜1959.6.18、改造1959.6.18〜1960.7.19)が発足した。

 自由民主党と社会党は1960年の日米安全保障条約の改定・強化をめぐり、するどく対立した。


 日本社会党は、日米安保条約改定によって、アメリカ合衆国との軍事的関係が強化されることに反対したのである。1959年3月には、日本労働組合総評議会、社会党、共産党などにより安保改定阻止国民会議が結成され、4月15日には第一次統一行動が起こされた。

 当時はいまだに「戦時」の記憶の色濃い時期であったし、冷戦の激化は、大戦の再来という不安や恐怖を人々に呼び起こすには十分であった。

資料 黒澤明『七人の侍』(1954年)

 占領が終結したことで、戦時に関する言表や戦記、アメリカに対する批判的な姿勢をもつ言論、作品も発布用されるようになった。



資料 映画 関川秀雄『ひろしま』(1953年)






 岸信介内閣は、安保闘争とよばれる激しい反対運動のなか、改定の姿勢を崩さなかった。1960年6月19日にはアイゼンハワー大統領の訪日が決まり、この日までの批准が目指された。5月19日には国会前で10万人規模の請願デモが実施されたが、この日未明から翌日にかけて衆議院で自民党による単独採決がなされた。

 6月に入り、4日に多数のストライキが起こされたり、15日に全学連が国会に突入したりするなど(学生のかんば美智子氏はこのときに死去)、直接行動が実行される中、1960年6月19日に参議院で議決がなされないまま条約は自然承認となり、6月23日に批准書が交換され、日米安保条約を改定した(新安保条約の発効)。それとともに日米行政協定の後継として日米地位協定が発効された。



 
 なお、この闘争と並行し、1959年〜1960年にかけて三池炭鉱で争議が起きている(三池争議)。

 一方、日本の主権回復後にも、沖縄は依然としてアメリカの統治下のもとに残された。沖縄ではアメリカ軍の基地のため、土地が接収され、通貨や行政制度など、日本国内の制度外に置かれた。

 アメリカ合衆国が1965年にベトナム民主共和国の北爆を始めると、沖縄の米軍基地からも、爆撃機が出動した。しかし、このベトナム戦争は泥沼化し、ベトナムからの撤退を含む和平が構想されるようになった。また、1971年にアメリカは中華人民共和国に国連の代表権を与え、中華人民共和国との関係改善を進めていった。このため、アメリカによる沖縄の重要性は低下した。

 そんななか、佐藤栄作内閣はアメリカ政府と交渉し、1972年に沖縄は日本に復帰することとなった。しかし沖縄県に置かれた米軍基地は、本土復帰後にも依然として残された。



■冷戦と日本のアジア外交

サブ・クエスチョン
日本は「先の大戦」とどのように向き合ってきたのだろうか?

資料 「70年談話」安倍晋三首相談話(2015年)
終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代 を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていまし た。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せまし た。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。 アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配の もとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地 化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争であ りました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。 戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地 経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。 その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決 しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日 本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に 築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、 戦争への道を進んで行きました。
そして七十年前。日本は、敗戦しました。
戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の 念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。(中略)
我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの 気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピ ンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。(後略)

http://nenkinsha-u.org/04-youkyuundou/pdf/abe_70nen_danwa150815.pdf


 
 
 日本はサンフランシスコ平和条約で翌年の主権の回復が認められたが、会議に出席しなかった東側諸国やアジア諸国との関係は、個別に改善していく必要が生じた。

資料 平和問題談話会 講和問題についての平和問題談話会声明(1950年1月15日)
声  明
 一年前、戦争の原因及び平和の基礎について共通の見解を内外に表明したわれわれは、講和及び講和後の保証に関する最近の問題について再びここに声明を発する。われわれにとって、この問題の重大性は誠に比類なきものであり、その処理の如何は、思うに、日本の運命を最後的に決定するであろう。戦争の開始に当り、われわれが自ら自己の運命を決定する機会を逸したことを改めて返省しつつ、今こそ、われわれは自己の手を以て自己の運命を決定しようと欲した。即ち、われわれは、平和への意志と祖国への愛情とに導かれつつ、講和をめぐる諸問題を慎重に研究し、終に各自の政治的立場を越えて、共通の見解を発表するに到った。連合軍による占領が日本の民主化に重要な刺戟と基礎とを与えたことは、恐らく何人もこれを森認するであろう。併しながら、今後における日本の民主化の一層の発展が日本国民自身の責任と創意との下においてのみ可能であることもまた疑いを容れぬところである。即ちそれは、日本国民が講和の確立を通じて世界の諸国民との問に自由な交通と誠実な協力との関係を樹立することを以て必須の条件とする。今や講和の確立及び占領の終結は一切の日本国民の切迫した必要であり要求である。  けれども講和が真実の意義を有し得るには、形式内容共に完全なものであることを要し、然らざる限り、仮令名目は講和であっても、実質は却って新たに戦争の危枚を増大するものとなろう。この意味に於いて、講和は必然的に全面講和たるべきものである。この全面講和を困難ならしめる世界的対立の存することは明らかであるが、かの国際軍事裁判に発揮せられた如き国際的正義或は国際的道義がなお脈々としてこの対立の底を流れていることは、われわれを限りなく励ますものである。更に日本がポツダム宣言を受諾して全連合国に降服した所以を思えば、われわれが全連合国との間に平和的関係の回復を願うは、蓋し当然の要求と見るべきものである。
 われわれの一般的結論は右の通りである。更にそれに関連して、われわれが真撃なる討論の末に到達した共通の諸点を左に略述するに先立ち、われわれが討論の前提とした二つの公理を指摘する必要を感ずる。即ち、第一は、われわれの憲法に示されている平和的精神に則って世界平和に寄与するという神聖なる義務であり、第二は、日本が一刻も早く経済的自立を達成して、徒らに外国の負担たる地位を脱せんとする願望である。
一、日本の経済的自立は、日本がアジア諸国、特に中国との間に広汎、緊密、自由なる貿易関係を持つことを最も重要な条件とし、言うまでもなく、この条件は全面講和の確立を通じてのみ充たされるであろう。伝えられる如き単独講和は、日本と中国その他の諸国との関連を切断する結果となり、自ら日本の経済を特定国家への依存及び隷属の地位に立たしめざるを得ない。経済的自立が延いて政治的自立の喪失の基藤となることは、論議を要せぬところであり、国民生活の低下は固より、また日本は自ら欲せずして平和への潜在的脅威となるであろう。われわれは、単独講和が約束するかに見える目前の利点よりも、日本の経済的及び政治的独立を重しとするものである。
二、講和に関する種々の論議が二つの世界の存在という事実に由来することは言を侯たない。併しながら、両者の間に一般的調整のための、また対日全面講和のための不断の努力が続けられていることは、両者の平和的共存に対するわれわれの信念を、更に全面講和に対するわれわれの願望を力強く支持するものである。抑々わが憲法の平和的精神を忠実に守る限り、われわれは国際政局の動揺のままに受身の態度を以て講和の問題に当るのでなく進んで二つの世界の調和を図るという積極的態度を以て当ることを要求せられる。われわれは、過去の戦争責任を償う意味からも来るべき講和を通じて両者の接近乃至調整という困難な事業に一歩を進むべき責務を有している。所謂単独講和はわれわれを相対立する二つの陣営の一方に投じ、それとの結合を強める半面、他方との間に、単に依然たる戦争状態を残すにとどまらず、更にこれとの間に不幸なる敵対関係を生み出し、総じて世界的対立を激化せしめるであろう。これ、われわれの到底忍び得ざるところである。
三、講和後の保障については、われわれは飴くまでも中立不可侵を希い、併せて国際連合への加入を欲する。国際連合は、少くともその憲章の示すところについて見れば、人類が遠い昔から積み重ねて釆た平和への努力の現代に於ける結晶であり、平和を祈る世界の一切の人々と共に、われわれもまたこれに多大の信頼と期待とを寄せるものである。第三回国際連合総会によって採択された「世界人権宣言」に見える如く、われわれが、そこに宣言せられた諸権利、特に社会的経済的権利を単に国内のみならず、実に国際的に要求し得るということは、われわれに新たなる勇気を与えるものである。中立不可侵も国際連合への加入も、凡て全面講和を前提とすることは明らかである。単独講和または事実上の単独講和状態に附随して生ずべき特定国家との軍事協定、特定国家のた めの軍事基地の提供の如きは、その名目が何であるにせよ、わが憲法の前文及び第九条に反し、日本及び世界の破滅にカを藉すものであって、われわれは到底これを承諾することは出来ない。日本の運命は、日本が平和の精神に徴しつつ、而も毅然として自主独立の道を進む時のみ開かれる。(後略)

出典:http://www.isc.meiji.ac.jp/~takane/lecture/kokusai/data/hmseimei.htm、太字は筆者による)


資料 吉田メッセージ(1950年4月、宮沢喜一蔵相秘書官の記録)
「日本政府はできるだけ早い機会に講和条約を結ぶことを希望する。そしてこのような講和条約ができても、おそらくはそれ以後の日本及びアジア地域の安全を保障するために、アメリカの軍隊を日本に駐留させる必要があるであろうが、もしアメリカ側からそのような希望を申出でにくいならば、日本政府としては日本側からそれをオファするような持ち出し方を研究してもよろしい。」
(宮沢喜一『東京―ワシントンの密談―シリーズ戦後史の証言・占領と講和〈1〉』中央公論社、1999年より(福永文夫『日本占領史1945-1952 ―東京・ワシントン・沖縄』中公新書、2014年、282-283頁、太字は引用者)


資料 在日イギリス大使の本国宛報告(1950年7月13日)
「〔吉田は〕朝鮮問題を不快に思っているようにも、憂慮しているようにも見えない。彼はこの戦争が短期的には日本経済を支えてくれると考えているらしい」

(『マッカーサーと吉田茂』下より。福永文夫『日本占領史1945-1952 ―東京・ワシントン・沖縄』中公新書、2014年、283頁、太字は引用者)


資料 ダレスと吉田首相との第一回会談(1951年1月25日)
ダレス
「三年前条約ができれば日本にとって今日にくらべようのないほど悪条件のものができたであろう。今日われわれは勝者の敗者にたいする平和条約をつくろうとしているのではない。友邦として条件を考えている。」
吉田「日本はアムール・プロプル〔自尊心をきずつけられずして承諾できるような条約をつくってもらいたい。平和条約によって独立を回復したい。日本の民主化を確立したい。セルフ・サポートの国になりたい。かような国になったうえで、日本は自由世界の強化に協力したい。」
ダレス「日本は独立回復ばかり口にする。独立を回復して自由世界の一員となろうとする以上、日本は自由世界の強化にどう貢献しうるのか。今、アメリカは世界の自由のために戦っている。自由世界の一員たる日本は、この戦いにいかなる貢献をしようとするのか。」
吉田「いかなる貢献をなすかといわれるが、日本に再軍備の意思ありやを知られたいのだろう。今日の日本はまず独立を回復したい一心であって、どんな協力をいたすかの質問は過早である。」(『調書』第二冊より。福永文夫『日本占領史1945-1952 ―東京・ワシントン・沖縄』中公新書、2014年、305-306頁、太字は引用者)

同夜 マッカーサーから吉田に
「自由世界が、今日、日本に求めるものは軍事力であってはならない。そういうことは実際できない。日本は軍事生産力を持っている。労働力を持っている。これに資材を供給し、生産力をフルに活用し、もって自由世界の力の増強に資すべきである」(上掲、283-284頁)


資料 岸信介の回顧(西ドイツの再軍備について)
「再軍備について社会民主党の領袖に会って聞いてみると彼等は、「……西ドイツが共産化し、独裁支配下におかれることは絶対に許すべからざることである。この立場からすると、今ドイツの置かれている国際環境は再軍備せざるを得ない、独立して再軍備せざるを得ない以上は強いものをつくるんだ」と断固として言い切っていた。
またアメリカについては、「アメリカの文化なんか決して尊敬していない。ドイツにいるアメリカ人のやっていることで目をそむけたくなるようなことはたくさんある。しかしドイツを復興させるためには、アメリカの経済力を利用しなければならない。だから反米、排米の感情を明らかにするようなことはしない」という調子である。
要するにドイツ人は日本人と比べて良識が発達しているというか大人だし、手練手管も相当なものだと感じた。このほか、アデナウアー内閣は保守党内閣であるが、労働者の住宅問題など社会保障政策に力を入れていることや、マーシャル・プランの金を、非常に重点的、計画的に使って事業している点などが印象に残った。
(出典:『岸信介回顧録』より)



 1956年に鳩山一郎内閣は、日ソ共同宣言に調印し、両国の国交は回復した。ソ連の支持が得られたことから、日本は同年に国際連合に加盟した。

 東南アジア諸国との間では、1950年代末までに、賠償問題をほぼ解決させていった。

(出典:外務省『昭和52年版外交青書』、https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/04_hakusho/ODA2004/html/zuhyo/zu010091.htm


韓国との関係


 韓国との間には、1965年に佐藤内閣が日韓基本条約を朴正煕パクチョンヒ政権との間に締結した。日本は経済協力を行うかわりに、韓国は植民地支配に関わる請求権を放棄した。

サブ・サブ・クエスチョン
日韓基本条約によって、日韓関係はどのように変化したのだろうか?

資料 朴正熙の発言の趣旨(東京の首相官邸での晩餐会にて)
「経験もない私たちには、ただ空拳で祖国を建設しようとする意欲だけが旺盛です。まるで日本の明治維新を成功させた若い志士のような意欲と使命感をもってその方々を模範とし、わが国を貧乏から脱出させ、富豪な国家を作っていこうと思います。」
(出典:姜尚中・玄武岩『大日本・満州帝国の遺産』講談社、2010=2016 年)

資料 岸信介の回想(朴正熙との会談を通して)
「私が一番最初に朴正熙氏に会ったのはまだ大統領になる前です。軍事革命ができあがった直後に日本を訪れた時ですよ。朴正熙が言うには、自分たち若い陸軍の軍人が軍事革命に立ち あがったのは救国の念に燃えたからだが、その際に日本の明治維新の志士を思い浮かべたという のです。あなたの先輩の吉田松陰先生や高杉晋作、久坂玄瑞などという人々のつもりでやった と。けれども実際若いし軍人だから政治のことはわからない、いわんや経済問題はわからない。と ころが韓国の政治界にも財界人にも自分の利益だけ追求していて、国という考えがない。だから 彼らに相談しても国の建設ができないので、あなた方日本の政治家の意見も聞きたい。そのため にはまず国交を正常化しなくてはならない、というわけですよ。」

「朴大統領に一度言ったことがある。満州における私の経験から、どうも経済問題というとね、すぐ 近代的な産業を興し、最もすすんだ技術と設備をもつ魅力があるように思う。だが金さえあれば技術も設備もできるんだ。しかし、本当に産業を興すにはやっぱり下草が必要なんだ、と。そういう意味においては韓国で大事なのは農業だ、農村がしっかりしていないとうまくいかないだろう、と。実 際、満州で軍人の希望によって飛行機工場だ、製鉄業だとやったけれども、満州では農村問題を本当に親身になってやっていれば、うまくいったろう。」

(出典:岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想』)




資料 歴史学者・成田龍一氏の説明
 また、「日韓請求権協定」では五億ドル(うち、無償三億ドル)、また民間借款三億ドルの経済援助を行い、互いの「請求権」が「解決」したものとしました。日本の植民地支配とそれに伴う政策が対象とされているはずですが「請求権」の内容は明記されていません。  朝鮮半島を植民地化したことをめぐっては、認識のズレがそのままになり、第二条をめぐって、韓国併合条約が当初から無効であるとする韓国と、「当時は」合法であったとする日本政府とのあいだで解釈が異なります。また韓国の朴正熙政権のもとでの経済開発援助も「支援」か「賠償」か、と見解が分かれています。  日本に即していえば、植民地責任に対する認識が不充分なまま、条約と協定が結ばれ、北朝鮮を無視するのみならず、韓国とのあいだの認識も詰め切れていません。二つに分断している朝鮮半島の国家の片方とのみ国交を結び、分断を固定化してしまうことになりました。  そのため、日本、韓国ともに国内で反対運動が起こり、日本では議会外でも二〇万人を超える統一行動が見られ、韓国では軍隊までが出動しました。

(出典:『近現代日本史との対話【戦中・戦後—現在編】』集英社新書、2019年、Kindle Location No.3684)

 

資料 日韓請求権・経済協力協定(1965年)
第一条
1 日本国は、大韓民国に対し、
(a)現在において千八十億円(一◯八、◯◯◯、◯◯◯、◯◯◯円)に換算される三億合衆国ドル(三◯◯、◯◯◯、◯◯◯ドル)に等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から十年の期間にわたつて無償で供与するものとする。各年における生産物及び役務の供与は、現在において百八億円(一◯、八◯◯、◯◯◯、◯◯◯円)に換算される三千万合衆国ドル(三◯、◯◯◯、◯◯◯ドル)に等しい円の額を限度とし、各年における供与がこの額に達しなかつたときは、その残額は、次年以降の供与額に加算されるものとする。ただし、各年の供与の限度額は、両締約国政府の合意により増額されることができる。
(b)現在において七百二十億円(七二、◯◯◯、◯◯◯、◯◯◯円)に換算される二億合衆国ドル(二◯◯、◯◯◯、◯◯◯ドル)に等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付けで、大韓民国政府が要請し、かつ、3の規定に基づいて締結される取極に従つて決定される事業の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものをこの協定の効力発生の日から十年の期間にわたつて行なうものとする。この貸付けは、日本国の海外経済協力基金により行なわれるものとし、日本国政府は、同基金がこの貸付けを各年において均等に行ないうるために必要とする資金を確保することができるように、必要な措置を執るものとする。
 前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない。
2 両締約国政府は、この条の規定の実施に関する事項について勧告を行なう権限を有する両政府間の協議機関として、両政府の代表者で構成される合同委員会を設置する。
3 両締約国政府は、この条の規定の実施のため、必要な取極を締結するものとする。

第二条
1 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。

(出典:データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)日本政治・国際関係データベース、https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/JPKR/19650622.T9J.html

資料 日韓基本条約(1965年)
第一条
 両締約国間に外交及び領事関係が開設される。両締約国は、大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。また、両締約国は、両国政府により合意される場所に領事館を設置する。
第二条
 千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。
第三条
 大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。(後略)

(出典:https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19650622.T1J.html

資料 日韓漁業協定 こちら

資料 在日韓国国民の法的地位及び待遇に関する協定 こちら

 
 なお、日本とアジアとの関係性は、第三世界の運動の影響も受け、アフリカも加えたより広い視野のもとで検討されるようにもなっていった。
 1956年12月にはインドのニューデリーで第一回アジア作家会議が開かれ、1958年にはウズベキスタンでアジア・アフリカ作家会議が開かれた。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊