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新科目「歴史総合」をよむ 1-3-1. 市民革命と近代社会

1−3. 国民国家と明治維新

メインクエスチョン
欧米諸国における国民国家形成は、日本とどのような相違点があるのだろうか?

 「歴史総合」は、日本の明治維新とその後に続く国民国家の形成を、世界史的な視野でとらえていこうとするものだ。
 まずはヨーロッパ諸国で成立した近代社会の様相に注目してみよう。


1-3-1. 市民革命と近代社会

主権国家の成立

メインクエスチョン
ヨーロッパでは、どのように主権国家が成立していったのだろうか?

 
 16〜18世紀までの時代は、18世紀以降のヨーロッパの「前提」をつくった時代であるといえる。

 たとえば政治面では、16〜18世紀の間に、東西ヨーロッパの内部で小さな国どうしが合同したり、周囲に吸収されて消滅した。その一方で、存続した国々では、中央政府に権力が集中し、本格的な首都も成立した。


 ただし、16〜17世紀のヨーロッパ諸国が、現在とおなじように一つの領域を、民主的な手続きで選ばれた政府が支配する主権国家の体裁をとっていたわけではない。

 主権をもっていたのは世襲の君主であったし、一人の君主が複数の王国の君主となることもあった。国内にも複雑な事情を持つエリアを抱える複数の国家が、まるで礫岩れきがんのように複雑に併存しているのが、当時のヨーロッパの特徴だったのだ(注)。

 また、ドイツ(神聖ローマ帝国)には、半ば自立した領域(プロイセンやオーストリア)が発達し、16〜17世紀の長期にわたる戦争を通して皇帝の権力が弱まると、|領邦《りょうほう》国家として発展していくこととなった。

 いっぽう、フランスではルイ14世のときに君主が貴族の力をおさえて権力を集め、富を集めた宮廷は西ヨーロッパ文化の中心となった。
 貴族でない者も、経済力があれば官職を購入することができたため、特権を持つ国民とそうでない国民との間の差は、歴然と存在していた。

 イギリスでは、中世以来、伝統的に地主(貴族や平民)を中心とする全国議会の力が強く、17世紀半ばのイギリス革命において、君主政は廃止され、共和政になった。
 その後君主政に戻るも、1688〜1689年の名誉革命で国王と議会が共同で支配する原則が確認され、世界初の立憲君主政がはじまった。

資料 権利の章典(1689年)
 ウェストミンスターに召集された僧俗の貴族および庶民は、わが王国の人民のあらゆる身分を、適法、完全かつ自由に代表して、1688年2月13日〔西暦1689年2月23日〕に、当時オレンジ公および女公、ウィリアムおよびメアリという名前と照合で知られており、正式に臨席しておられた両陛下に、上記の貴族および庶民によって作製された宣言文を捧呈した。その文言はつぎのとおりである。...(※筆者注:ここに、ジェームズ2世の圧政の内容が並べ立てられ、名誉革命の経過が説明される。そして、議会はつぎのように宣言した。)
 国王は、王権により、国会の承認なしに法律を停止し、また法律の執行を停止し得る権限があると称しているが、そのようなことは違法である。
…(後略)

 君主はみずからの権力を有力な議員に代行させるようになり、この有力議員が議会の多数派をひきいて政治にあたる議院内閣制がはじまった。

 オランダ、ヴェネツィア、ジェノヴァでは貴族による共和制があったものの、アメリカ合衆国や革命時代のフランスのように、人民を主体とする共和国も現れるようになった。

 なお、ヨーロッパでは17世紀に、国家や社会の在り方についての考察が進み、近代自然法の思想が生まれた。そのなかから社会契約説が生まれた。
 社会契約説は当初、国をこえて普遍的な権威をおよぼしていた教会の権力を排除し、国家ごとの主権を確立しようとしていた君主にとって都合の良い考え方であったが、しだいにこの説は、身分制の社会が君主(国家)の圧政に立ち向かうための根拠となっていき、18世紀後半~19世紀半ばにかけての市民革命のベースとなっていく。

 市民革命とは、基本的人権を保障された国民が主権を持つ、民主主義的な社会を実現させようとする事象だ。
 つまり、国民のうちの一部の人々のみ特権を持つ、絶対君主に主権がある社会を否定していく動きである。その代表例として位置付けられるのが、アメリカ独立革命だ。


■アメリカ独立革命

サブ・クエスチョン
アメリカ独立革命は、どのように、その後の国民国家形成に影響を与えたと言えるだろうか? 課題が残されていたとすれば、それはどのような点か?


 16世紀末から形成されていった北アメリカの13植民地は、18世紀後半にイギリス政府による貿易統制や課税強化によって、従来謳歌おうかしていた自治が侵害されたため、共同して独立戦争を開始し、1783年に、おのおののほう(state)、すなわち元植民地に対して独立と主権が認められた。

資料 第一条〔独立の承認〕
英国国王陛下はアメリカ連合諸邦,すなわち,ニューハンプシャー,マサチューセッツ湾,ロードアイランドおよびプロヴィデンス・プランテーション,コネティカット,ニューヨーク,ニュージャージー,ペンシルヴェニア,メリーランド,ヴァージニア,ノースカロライナ,サウスカロライナ,ジョージアが自由にして独立な主権国家であり,そのようなものとして扱い,自身もその世継ぎも継承者も,同諸邦およびそのいかなる部分についても,施政,財産,領土上の権利に対するいっさいの権利主張を放棄することを認める。
(https://web.archive.org/web/20031010230305/http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/paris2.htm)


 独立戦争中に発布された独立宣言(1776年)においては、政府の位置付けがロックの社会契約論に基づき再定義され、後世に大きな影響を与えた。

資料 アメリカ独立宣言(1776年)
われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているという こと。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づい て正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったと きには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が 最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の 権力を組織する権利を有するということ、である。もちろん、長年にわたり樹立されている政府を軽々し い一時的な理由で改造すべきではないことは思慮分別が示す通りである。従って、あらゆる経験が示すよ うに、人類は、慣れ親しんでいる形態を廃止することによって自らの状況を正すよりも、弊害が耐えられ るものである限りは、耐えようとする傾向がある。しかし、権力の乱用と権利の侵害が、常に同じ目標に 向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、その ような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが、人民の権利であり義 務である。これらの植民地が耐え忍んできた苦難は、まさにそうした事態であり、そして今、まさにその ような必要性によって、彼らはこれまでの政府を変えることを迫られているのである。現在の英国王の治世の歴史は、度重なる不正と権利侵害の歴史であり、そのすべてがこれらの諸邦に対する絶対専制の確立 を直接の目的としている。このことを例証するために、以下の事実をあえて公正に判断する世界の人々に 向けて提示することとする。

国王は、公共の利益にとって最も有益かつ必要である法律の承認を拒否してきた。……
(注:以下、国王の絶対専制の事実が列挙される)
国王は、われわれの間に内乱を引き起こそうと扇動し、また、年齢・性別・身分を問わない無差別の破 壊を戦いの規則とすることで知られる、情け容赦のない野蛮なインディアンを、辺境地帯の住人に対して けしかけようとした。
こうした弾圧のあらゆる段階で、われわれは最も謙虚な言辞で是正を嘆願してきた。われわれの度重なる 嘆願に対しては、度重なる権利侵害で応えたに過ぎない。このように、専制君主の定義となり得る行為を 特徴とする人格を持つ君主は、自由な人民の統治者として不適任である。
またわれわれは英国の同胞たちに対しても注意を怠ってきたわけではない。われわれは、彼らの議会が われわれに対してまで不当な権限を押し広げようとする企てについて、折に触れて彼らに注意を促してき た。また、われわれがこの地へ移住し入植した状況を、彼らに改めて思い起こさせてきた。彼らの生来の 遵法精神と寛大さに訴えるとともに、相互の結びつきと親交が必ずや断ち切られることとなるこうした国 王の権利の侵害を認めないよう、われわれの血縁的なきずなをとおして訴えてきた。しかし彼ら英国の同 胞も、正義の声と血縁の訴えに耳を貸そうとしてはいない。従ってわれわれは、分離を宣言する必要性を 認めざるを得ず、彼らに対して、他のすべての人々と同様、戦時においては敵、平和時においては友とみ なさざるを得ない。
従ってわれわれアメリカ連合諸邦の代表は、大陸会議に参集し、われわれの意図が公正であることを、 世界の最高の審判者に対して訴え、これらの植民地の善良な人民の名において、そしてその権威において、 以下のことを厳粛に公表し宣言する。すなわち―これらの連合した植民地は自由な独立した国家であり、 そうあるべき当然の権利を有する。これらの植民地は英国王に対するあらゆる忠誠の義務から完全に解放 され、これらの植民地と英国との政治的な関係はすべて解消され、また解消されるべきである。そして自 由で独立した国家として、戦争を始め、講和を締結し、同盟を結び、通商を確立し、その他独立国家が当 然の権利として実施できるすべての行為を実施する完全な権限を有する―と。そして、われわれは、この 宣言を支持するために、神の摂理による保護を強く信じ、われわれの生命、財産、および神聖な名誉をか けて相互に誓う。(後略)

 独立戦争を戦い抜いた個々の植民地(state。のちのほう)の間では、植民地が連合して組織した大陸会議(のちの連合会議)の関係性をどのようにするべきかをめぐって、議論が続けられた。パリ条約で独立と主権が認められたのは、個々の邦に対してだったからだ。
 イギリスと対決するには、個々の邦だけでは安全保障が心配だ。しかし連合会議にある権限が大きくなりすぎると、個々の邦の自由が奪われてしまう。議論の末、連邦政府を置く主張が強まった。
 しかし、連邦政府に権限が集中してしまうと、各邦の主権が制限されてしまう。
 そこで、人民主権・三権分立・人民の自由と権利を保障する合衆国憲法が制定され(1788年批准ひじゅん)、連邦政府の権限を制限することにした。
 なお、日本では連邦政府の下にある邦(state)のことを、州と呼び習わしている。

資料 合衆国憲法
第2 条[下院]
[第1 項]下院は、各州の州民が2 年ごとに選出する議員でこれを組織する。各州の選挙権者は、州の立 法部のうち議員数の多い院の選挙権者となるのに必要な資格を備えていなければならない。
[第2 項]年齢25 歳に達していない者、合衆国市民となって7 年に満たない者、および選挙された時に その選出された州の住民でない者は、下院議員たることはできない。
[第3 項]下院議員と直接税は、連邦に加わる各州の人口に比例して各州間に配分される。【各州の人口 は、年期を定めて労務に服する者を含み、かつ、納税義務のないインディアンを除いた自由人の総数に、 自由人以外のすべての者の数の5 分の3 を加えたものとする。*】
(出典:https://americancenterjapan.com/aboutusa/laws/2566/・)


■フランス革命

サブ・クエスチョン
フランス革命は、どのようにその後の国民国家の形成に影響を与えたと言えるだろうか? 課題が残されていたとすれば、それはどのような点か?

 18世紀末、フランスでも市民革命が起きた。

 革命前のフランス社会は、聖職者身分(第一身分)、貴族身分(第二身分)が免税などの諸特権を享受し、大多数の平民身分(第三身分)の政治参加への道は閉ざされていた。

資料 『第三身分とは何か』(1789年)

三部会選挙の際に出版され、世論に大きな影響を与えた。

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「第三身分のめざめ」
(https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8410766h/)


 18世紀末にイギリスとの植民地戦争に最終的に敗北すると、フランス国王政府は第一身分・第二身分にも課税することを試みた。
 国王政府は1789年5月に三部会という身分制議会を開催して事態を打開しようとしたが、第一身分・第二身分のみならず、不作による食糧不足にあえぐ第三身分の不満が噴出し、一部議員は三部会を国民議会に改組し、憲法を制定して国家の体制を改革しようとした。

 この動きは、1789年7月にパリ市民のバスティーユ牢獄襲撃事件を引き起こし、また農村でも領主に対して封建的特権の廃止を求める蜂起が、全国的に拡大した。
 そこで国民議会は、封建的特権の廃止を宣言し、人権宣言を発表した。

 人権宣言は、フランス革命における重要な成果の一つである。

資料 『人間および市民の権利の宣言(人権宣言)』(1789年8月26日)

●第1条 人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、存在する。社会的差別は、共同の利益にもとづくのでなければ、設けられない。
●第3条 あらゆる主権の淵源は、本来的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。
●第13条 公的強制力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に分担されなければならない。

 しかし、この『人権宣言』の内容を批判した人物に、オランプ・ドゥ・グージュという女性がいる。
 彼女は、『人権宣言(人間および市民の権利の宣言)』が『権宣言(男性および市民の権利の宣言)』にすぎないと批判し、これに皮肉を込めた『女権宣言(女性および女性市民の権利の宣言)』を発表したことで知られる。
 人間はフランス語でhomme、市民はcitoyenというが、これをグージュは、femmeと、女性市民citoyenneに変え、つぎのように読み替えていった。


資料 『女性および女性市民の権利の宣言』(1791年9月)
○第1条 女性は、自由なものとして生まれ、かつ、権利において男性と平等なものとして存在する。社会的差別は、共同の利益にもとづくのでなければ、設けられない。

○第3条 あらゆる主権の淵源は、本来的に国民にあり、国民とは女性と男性との結合にほかならない。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。

○第13条 公的強制力の維持および行政の支出のために、女声と男性の租税の負担は平等である。女性は、すべての賦役と役務に貢献する。したがって、女性は、(男性と)同等に、地位・雇用・負担・位階・産業に参加しなければならない。(出典:辻村みよ子監訳『オランプ・ドゥ・グージュ』信山社)

 グージュの宣言に対し、男性政治家からは次のような反発がおこった。

資料 『女性および女性市民の権利の宣言』に対する男性の意見
1789年7月21日、シェイエス(『第三身分とは何か』の著者)の発言
「すべての市民が〔公権力の形成に能動的役割をはたす〕能動的市民であるわけではない。少なくとも現状では、女性や、子ども、外国人、さらに公共施設の維持に貢献していない者は、公的問題に対して能動的な影響を与えるべきではない。

公的組織のために貢献〔納税〕する者だけが社会的大企業の真の株主とでもいうべき者である。彼らのみが真の能動的な市民、社会の真の成員である。」
(出典:辻村みよ子「フランス革命期における女性の権利―フランス女権史研究・序説」『成城法学』17巻、1984年、77頁)
Q. シェイエスによると、「市民」を、政治的権利を行使できる「能動的市民」と、行使する能力・資格のない「受動的市民」にはどのような違いがあるのだろうか?

 その後も彼女の訴えは実現せず、1793年の憲法においても、参政権は無産の男性に拡大されるにとどまり、結局1793年に処刑されてしまった。

 「あなた方は彼女の真似をする気ですか? とんでもない。あなた方が自然によって望まれた生き方をしてこそ、あなた方は価値ある存在となり、真に尊敬に値するということがお分かりでしょう。」(『公安委員会報』グージュ処刑に関する記事、1793年11月)
(出典:『新詳世界史B』帝国書院、2017年検定、194頁)

 このような限界をはらみながらも、1791年には制限選挙と、憲法によって主権者の権力を制限する|立憲主義《りっけんしゅぎ》に基づく立憲君主政を定めた立法議会りっぽうぎかいが招集された。

 しかし、国王の権限に制限をくわえる動きは、ヨーロッパ諸国による警戒を呼び、1792年には、フランスはオーストリアなどのとの間で、戦争に突入した。
 革命に対抗しようとする動きをおそれた一部の民衆は、立法議会に対して、共和政と男性普通選挙制度の導入を求めるようになった。

 国内の対立も強まる中、立法議会は解散され、新しい国会である国民公会こくみんこうかいが招集され、共和政が宣言された。
 君主による支配が当然であった当時のヨーロッパにおいて、共和政を打ち立てることは、いわば「異常事態」。国民公会の主導権を握ったロベスピエールは、国王夫妻を処刑しただけでなく、現代では「社会権」と呼ばれているような労働、教育、福祉などの平等を保障する新憲法(1793年憲法)を制定した。
 国民公会においては、徴兵制の実施やフランス語の統一など、国民としての統合をすすめる政策も実施された。

資料 グレゴワールの演説「地方語を根絶し、フランス語を完成し、その使用を普及させること」(1794年6月4日)
「わが国には、いまだにおよそ30もの地方語が存在する」
フランス語は、ヨーロッパの尊敬を勝ち得たし、1世紀も前からフランス語は、ヨーロッパにおいて権威あるものとなった。私の目的は、フランス語にこの特質を与えた原因を求めることではない。……もはや、旧州は存在しない。しかし、いまだに、旧州の名前を思い起こさせるようなおよそ30あまりの地方語が存在する。……最後に、諸君が人間としたわが植民地における黒人たちは、ホッテントットやフランク族と同じような一種の貧しい特殊語を使用している。……誇張でもなく、600万人のフランス人が、特に、農村においては、国民言語を知らないということを断言することができる。……」
議会命令(同日)
「……公教育委員会は、フランス語の新しい文法と新しい語彙を完成するための手段に関する報告を提出する。当該委員会は、文法、語彙の学習を容易にし、自由の言語にふさわしい性質を与えるはずの変革に関する考え方を提出する。……」
(出典:瓜生洋一訳、『世界史史料6』34-35頁)



 しかし、ロベスピエールの政策は、当時のフランスでは理解が得られず、彼は恐怖政治(独裁)によって改革を継続させようとし、結果として反対勢力により1794年に失脚した。

 その後の政治の混乱のなかから、強い指導者を求める声を集めていったのが、周辺国家との間で続けられていた戦争に立て続けに勝利していった軍人ナポレオン=ボナパルトであった。


■東ヨーロッパの動向

サブ・クエスチョン
東ヨーロッパにおける国民国家の形成に課題があったとすれば、それはどのような点だったのだろうか?


 ところで、東ヨーロッパでは、西ヨーロッパや北アメリカのような市民革命は、18世紀末以降発生しなかった
 ヨーロッパ中央部から東部にかけての地域を、現在では「東ヨーロッパ」と呼ぶことが多い。日本ではヨーロッパといえば「西ヨーロッパ」を指すことが普通で、「東ヨーロッパ」はいくらか遠い存在であることが多い。その背景には、日本の近代化が、西ヨーロッパの影響を強く受けたものであったことも関係している(そもそも「東ヨーロッパ」という地域区分は、第二次世界大戦後の東西冷戦を反映した地域区分なのだが)。

 しかし東ヨーロッパの一つであるロシアは、現在日本に最も近いヨーロッパの国である。
 ロシアは17〜18世紀にオスマン帝国と戦い領土をひろげ、16世紀以降、シベリアから極東に進出し、中国の清と通商関係を持った。
 この背景には、当時のヨーロッパや中国において、高級毛皮に対する上流階級の需要が高まっていたことが挙げられる。
 ロシアでは18世紀後半に即位したエカチェリーナ2世の下、「上からの近代化」が試みられていった。しかしながら西ヨーロッパ諸国のような市民社会が成長することはなかった。

 19世紀になると、イギリスやフランスは「進歩の歴史」を着実にたどってきたのにたいし、ポーランドやロシアのような国々や、それを構成する民族は「歴史の進歩」から取り残され遅れているという言説が、ヨーロッパ諸国を覆うようになっていく。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊