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3.1.3 オアシス民の社会と経済 世界史の教科書を最初から最後まで

中央アジア」という地域は、時代によっても人によっても、指す場所が変わる地域だ。

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現代世界では、カザフスタン、

トルクメニスタン、

ウズベキスタン、

タジキスタン、

キルギスの5か国を指すことが多いけど、

歴史的には、騎馬遊牧民が「草原の道」(ステップ・ロード)を舞台に、ユーラシア大陸東西のもっと広い範囲を舞台に活動していたことを考慮して、「中央ユーラシア」というエリアを設定することが普通になっているよ。

中央ユーラシア


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ともあれここでは、
「中央アジア」というエリアは、
「世界の屋根」パミール高原からアラル海という湖に注ぐ2つの川(アム川・シル川)から、天山(ティエンシャン)山脈タリム盆地タクラマカン砂漠に至る乾燥エリアと、


その周辺に東西に広がる乾燥草原(ステップ)エリアのことを指すものと考えてほしい。

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タクラマカン砂漠のように広大な砂漠もあって、人が定住するのは難しそうに思えるけれども、水を確保して定住する方法は2つある。


1つは、天山山脈という高い山から流れる雪解け水が集まってできた川だ。タリム川は、砂漠を貫通して流れる貴重な川の一つだよ。

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2つ目は、地下水の組み上げだ。
乾燥した砂漠では、地表にさらされた水はすぐに蒸発してしまう。そこでタリム盆地で生活しようとした人々は、地下の水脈から「人工の地下水路」を建設し、そこに地表から狭い穴(竪坑(たてこう))をくり抜いた。これを「カレーズ」とか「カナート」というよ。

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このように、乾燥エリアなのに潤沢な水を利用できる場所を「オアシス」という。


なかには自然に水が湧き出ているところもあるけれど、その多くは地下から水路を伸ばして人工的に水場を確保したものだ。


周りが砂漠であっても、オアシスでは農業を営むことができる。まさに“楽園”だ。


砂漠に点々と分布するオアシスをつなぐように、「オアシスの道」(いわゆるシルク=ロード)が伸び、やがてユーラシア大陸をつなぐ幹線道路に発達していくことになる。


メインルートは、イラン方面からinして向かうと、ソグディアナ地方ブハラ(現在のウズベキスタン)、サマルカンド(現在のウズベキスタン)、

から、天山山脈の北のタシュケント(現在のウズベキスタン)、

タラス(現在のキルギス)、

イリ(現在の中華人民共和国の新疆ウイグル自治区)、

トゥルファン(高昌(こうしょう;ガオチャン)、現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区)


を通って、中国の黄河流域にいたるルート。これを天山北路という。


ルートとしては、1つ目はバクトラ(現アフガニスタンのバルフ)を通って、

「世界の屋根」パミール高原の南を回り、

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タクラマカン砂漠の南のホータン(現中華人民共和国新疆ウイグル自治区)を通って、

“さまよえる湖”で知られるミーラン(楼蘭、現在の中国)に抜け、敦煌(とんこう)から中国に入るルート。これを西域南道と呼ぶ。


2つ目は、バクトラからパミール高原の北を通ってカシュガル(中華人民共和国新疆ウイグル自治区)を通り、


タリム盆地の北の一大オアシス都市クチャを通って、トルファン

敦煌(とんこう;ドゥンファン)に至り中国入りするルート。こちらは天山南路だ。

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これらの道が歴史的に形成されていった。

オアシスの都市は、連合して大きな「オアシス国家」をつくるようなことはなく、それぞれが独立して自分たちの富や信仰を守った。
だからこそ、北の騎馬遊牧民や、東の中国の農耕民に狙われがち。

前6世紀のペルシア人のアケメネス朝や、前4世紀のギリシア人のアレクサンドロス大王、前2世紀の中国前漢の武帝、6世紀の騎馬遊牧民の国家である突厥、7世紀の中国の王朝である唐が「中央アジア」を目指した理由も、みな「オアシス都市を支配下に入れたい!」という一心からだったんだよ。

特に中国の農耕民の王朝と、北方の騎馬遊牧民の国家とのバトルは熾烈だ。
それを逆手にとって、オアシス都市民はしばしば騎馬遊牧民を「SP」として雇い、代わりに穀物や織物、工芸品を支払った。騎馬遊牧民も、オアシス都市では得られない乳製品やお肉、毛皮や毛製品を得ることができるから、Win-Winというわけだ。

このように、中央アジアの「オアシス商業エリア」は、ユーラシア大陸の東西をつなぐど真ん中に位置し、重要な役割を担っていくんだ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊