見出し画像

新科目「歴史総合」をよむ 3-2-5. 拡散する地域紛争・テロ

メイン・クエスチョン
冷戦の終結後、戦争の形はどのように変化していったのだろうか?

 冷戦終結後の世界では、民族や宗教などをめぐるとされる対立が、内戦や地域紛争といったかたちで噴出した。
 


武内進一「冷戦後アフリカの紛争と平和構築の課題 ―日本のアフリカ外交への示唆」、平和政策研究所Webサイト、2018年8月13日(https://ippjapan.org/archives/1160

資料 武内進一による上記図1の解説
「図1は、1946年から2016年までの世界の紛争を網羅したスウェーデンのウプサラ大学のデータベース(ウプサラ紛争データプログラム、UCDP)をもとに作図したものである。UCDPの研究者が「紛争」とカテゴライズした数千件を地域別に整理している。ヨーロッパ、中東、アジア、アフリカ、アメリカの各地域における紛争勃発件数を縦軸とし、それが年代ごとにどのように変化してきたかを示している。
 この図をみると、第二次世界大戦が終わった直後はアジアで多くの紛争が起きていることがわかる。アフリカはそれほど多くないが、50年代に入る頃から徐々に件数が増え始める。全体的にも時代を追うごとに件数が増え、冷戦直後の1990年頃に一つの山がある。この時期は、他の時代は少ないヨーロッパでも紛争が増えており、ユーゴスラビアの紛争などもこれに含まれる。そのあと件数は減ってゆくが、2015年から16年頃に再び増えている。
 全体として、地域的には近年アフリカでの紛争勃発件数が増えている。アジアも多いが、アフリカの紛争の数はそれに匹敵、凌駕する水準である。ヨーロッパと南北アメリカは一貫して少ない。ヨーロッパは90年代初頭が多く、その他の時代は一貫して少ない。」

武内進一「冷戦後アフリカの紛争と平和構築の課題 ―日本のアフリカ外交への示唆」、平和政策研究所Webサイト、2018年8月13日(https://ippjapan.org/archives/1160)



 また、冷戦終結後に覇権をにぎったアメリカが、グローバルな経済を主導するようになると、反グローバリズムや反米感情を強める人々も現れた。2001年のアメリカ同時多発テロ事件の背景にも、反グローバリズムや反米感情があるという指摘もある。

資料 反グローバリズム
近年、経済のグローバル化が貧富の差の拡大や環境破壊といった社会問題を発生させているなどとする反グローバリズムの考え方が広まり、サミットやAPEC(アジア太平洋経済協力会議)、WTO(世界貿易機関)の国際会議等において、大規模な抗議集会やデモ等を行う反グローバリズム運動が展開されています。
 反グローバリズム運動には、労働組合、農業団体、環境保護団体、人権団体といった様々な性格の団体が参加しているほか、反資本主義としての立場から、過激派や無政府主義者(アナキスト)も、左翼諸勢力の結集、組織の拡大等を目指して、反グローバリズム運動に積極的に取り組んでいます。
我が国においても、反グローバリズムを掲げる海外団体の関連組織が結成されるなど、運動の浸透がみられています。近年、国内の反グローバリズム運動に取り組む団体は、海外での抗議行動に参加したり、国内における抗議行動に海外の団体と協力して取り組んだりするなど、国際的な連携を強めています。(中略)
反グローバリズムを掲げる団体は、「サミットは、経済のグローバル化を推進する先進国の首脳が一堂に会する場である」などとして、サミットを抗議の対象としています。近年は、サミットの開催に合わせて、会場周辺や付近の大都市で数万人規模のデモ等を行い、その過程で、参加者の一部が暴徒化し、地元の商店街の破壊や警察部隊への攻撃といった過激な違法行為を行っています。
 19年6月、ドイツで開催されたハイリゲンダム・サミットの際にも、ドイツ国内外の反グローバリズムを掲げる団体により、集会やデモ等様々な抗議行動が行われ、我が国の団体もこれに参加しました。このうち、会場の近郊都市ロストックにおいて実施された約8万人規模のデモにおいては、全身を黒装束でまとった暴徒らが、警察部隊に対して石や火炎瓶の投てき、車両への放火等を行い、警察官400人以上が負傷しました。

(出典:『焦点—北海道洞爺湖サミットの成功に向けて』275号、平成19年12月、警察庁https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten275/index.html


 

資料 反グローバリズムをもたらしている経済・産業の構造変化
反グローバリズムやポピュリズム的傾向をもたらしている諸要因は、決して一つではなく、しかも様々に絡み合っているし、それらの先行研究は経済的な側面に限ってもずいぶ んある。しかし、グローバリズムは歴史的に形を変えて何回も出現してきたのに、何故今 回ほど反グローバリズムの動きが高まるのか、分析の多くはあまり説得力がない。そこで、 ここでは企業経営的見地から、次の二つの構造変化をそれらの根本原因として着目する。
その第一は、これまで世界経済自体は大変順調であったが、それにもかかわらず、先進 国企業においては、傾向的な生産性の伸びの鈍化が等しく観察される、ということである。 平たくいえば、先進各国ともビジネスは近年だんだん儲からなくなっている。実際、自然 利子率が非常に低い水準にあると言われたり、主要国中央銀行が軒並みゼロ金利ないしの近辺の超低金利政策をとっていたりしているが、これらは軌を一にする現象である。こ うした傾向的な生産性の伸び悩みは、それでなくとも賃金の引き上げ抑制を強める方向に 作用するが、加えて第二に、先進国の労働分配率、つまり企業収益の労働者への配分割合 も傾向的に低下していて、生産性の鈍化以上に賃上げが抑制されている。企業心理として、 生産性の鈍化に象徴される将来の経営不安に備えて賃金上昇はできるだけ抑える、という 力学が世界的に強く働いているほか、グローバル化やデジタル経済化の進展の下で、生産 性の低い単純労働者の賃金が伸び悩んでいることが背景として考えられる。
(中略)
もちろん主要国企業の労働分配率低下をもたらしている要因は、企業の先行き不安だけ ではない。昨今の企業のグローバリズム戦略やデジタル経済化へのうねりが強い影響を及 ぼしていることも併せて指摘されている。
例えば、先進国のグローバル企業の適地生産戦略により、世界の生産拠点が新興国を中 心とした賃金の低い地域にシフトし、その結果先進国の伝統的な生産拠点の衰退を招いて おり、それが先進国における賃金の引き上げ抑制や中間層の喪失を招いたとの見方は根強 い。先進国、新興国の間の経済活動の相互交流は非常に複雑で、過度な単純化は慎むべき であろうが、それでもそのように感じている人々が少なくないことは認めるべきなのだろ う。
デジタル経済化のうねりも、労働分配率低下を助長している。デジタル経済化の下で進 展しているロボットやAIによる単純労働代替が、非熟練労働の雇用を奪うとともに、そ の賃金上昇を抑制することで労働分配率を押し下げているからである。その一方で資本投 入増に伴い、資本の側への報酬は増加する結果となり、いわゆる所得格差の拡大の原因と もなっている。先進主要国経済の多くは、景気拡大の持続の結果、まれにみる労働需給の ひっ迫に直面しているが、企業はロボットへの代替等による労働投入の節約に努めており、 その結果、タイトな労働需給にもかかわらず、賃金やインフレ率が高まらない、という、 歴史的にも経験したことのない状況が現出している。これも労働分配率低下と表裏をなす 現象である。
いずれにせよ、反グローバリズムをもたらしている原因を根本までさかのぼると、先進 各国で近年観察される労働生産性の伸びの鈍化と労働分配率の低下という経済・産業の構 造変化が企業に強いている結果ではないか、という仮説にたどり着く。

(出典:中島厚志「グローバリズムについて ―世界経済からの視点」『反グローバリズム再考: 国際経済秩序を揺るがす危機要因の研究 「世界経済研究会」報告書』平成31年3月、日本国際問題研究所)
(出典:上掲)




■多発する地域紛争

サブ・クエスチョン
冷戦終結後も、世界各地で地域紛争が勃発したのはなぜなのだろうか?

サブ・サブ・クエスチョン
冷戦終結後には、どのような紛争が起きたのだろうか?

 冷戦終結直後の1990年前半、世界各地で深刻な紛争が頻発した。このうち、湾岸戦争(1991年)においては、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクを攻撃した。この戦争の背景には、イラン革命後、石油資源を求めるアメリカ合衆国の中東政策によって、中東のアラブ諸国の分断が助長されたことがあった。
 また、ヨーロッパにおいては、複雑な民族・宗教分布を含み持つユーゴスラビアにおいて、市場原理の導入による地域格差拡大を背景に、内戦が勃発した(ユーゴスラビア内戦、1991〜2001年)で敵対する集団の負のイメージが、外国の民間広告代理店により生み出される構図も見られた。



サブ・サブ・クエスチョン
アフリカ各地で地域紛争が深刻化したのはなぜだろうか?

 また、アフリカ各地でも地域紛争が深刻化した。
 冷戦期のアフリカでは、アメリカもしくはソ連陣営からの支援を一部の独裁者が受け入れ、独裁者の取り巻きが、各地域の有力者に利権を配分する家産制的な性格の色濃い国家が多くみられた。
 ウガンダのアミン、中央アフリカ共和国のボカサ、ザイール(現・コンゴ民主共和国)のモブツがその代表例である。

 しかし、石油危機後の資源価格・一次産品価格の低迷により、経済は低迷。1980年代には、旱魃の影響も重なり飢餓が深刻化する中、地域紛争が追いうちをかけた。

 そのような中、アメリカ合衆国を中心とする世界銀行やIMFは、従来の開発援助方式を改め、途上国の経済に市場原理を導入する構造調整政策をとるようになった。すなわち、国営企業の民営化し、国外企業を参入しやすくするような規制緩和の措置をとることで、経済を成長させようとする方策であった。
 しかし1990年代に入り、国連開発計画が『人間開発報告書』で構造調整を批判し、代わって人間開発のアプローチが採用されるようになっていった(参照:絵所秀紀「開発経済学と貧困問題」『国際協力研究』Vol.13 No.2(通巻26号)1997.10)。

 冷戦終結とともに、アフリカ諸国では政治的な自由化も進んだ。しかし、冷戦体制に規定されていた国家構造と、その恩恵を受けていた地域の有力者の関係性が崩れたことにより、国家内では新たに「民族」ごとの対立が生み出され、それが「民族紛争」として実体化される場合も多く見られた。


■世界の安定のために

サブ・クエスチョン
平和な世界の確立のためには、どのような施策が必要なのだろうか?

サブ・サブ・クエスチョン
平和主義をとる日本は、湾岸戦争に対して金銭的な貢献をしたにもかかわらず、国際社会から批判されたのはなぜなのだろうか?
また、この対応に対して、政府や国内では、どのような議論が生まれたのだろうか?

 地域紛争の解決には、国連決議や国連平和維持活動(PKO)が大きな役割を果たしてきた。
 そして日本はながらく「平和主義」の立場から、軍事力を提供することなく、非軍事的な分野における「国際貢献」を旨としてきた。
 しかし冷戦後、湾岸戦争での限定的な活動が国際社会に批判されたことをきっかけに、1992年に国連平和維持活動等協力法(PKO協力法)が制定された。

資料◆湾岸戦争〈1〉 外務省『1991年版外交青書』(1991年12月)
1991年版外交青書の刊行に当たって
 「90年8月のイラクによるクウェイト侵略に始まった湾岸危機は、国連を中心とした国際社会の一致団結した行動により終結を見ました。また、89年に東欧諸国で始まった民主化の動きは多くの国に及び、今やソ連においても共産主義支配の崩壊という歴史的な変革が起こるに至っております。戦後の国際社会を規定してきた冷戦構造は終わりを迎えましたが、他方、新しい国際秩序はまだ明確な姿を現わしてはおりません。また、国家間や民族間の紛争や対立を始め、貧困、抑圧、地球環境の悪化など、国際社会は依然として不透明な課題を抱えております。私達は、国際協調の下にこれらの課題を克服し、新しい国際秩序を築き上げていかなければなりません。
 このような中で、日本はこれからの国際秩序の根本にかかわるいずれの問題に関しても大きな影響を与える存在となるに至っております。それだけに、日本が自らよって立つ理念を国際社会に明らかにしつつ、普遍的な理想実現するために積極的に行動していくことが重要となっております。(後略)」
(渡辺美智雄・外相)

第1章 変化する国際情勢と日本の外交より
「湾岸危機は日本の外交にとっても大きな試練であり、日本外交の変化を促した。多国籍軍支援と周辺国支援のために、新規増税も行いつつ130億ドルに上る協力を行ったこと、停戦直後に環境対策と難民救済のために7チーム、66名の国際緊急援助隊を現地に派遣したこと、停戦後の残存機雷の処理のために海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣したことなどの中に、世界の平和と安定を確保するための国際協調行動において、自らの経済力と国際的な地位にふさわしい責任と役割を果たすことを模索し始めた日本の新しい姿を見出すことができる。また、国連平和協力法案についても、法案自体は廃案となったものの、その審議の過程を通じて、国連の平和維持活動等の国際協調活動に参加、協力するための法制面を含む国内の準備体制を整備することの必要性については国内的な合意ができた。」


資料◆湾岸戦争〈2〉 
日本の湾岸戦争への資金援助に対する国際社会の反応
LONDON – Japan’s response to the Gulf War in 1990 was “too little, too late” and made the economic superpower look like a “political pygmy,” according to a critical assessment by Britain’s ambassador to Japan in recently declassified files.
Writing in March 1991, John Whitehead said Tokyo’s reaction was hampered by “weak political leadership, a cautious bureaucracy” and an inability to respond to fast-moving situations.
In a letter to his bosses in London dated March 18, 1991, Whitehead wrote, “The general perception must be that Japan has not come well out of the Gulf crisis.”
“Japan agonized and shilly-shallied but found it horribly hard to act. Hamlet writ large,” he wrote, in an apparent reference to the eponymous character’s hesitation to avenge his father’s murder in Shakespeare’s play.
The international community was frustrated by Japan’s failure to contribute troops or hardware to the multinational coalition. Japanese politicians and the public were divided on how to respond and the indecision slowed the flow of funds from Tokyo to the military coalition.
Because of constitutional constraints that prohibited dispatching troops, Japan ultimately donated a total of $13 billion to the multinational coalition but was stung by criticism it received from the international community for not doing enough.
Whitehead wrote that Japan was suffering a “fundamental crisis of identity.”
On the one side were those who favored a more muscular response in line with its economic position and close ties to the United States.
On the other were those with pacifist tendencies who argued the Constitution prohibited dispatching troops overseas, and felt the country should focus on economic prosperity, the ambassador noted in the files opened to the public in April.
According to Tokyo, of the additional ¥1.24 trillion in funding approved after the start of the war in January 1991, ¥1.15 trillion was donated to the United States, while Britain was allocated just ¥39 billion.
The files reveal British ministers’ disappointment with Japan’s financial contribution toward its own Gulf War costs, despite pleas by Prime Minister John Major to his Japanese counterpart Toshiki Kaifu.
A cable from the embassy in Tokyo points out that the figure amounted to about 3 percent of the total, “and falls significantly below our target of 8 percent to reflect our relative contribution to the military effort.”
Malcolm Sinclair, minister of state at the Foreign Office, commented in a response that the “contribution is scant reward for the stand we took and for our special position for them in Europe.”
Britain, which provided more than 53,000 troops to the allied force of 670,000 soldiers, felt it had been treated unfairly when compared to the size of the financial contribution made to the United States, which was by far the largest contributor to the multinational coalition.
Japan also put strings on the money offered, stipulating it could only be spent on logistics/transportation and not on weapons and ammunition.
Whitehead commented that as a result of the crisis Japan would not send combat troops overseas for the foreseeable future but might dispatch soldiers on U.N. peacekeeping operations.
But in defense of Japan, he noted that Tokyo had backed the multinational coalition and made “far from negligible” contributions to the multinational coalition aiming to retake Kuwait.
In response to his letter, John Coles, a senior official at the Foreign Office, wrote that he understood the pressures Japan was under and London should work with Tokyo in trying to craft a more suitable response in the future.(後略)

(出典:WILLIAM HOLLINGWORTH
(KYODO), THE JAPAN TIMES, https://www.japantimes.co.jp/news/2018/06/05/national/politics-diplomacy/british-envoy-criticized-japans-role-gulf-war-little-late-recently-declassified-documents/

資料◆湾岸戦争〈3〉 湾岸戦争に反対する文学者声明

声明1
私は日本国家が戦争に加担することに反対します。

声明2
戦後日本の憲法には、「戦争の放棄」という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を「最終戦争」として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、「戦争の放棄」の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。

 また9.11事件の直後にテロ対策特別措置法が制定され、海上自衛隊がアメリカ軍の後方支援活動のためインド洋に派遣された。2003年にはイラク戦争後に成立したイラク復興特別措置法にもとづいて、自衛隊がイラクに派遣された。
 近年は非政府組織(NGO)や非営利組織(NPO)の活動も、災害時における国際支援を含めて活発化している。

 1990年代後半から、 民族紛争の数自体は、減少傾向にある。国際連合が中心となり、「人道的介入」「保護する責任」をめぐる施策や議論が盛となり、紛争に対する介入の方式も多様化している。
 しかし、2000年代以降、いわゆるBRICS(ブリックス)などの新興国が台頭する中で、冷戦後のアメリカ合衆国による覇権は崩れ、大国間競争が目立つようになり、従来の国際連合を主体とする平和構築の仕組みも流動化しつつある。

 2001年のアメリカ同時多発テロ以降は、国際テロ組織によるテロリズムが世界各地で増加し、各国政府は「対テロ戦争」を名目に国内外の安全保障を一層強化するようになった。


資料 ブッシュ大統領の“十字軍”演説 2001年9月16日
We need to go back to work tomorrow and we will.  But we need to be alert to the fact that these evil-doers still exist.  We haven't seen this kind of barbarism in a long period of time.  No one could have conceivably imagined suicide bombers burrowing into our society and then emerging all in the same day to fly their aircraft - fly U.S. aircraft into buildings full of innocent people - and show no remorse.  This is a new kind of  -- a new kind of evil.  And we understand.  And the American people are beginning to understand.  This crusade(この十字軍), this war on terrorism is going to take a while.  And the American people must be patient.  I'm going to be patient.


資料  「第十次十字軍」 コラムニストのアレグザンダー・コバーン「第十次十字軍」雑誌『カウンターパンチ』(2002年9月7日)
(…) Islamic fanatics flew those planes a year ago and here we are with a terrifying alliance of Judaeo-Christian fanatics, conjoined in their dreams of the recovery of the Holy Lands of the West Bank, Judaea and Samaria.
War on Terror?
It’s back to the late thirteenth century, picking up where Prince Edward left off with his ninth crusade after St Louis had died in Tunis with the word Jerusalem on his lips.(https://www.counterpunch.org/2002/09/07/the-tenth-crusade/


資料 アメリカ下院議会におけるバーバラ・リー下院議員の発言(2001年9月14日)
 議長、私は今日、ニューヨーク、バージニア、ペンシルベニアで殺され傷つけられた家族と愛する人々への悲しみでいっぱいになりながら、耐えがたい気持ちで演説に立っています。アメリカ国民と全世界の何百万もの人々をとらえた悲しみを理解しないのは最も愚かな者か最も無神経な者だけでしょう。アメリカ合衆国に対するこの筆舌に尽くしがたい攻撃のために、私は向かうべき方向を求めて自らの道徳指針と良心 と神に頼らざるをえませんでした。9月11日は世界を変えました。最も深い恐怖が今や私たちの心に付きまとってます。しかしながら、私は軍事行動はアメリカ合衆国に対する国際的なテロリズムのこれ以上の行動を防がないと確信しています。私は、大統領はこの決議がなくても戦争を行なうことができることを私たち全員が分かっているにもかかわらずこの武力行使決議が通過するのだということを知っています。この[反対]投票がどんなに困難なものであろうとも、私たちの何人かが自制を行使するように説得しければなりません。しばらく距離を置いてみて今日の私たちの行動のもつ意味を通して考えよう、その結果をもっと十分に理解しよう、と言う何人かが私たちの中にいなければなりません。私たちは従来型の戦争を扱っているのではありません。私たちは従来型のやり方の対応はできないのです。私はこの悪循環が制御不能になるのを見たくありません。今回の危機には国家の安全や外交政策や社会安全や情報収集や経済や殺人といった諸 問題が入っているのです。私たちの対応はそれと同様に多面的でなければなりません。私たちはあわてて判定を下してはなりません。あまりにも多すぎる罪のない人たちが既に亡くなりました。アメリカ合衆国は喪に服しています。もしも私たちがあわてて反撃を開始すれば、女性や子どもやその他の非戦闘員が十字砲火を浴びるという大きすぎる危険な目に遭う恐れがあるのです。同様に私たちは、残忍な殺人者によるこの狂暴な行為に対する正当な怒りがあるからと、あらゆるアラブ系のアメリカ人やイスラム教徒や東南アジア出身者や他のどの人々に対しても人種や宗教や民族を理由として偏見をあおることはできません。最後に、私たちは退場の戦略も焦点を合わせた標的もなしに無制限の戦争を開始しないように注意を払わなければなりません。私たちは過去の過ちを繰り返すことはできません。 1964年に連邦議会はリンドン・ジョンソン大統領に攻撃を撃退しさらなる侵略行為を防ぐために「あらゆる必要な手段をとる」権力を与えました。その決定をした時に、本議会は憲法上の責任を放棄し、長年にわたるベトナムでの宣戦布告なき戦争へとアメリカ合衆国を送り出したのです。 当時、トンキン湾決議にただ二人反対票を投じたうちの一人であるワイン・モース上院議員は言明しました。「歴史は我々がアメリカ合衆国憲法をくつがえし台無しにするという重大な過ちを犯したのだということを記録するであろうと私は信じる。……次の世紀のうちに、将来の世代の人々はこのような歴史的な過ちを現に犯そうとしている連邦議会を落胆と大いなる失望をもって見ることになるだろうと私は信じる。」 モース上院議員は正しかったのです。私は今日、同じ過ちを私たちが犯しているの ではないかと恐れています。そして私はその結果を恐れています。私はこの投票をするのに思い悩んできました。しかし私は今日、ナショナル・カテドラルでのとてもつらいが美しい追悼会の中でこの投票に正面から取り組むことにしたのです。牧師の一人がとても感銘深く「私たちは行動する際には、自らが深く悔いる害悪にならないようにしましょう。」と語ったのです。



資料 9.11同時多発テロ6カ月後のブッシュ大統領演説(反テロ戦争演説)(ジョージW.ブッシュ大統領) (2002年3月11日)
 本日われわれは6カ月を経てここに集まっている。長い戦いの中で、6カ月は短い期間である。われわれのテロとの戦いの評価は、その始まりではなく結末によって決まる。前途にはさらなる危険と犠牲が待ち受けている。しかし米国は準備ができている。われわれの決意は強まるばかりである。それは、われわれがあの朝の惨事と勇気ある行動を忘れることはないからだ。見学旅行に出かけた子どもたちの死、悲運の飛行機に乗り合わせた乗客の抵抗、見知らぬ人たちを助けようとして共に亡くなった救助員の勇気を、われわれは忘れない。そして、われわれの悲劇を見て笑ったテロリストたちのビデオ映像を忘れることはない。(中略)どの文明国家もこの闘争において果たす役割がある。それはどの文明国家もこの闘争の結末に影響されるからだ。お互いの相違や不満が罪のない者を殺害する口実となるような世界には、平和はあり得ない。テロとの職いにおいて、われわれは恒久平和をもたらすような状況を目指して戦う。無秩序な暴力に対抗して合法的な変革を目指し、弾圧と残虐行為をなくし人間的な選択を目指し、そして1人1人の生命の尊厳と美徳を目指して戦う。
 米国にとって、テロとの戦いは単なる政策ではなく誓約であることを、どの国家も知るべきである。私は、わが国と文明社会の自由と安全保障を目指すこの闘争において、力を緩めることはない。(後略)

(出典:一般財団法人鹿島平和研究所編『現代国際関係の基本文書(上)』、日本評論社、502-504頁。データベース『世界と日本』、https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/20020311.S1J.html)


オバマ大統領による演説(2013年9月10日) ~軍事行動はしない
私は、軍事行動の要請を退けてきました。なぜなら他国の内戦を武力で解決することなど、我々にはできないからです。特に10年に及ぶイラクとアフガニスタンでの戦争の後では、これは不可能です。……米国は世界の警察官ではありません。恐ろしいことは世界中で起きており、我々は全ての悪を正すことはできません。」(在日米国大使館HPより、酒井啓子『「イスラーム国」の脅威とイラク』岩波書店、2014年、286-287頁)

 

オバマ大統領による演説(2014年9月10日) ~軍事行動をためらわない
「過去数年間、我々は我が国を脅かすテロリストと、恒常的に戦ってきた。ビン・ラーディンやアルカーイダ指導部の多くを、アフガニスタンやパキスタン、イエメンなどから取り除いてきた。これまで14万人にものぼるアメリカ兵がイラク、アフガニスタンに駐留してきた結果、アメリカは安全になった。……しかし、いまだ我々はテロの脅威に立ち向かわなければならない。……そのひとつが、「イスラーム国」と自称するISILだ。……我々はISILを弱体化させ、最終的に崩壊させる。……そのために、シリアやイラクにいるISILに対して行動を起こすことを、私はためらわない。」(在日米国大使館HPより、酒井啓子『「イスラーム国」の脅威とイラク』岩波書店、2014年、287頁)


【資料】難民支援について
(緒方貞子「私の仕事―難民と歩んだ10年」緒方貞子・ユニフェム日本『女性と復興支援―アフガニスタンの現場から』岩波ブックレット、2004年。小菅信子『原典でよむ 20世紀の平和思想』岩波書店、2015年、19-21頁より)
[筆者注:ユーゴ内戦について]そこでの特徴を挙げますと、いままでですと難民は難民、国内の避難民は国内の避難民、それから被災民。
そういう人たちは別々のカテゴリーの人間として、別々の対応を、別々の機関がやって来たんですね。しかしそういうことでは対応できない時代になっていました。とくに旧ユーゴで特徴づけられますのは、難民も国内避難民も被災民も全部まとめて援助しなければならなかった。総数約四〇〇万人を対象とした人道援助がくりひろげられたわけです。
私は、人間をカテゴリーに応じて、別の機関がそれぞれ対応するというやり方にはかなりの疑問を持っております。それでは自分の国から出ていった時に、国の外に出ていった人は保護するけれど、同じ理由で国内にとどまった人に対しての保護は十分にできない。しかし守ってあげなければならない。つまり法律的な難民保護のやり方ではなくて、実際的な人間の生命の保護ということをしなければならなかったのです。それと同時に民族紛争というものの怖さ、恐ろしさ、そして問題解決のむずかしさも実感しました。結局、彼らは、いつの日かまたいっしょに住んでいかなければならない―――。そういう時にはどうやって、殺し合った人たち、恐れ合った人たちのコミュニティをもう一度つくり直すかという大きな問題を提起されたのも、旧ユーゴのバルカン紛争だったのです。⋯[中略]⋯人間の安全保障こういうような現場における展開から、習ったことは多くございます。
一つは、安全保障の問題です。安全保障というものを国家と国家の間の紛争の視点から見るのではなくて、紛争の原因となっている国内の問題からも見ていかなければならない。そこから国家間や国家の安全保障ではなくて、人びとの安全保障、コミュニティの安全保障、そういうものに進んで行かなければならないのではないかと。こういう問題意識は、私といっしょに仕事をしてくれた人道援助機関、とくに九〇年代に紛争のなかで人々を助けていかなければならない仕事をした人たちのあいだから、出てまいりました。
日本では、亡くなられた小渕恵三総理が、アジアにおける経済危機、財政危機が起きた時に、いかにアジアの人たちの社会的損害、家族の崩壊、資産の崩壊、安全が脅かされるかということを痛感されました。そして社会的なセーフティネットという広い意味での社会保障を強くしていかなければならないということから、「人間の安全保障」という考え方を打ち出されました。それが国際的なさまざまな問題意識といっしょになって人間の安全保障委員会ができて、私もその共同議長として仕事をさせていただいたわけでございます。




資料 組織的犯罪と都市・家庭内暴力
現在では、武力紛争よりも犯罪が多くの人の命を奪っています。2017年には、全世界で50万人近くが殺人によって命を失っていますが、これは武力紛争による死者8万9,000人とテロ攻撃による死者1万9,000人を大きく上回る数字です。殺人率が現状の4%の増大を続ければ、「あらゆる場所において、すべての形態の暴力および暴力に関連する死亡率を大幅に減少させる」という持続可能な開発目標(SDGs)のターゲット16.1を2030年までに達成することはできなくなります。
組織的犯罪と犯罪組織の暴力には、地域によって大きな差があります。米州諸国は殺人率が圧倒的に高く、世界人口の13%しか暮らしていないにもかかわらず、全世界の殺人事件の37%を占めています。政情不安は、警官や女性、ジャーナリスト、移民を標的とする攻撃を含め、組織的犯罪を助長します。その一方で、政治的暴力は低所得国に限られた現象ではなくなってきました。過去15年間に、深刻な政治的暴力に直面するか、これと隣り合わせで暮らす人々は、世界人口の過半数に達しているからです。
女性と女児にとって、家庭は相変わらず最も危険な場所になっています。2017年に発生した女性の殺人事件のうち、約58%は親密なパートナーか家族の手によるものであり、その割合は2012年の47%からさらに増えています。女性はしばしば全世界、特に低所得国で広く見られる男尊女卑の信条や不平等、依存の結果、殺人の犠牲者となることが最も多くなっているのです。

https://www.unic.or.jp/activities/international_observances/un75/issue-briefs/new-era-conflict-and-violence/


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊