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新科目「歴史総合」を読む 2-3-3. 国際協調体制の崩壊とファシズム

国際協調体制は、なぜ、どのようにして、崩れていったのだろうか?

■ヨーロッパにおけるファシズムの伸張

ファシズム政党が勢力を伸ばした原因は何だろうか?


 世界恐慌によって、資本主義諸国では国内対立が激化した。思い切った政策や実行力のない中道的な政党に見切りをつけた大衆のなかには、自由主義や議会制民主主義を否定するファシズムの思想に引かれる者も現れるようになった。

中道政党
「政治党派の対抗が二極に分化し激化したという状況にあって、中間の政治領域に位置する立場を標榜(ひょうぼう)する政党中道政党という。第一次世界大戦後のワイマール・ドイツにおける左右に両極分解した政治状況にあって「中央党」が結党された例がある。(後略)」(日本大百科全書)

資料 政治思想の関係を表した図の一例

https://www.aghseagles.org/ourpages/users/mkamin/wh10_files//Cluster%204%20WWII%20(includes%20Russian%20Rev%20and%20Totalitarianism)/Totalitarianism/Totalitarianism%20on%20Political%20Spectrum/Totalitarianism%20and%20the%20Political%20Spectrum.doc


全体主義
「個人の利益よりも全体の利益が優先し,全体に尽すことによってのみ個人の利益が増進するという前提に基づいた政治体制で,一つのグループが絶対的な政治権力を全体,あるいは人民の名において独占するものをいう。歴史的にはナチス・ドイツ,ファシスト・イタリアなどのファシズム政治体制があげられるが,スターリニズムや毛沢東主義などを含むこともある。一党独裁,政権の不誤謬性,議会民主主義の否定,表現の自由に対する弾圧,恐怖による警察政治,宣伝機関の独占,経済統制,軍国主義という共通点がある。 20世紀に出現した現象であり,マスコミュニケーションと兵器の技術進歩によって,初めて可能となった。従来の専制政治と異なるのは,大義が強調され,そのもとに個人の生活全般にまで統制が行われる点である。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

資料 ハンナ・アーレント『全体主義の起源』

ゲスト 仲正昌樹
「『全体主義の起原』と、波紋を呼んだ『エルサレムのアイヒマン』は、現在も全体主義をめぐる考察の重要な源泉となっています。この二作を通じてアーレントが指摘したかったのは、ヒトラーやアイヒマンといった人物たちの特殊性ではなく、むしろ社会のなかで拠りどころを失った「大衆」のメンタリティです。現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が「安住できる世界観」を求め、吸い寄せられていく─その過程を、アーレントは全体主義の起原として重視しました。」

プロデューサーAのこぼれ話
「今回の番組を通して一番感じたことは、「全体主義」といっても、それは、外側にある脅威ではないということです。どこにでもいる平凡な大衆たちが全体主義を支えました。私たちは、複雑極まりない世界にレッテル貼りをして、敵と味方に明確に分割し、自分自身を高揚させるようなわかりやすい「世界観」に、たやすくとりこまれてしまいがちです。そして、アイヒマンのように、何の罪の意識をもつこともなく恐るべき犯罪に手をそめていく可能性を、誰もがもっています。「全体主義の芽」は、私たち一人ひとりの内側に潜んでいるのです。」

(出典:「名著69 ハンナ・アーレント『全体主義の起源』 100分de名著」NHK、https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/69_arendt/index.html


議会制民主主義(代表民主主義)
歴史的にみて狭義には,直接民主制に対する間接民主制としての議会制民主主義 parliamentary democracyを意味するが,現代ではそれだけでなく大統領制民主主義やソビエト制民主主義をも含めなんらかの形で代表制の原理を取入れている政治形態をさす。しかし,主として問題になるのは狭義の代表民主主義である。議会制民主主義は議会政治民主主義との融合によって生れたが,その点で近代議会政治はまだ近代民主主義の第一歩であった。市民革命後議会政治は,議院内閣制と国民代表観念とを基軸にする議会主義思想を確立することによって新たな展開を始めた。しかし実際には議会政治の運営は,「財産と教養」をもつ名望家層に握られ,労働者階級を中心とする大衆は参政権を与えられず,政治の舞台から排除されていた。やがて資本主義の発達は,市民社会の同質性を打ち破り,社会的利害や意見の対立を激化させると同時に,大衆の民主主義運動を一層高揚させ,議会政治の枠組みをゆり動かした。そのため支配層は,制限選挙制を撤廃し普通選挙制を実施することによって代表制の基礎を国民全体に拡大し,議会主義と民主主義との思想的和解をはかることとした。それは民主主義思想の制度化でもあった。こうして 19世紀後半以降,普通選挙制のもとで選出された代議員が議会を通じて間接的に総意を形成し,国の政策に国民の利害や意見を反映するという議会制民主主義が名実ともに確立されたのである。

(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)


 ファシズムは、排他的・人種主義的なナショナリズムと反共産主義を基盤とし、各種のメディアを通じたプロパガンダを駆使し、暴力によって政敵を抑圧する姿勢を公然と主張した。

ナショナリズム
ある民族や複数の民族が、その生活・生存の安全、民族や民族間に共通する伝統・歴史・文化・言語・宗教などを保持・発展させるために民族国家あるいは国民国家ネーション・ステート)とよばれる近代国家を形成し、国内的にはその統一性を、対外的にはその独立性を維持・強化することを目ざす思想原理・政策ないし運動の総称。

(出典:日本大百科全書(ニッポニカ))


反ユダヤ主義

資料 「背後からのひと突き」(匕首あいくち)伝説(1919年)

第一次世界大戦後のドイツ、オーストリアでは、国内のユダヤ人が敵国に通じていたために敗北したという言説がみられた。図は1919年にオーストリアで発行されたポストカード(パブリック・ドメイン、https://en.wikipedia.org/wiki/Stab-in-the-back_myth#/media/File:Stab-in-the-back_postcard.jpg


史料 「ユダヤ人は寄生虫」(ヒトラー『わが闘争』より)
かれらは典型的な寄生虫であり続ける。つまり悪性なバチルスと同じように、好ましい母体が引き寄せられさえすればますます広がってゆく寄生動物なのである。そしてかれらの生存の影響もまた寄生動物のそれと似ている。かれらが現われるところでは、遅かれ早かれ母体民族は死滅するのだ。ユダヤ人はこのようにして、あらゆる時代を通じて他民族の国家の中に生活して、そこで自分自身の国家を形成していたが、この国家はもちろん外面的な事情がその本質をすっかりあばいて見せなかった間は、「宗教共同体」の名称の下に仮装して行動するのがつねであった。だがかれらはひとたび自分を守るおおいがなくてもすませるほど十分に強くなったと信じたならば、いよいよそのヴェールを落して、急に、非常に多数の人々が以前には信じもまた見ようとも欲しなかったもの、つまりユダヤ人になったのである。

(出典:平野一郎・将積茂訳、角川文庫)


反共産主義

史料 「文化破壊者としてのマルクシズム」(ヒトラー『わが闘争』より)
マルクシズムというユダヤ的教説は、自然の貴族主義的原理を拒否し、力と強さという永遠の優先権のかわりに、大衆の数とかれらの空虚な重さとをもってくる。マルクシズムはそのように人間における価値を否定し、民族と人種の意義に異論をとなえ、それとともに人間性からその存立と文化の前提を奪いとってしまう。マルクシズムは宇宙の原理として人間が考えうるすべての秩序を終極に導く。そしてこの認識しうる最大の有機体において、そのような法則を適用した結果は、ただ混沌のみであるように、地上ではこの星の住民にはただ自己の破滅あるのみである。

(出典:平野一郎・将積茂訳、角川文庫)



大衆宣伝

 ファシズムの元祖は、ムッソリーニのもとで結成されたイタリアのファシスト党にある。
 左翼勢力を襲撃しながら勢力を拡大し、1922年には国王の信任を得てムッソリーニが首相となり、一党独裁体制をきずいていた。

 これを参考にしたのがヒトラー率いるナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)である。マスコミを利用したプロパガンダや魅力的なイベントへの動員を通して大衆の支持をとりつけ、選挙で第一党となるや、1933年にヴァイマル憲法の民主主義体制を改変し、一党独裁体制を樹立した。

史料 宣伝の心理(ヒトラー『わが闘争』より)

宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目ざすべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない。しかし戦争貫徹のための宣伝のときのように、全民衆を効果圏に引き入れることが問題になるときには、知的に高い前提を避けるという注意は、いくらしても十分すぎるということはない。宣伝の学術的な余計なものが少なければ少ないほど、そしてそれがもっぱら大衆の感情をいっそう考慮すればするほど、効果はますます的確になる。しかもこれが、その宣伝が正しいか誤りであるかの最良の証左であり、二、三の学者や美学青年を満足させたかどうかではない。
[中略]
大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人にまで思いうかべることができるように継続的に行なわれなければならない。人々がこの原則を犠牲にして、あれもこれもとりいれようとするとすぐさま効果は散漫になる。というのは、大衆は提供された素材を消化することも、記憶しておくこともできないからである。それとともに、結果はふたたび弱められ、ついにはなくなってしまうからである。

(出典:平野一郎・将積茂訳、角川文庫)


ナチ党は、国民をどの程度動員したといえるのだろうか?


ナチ党がドイツ国民をプロパガンダによって意のままに操作していた」という見方は、現在では批判されている。

 政府が推進する、いかにも「プロパガンダ」的な宣伝を含む文化におもしろみがないのは、いつの時代も同じである。
 しかも、当時のドイツには、映画やラジオを通して、アメリカの影響を受けた大衆文化が広がっていた。
 政治的な動員と、人々の楽しめる娯楽のバランス。
 これをどうとるかが鍵であることは、ゲッベルスの率いる宣伝省も認識していた。

 以下、田野大輔氏の『魅惑する帝国』をはじめとする文献から、授業で扱うことのできそうな事柄を挙げていく。

 権力へとのぼりつめる過程では、ナチズムは派手な大衆集会や示威行動で人々を惹きつけ、支持を拡大していったが、権力を掌握して数年もすると、そうした「新しい政治」の魅力は徐々に薄れ、大衆運動の役割は限定的なものとなった。こうした状況に対応して、ナチズムによる「政治の美学化」は、その主要な対象を大衆運動から文化・社会政策の領域に移し、「民族共同体」を美的かつ合理的に形成することに重点を置くようになった。[…]ゲッベルス率いる宣伝省の内部でも、民心を維持するためには大規模な式典を挙行するだけでは不十分で、非政治的な娯楽を通じたソフトな動員が必要であるという認識が一般的になっていた

田野大輔『魅惑する帝国』名古屋大学出版会、2007年、18頁。太字は筆者による。




大衆資本主義の波


資料 ナチスのポスター「週5マルクの節約で車を手に入れられますよ!」




史料 映画監督レニ・リーフェンシュタールの作品


レニ・リーフェンシュタールは、1933年にニュルンベルクで開かれたナチス党大会の記録映画で《信念の勝利》を、1934年党大会で《意志の勝利》、36年のベルリン・オリンピックで映画《オリンピア》(《民族の祭典》と《美の祭典》の二部作。1938)を制作した。


意志の勝利


民族の祭典

美の祭典


ニュルンベルク党大会の映像



史料 ヒトラーの語るナチ党大会の意義
ナチ党大会の意義とは、一、運動の指導者に党指導部全体と再び個人的な関係を築く機会を与え、二、党同志をあらためてその指導部と結びつけ、三、みなともに勝利の確信を強め、四、闘争の続行のために大きな精神的・心理的刺激を与えることであった。(1933年党大会開会演説)

田野大輔『魅惑する帝国』名古屋大学出版会、2007年、62頁。

NHK『映像の世紀』の映像などを通して、教室でこのような映像にふれる機会は少なくないが、このような公式の映像ばかりを見ていると、党大会が大成功を収めたかのように思えてしまう。
だが、その実態はかならずしも満足のいくものではなかったことにも注意を向けさせたい。
田野大輔氏の指摘するように、党大会の運営には当時から批判が向けられていたのである。

史料 党大会の組織関係者による報告

政治指導者の松明行列は、とにかく悲惨だった。大部分の政治指導者は、総統の前を行進する際、まったくついてこなかった。毎年確認しなければならないこの行進は、すべてがめちゃくちゃである。比較的隊列が整っていたのは、ごく少数の大管区だけだった。間隔を開けずに大管区を行進させることは、とうてい不可能である。ドイツ的ないいかたをすれば、それは恥さらしだった。

田野大輔『魅惑する帝国』名古屋大学出版会、2007年、84頁。

また、党大会への関心もさほど高くなく、参加した人々の関心は式典そのものより、「スポーツの試合から大道芸、演劇、ダンス、映画上映、ビアガーデン、打ち上げ花火」といった「ありとあらゆる催し物」に向けられた(田野2007、83頁)。

史料 党大会に関する1938年の報告
1934年9月の「意志の勝利」の党大会において、ナチ共同体「歓喜力行団(かんきりっこうだん)」はあらゆる大管区から参集した党の代表の前にお目見えした。…週の最終日には、ツェッペリン広場とその周辺で、数十万人が参加する民衆の祭典が開催され、ダンスグループ、射撃場、乗馬、ボクシング、スポーツ活動が多彩な真の生の喜びを提供した。多くの歓喜に満ちた観衆が、屋外の巨大なスクリーンを使った映画上映や、劇団の野外公演、大道芸団をはじめて目にした。伝統的な花火がこの民衆の祭典の最期を飾ったが、それは多くの組織関係者や政治指導者にも大きな興奮を呼び起こした。ここに祭典の主要目的があり、党同志酒メーアのスタッフが大きな困難にもかかわらずあえて民衆の祭典をプログラムに組みこんだのも、こうした理由からであった。

田野大輔『魅惑する帝国』名古屋大学出版会、2007年、83-84頁。


田野大輔『魅惑する帝国』名古屋大学出版会、2007年、86頁。
田野大輔『魅惑する帝国』名古屋大学出版会、2007年、85頁。
「催しの政治的目的とは関係なく、参加者のほうではこれを楽しいお祭と受けとめ、気軽に参加する雰囲気があった。そこにはナチ党が国民を民族共同体に動員しようとする一方で、国民はむしろ娯楽や気晴らしをもとめていたという両義的な関係が示されている。真剣さと心地良さは対立関係にあったが、両者は実際には同一の現実を形成したのだった。こうした状況のもとで、最初は催しに反感をもっていた人々が、しだいに進んで参加していく傾向も見られるようになった。」(同、91頁)


歓喜力行団のポスター「君もいまや旅行できる!」

史料 党大会に関するある少年の作文
(1935 年)9月 14 日土曜日、僕は数人の同級生といっしょに自由の帝国党大会(ナチ党大会) へ行きました。...僕の注意をひいたのはサッカー選手でした。ドイツ・チャンピオンのシャルケ04とニュルンベルク=ヒュルトの選手が広場に走って入ってきました。前半は無得点でした。……後半は残念なことに1対0でシャルケの勝利となりました。..晩8時に大花火がはじまりました。大花火は美しい終幕でした。 1935年9月14日。

田野大輔『魅惑する帝国』名古屋大学出版会、2007年、84頁。


資料 ナチズムの党大会 『ニューヨーク・タイムズ』特派員の党大会報告記事(1936年9月12日付 本紙)―
光の芸術
「ヒトラーが登場すると演壇の後に円形に配置された 150 基のサーチライトから光の槍が放射さ れ、中心の一点を照らした。それは(ベルリン)オリンピックの閉会式に用いられたのと同じ装置だ ったが、大々的に改良され、比較にならぬほど効果的だった。 このまばゆい光の中、ヒトラーが待ち受ける人々の間を縫って階段を降り、彼を先頭にした行列が フィールドを通ってゆっくり行進し、演壇に向かって進む。ここで雷鳴のように万歳(ハイル)の叫び がおこり、彼の到来を告げる楽隊の音をかき消してしまう


ヒトラーは演壇に上り、完全な静寂が訪れるまで待つ。と、遠くに突如、赤い色の集団があらわれ てこちらに近づいてくる。それはドイツ全国からやってきたナチ党(政治)組織の 2 万 5000 本の (ハーケンクロイツ)旗である。 旗手たちはフィールドの褐色の縦隊の背後を行進してきて、やがて前に出る。さながら褐色の堅 固な岩塊を照らし出し、赤い波の中に金色の斑点が浮びあがる。その効果たるや筆舌に尽くしが たいほどの美しさであった。
(出典:芝健介「ナチズム・総統神話と権力」『シリーズ世界史への問い 7 権威と権力』岩波書店、1990 年、185 頁)


「光のドーム」を考案した建築家シュペーア(「廃墟価値の理論(Ruinenwerttheorie)」で名高い)の 談

「12 メートル間隔でフィールドの周囲に並べられた 130 台のサーチライトの光線は6キロないし8 キロの上空に達し、そこに一面の淡い光の海を作った。それぞれの光線が右舷に聳え立つ外壁 の列柱になっている、一個の巨大な空間という印象を与えた。」

(パブリック・ドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/アルベルト・シュペーア#/media/ファイル:Reichsparteitag._Der_grosse_Appell_der_Politischen_Leiter_auf_der_von_Scheinwerfern_berstrahlten_Zeppelinwiese_in..._-_NARA_-_532605.tif


ゲッペルスの思想

史料 帝国国民啓蒙・宣伝大臣ゲッペルスの主張
政治もまた芸術であり、おそらく存在する最も高次の、最も大規模な芸術である。現代ドイツの政治を形成しているわれわれは、大衆という素材から民族の堅固で明確な形態をつくりあげるという責任ある課題を委ねられた芸術的人間であると自覚している。
(Berliner Lokal-Anzeiger, 11. April 1933)


諸君、百年後には、われわれが体験したおそろしい日々を記録した美しいカラー映画が上映されることになるだろう。諸君はこの映画のなかで役を演じたいとは思わないか? 諸君がスクリーンに登場したときに観客がわめいたり口笛を吹いたりしないように、いまは頑張りたまえ。
(戦時中の発言)

田野大輔『魅惑する帝国』名古屋大学出版会、2007年、5頁、28頁。


ラジオという新しいメディアの活用

資料 メディアの利用
1939 年 9 月 1 日ラジオ特別措置令(外国放送を聞くことを禁じるもの) ドイツの新聞 ナチ党の最大手機関紙『民衆観察者』(1939 年 9 月 3 日)
「ドイツ国民が一丸となって総統を支持しているときに、ドイツに有効なことは唯ひとつ、総統の言葉だ。[第一次]世界大戦で、ドイツの敵は、煽動と毒毒しい出まかせと反乱教唆の卑劣な武器を使った。それが 1918 年 11 月 9 にち〔社会党エーベルト首相に共和国宣言、ドイツ敗北〕 を引き起こした方法だったのだ。敵国政治家の演説は検閲されないまま、批判なしで、1918 年に なってもドイツ新聞に掲載された......これが疑問視さcれるようになったときには、すでに手遅れだ ったのだ。」(1939.9.3)


1933 年以降ラジオは広く普及していて、低所得者層でも世界一安い「国民ラジオ」を買えた。 新しい合言葉は「総統の声をすべての家庭と工場へ!」だった。1939 年には 300 万台が売られ、 総数 1200 万台が普及していた(1933 年には 400 万強)。 (出典:ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持したドイツ国民』みすず書房、2008 年、223 頁)



■ドイツとイタリアの同盟とスペイン内戦

 

 1933年に国際連盟からドイツが脱退し、1935年にヴェルサイユ条約で禁止されていた再軍備を宣言すると、イタリアはイギリス、フランスとともにドイツに対抗しようとした。

 しかし、1935〜36年にイタリアはエチオピアを武力で併合し、国際連盟から1937年に脱退。1936年にドイツはロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐し、同年からイタリアとともにスペイン内戦に干渉した。
 これ以降、ドイツとイタリアは接近し、同じく反共路線をとっていた日本とも接近していくこととなった。


 一方、ファシズムの台頭を前に、対抗勢力も浮上する。

 1935年にソ連が人民戦線戦術を提唱すると、フランスでは人民戦線内閣が成立し、スペインでも人民戦線が政権を獲得した。いずれも共産党と社会民主主義勢力が、反ファシズムという点で共闘したものである。
 しかし、フランスでは政権に参加した政党内での対立によってまもなく崩壊。スペインでも軍人のフランコが反乱をおこし、スペイン内線がはじまった。
 ドイツとイタリアは、フランコ側に立って軍事介入したが、イギリスとフランスは不干渉政策をとった。フランコは内戦に勝利し、スペインはフランコによる独裁政権が樹立された。

資料 画家パブロ・ピカソの描いた「ゲルニカ」

ゲルニカ市にある実物大のタペストリー(Photo by papamanila, CC 表示-継承 3.0 File:Mural del Gernika.jpg)


 この時期には、東欧諸国やオーストリアにもファシズムの影響が広まっている。





■大日本帝国の動き:満洲事変と大陸進出

日本はなぜ、どのように国際協調体制から離脱していったのだろうか?


 昭和恐慌による経済危機に直面していた日本では、危機の打開を中国、特に満蒙への進出に求める軍部や右翼の主張が高まっていた。国内では思想、言論への弾圧が強まり、治安維持法の適用範囲も拡大されていった。

サブ・サブ・クエスチョン
軍部の一部によりおこされた満洲事変以降の軍事行動は、なぜ日本国内の大衆の支持を得たのだろうか?


 そのころ中国では国民政府が外国からの権益を取り戻す動きを活発化させていたが、これに対して関東軍が1931年9月18日に柳条湖事件をおこし、満洲を中国の主権から独立させようと画策した。これを満洲事変という。


資料 満蒙問題善後処理要綱(昭和7年1月27日)
「新国家は復辟(ふくへき)の色彩を避け溥儀を主脳(ママ)とする表面立憲協和的国家とするも内面は我帝国の政治的威力を嵌入(かんにゅう)せる中央独裁主義として地方行政は特異の自治機構を助長する如くす。」

(出典:『現代史資料7、満州事変』。山室信一「「満州国」の法と政治―序説」『人文學報』68号、1991年、 129-152頁)


 資料 満蒙問題処理方針要綱 昭和7年3月12日 閣議決定(日本外交文書 満洲事変 第2巻第1冊 外務省 1979年、p.442)
一、満蒙ニ付テハ帝国ノ支援ノ下ニ該地ヲ政治、経済、国防、交通、通信等諸般ノ関係ニ於テ帝国存立ノ重要要素タルノ性能ヲ顕現スルモノタラシメムコトヲ期ス
二、満蒙ハ支那本部政権ヨリ分離独立セル一政権ノ統治支配地域トナレル現状ニ鑑ミ逐次一国家タルノ実質ヲ具有スル様之ヲ誘導ス
三、現下ニ於ケル満蒙ノ治安維持ハ主トシテ帝国之ニ任ス将来ニ於ケル満蒙ノ治安維持及満鉄以外ノ鉄道保護ハ主トシテ新国家ノ警察乃至警察的軍隊ヲシテ之ニ当ラシム右目的ノ為之等新国家側治安維持機関ノ建設刷新ヲ図ラシメ特ニ邦人ヲ之カ指導的骨幹タラシム
四、満蒙ノ地ヲ以テ帝国ノ対露対支国防ノ第一線トシ外部ヨリノ撹乱ハ之ヲ許サス右目的ノ為メ駐満帝国陸軍ノ兵力ヲ之ニ適応スル如ク増加シ又必要ナル海軍施設ヲナスヘシ新国家正規陸軍ハ之カ存在ヲ許サス
五、満蒙ニ於ケル我権益ノ回復拡充ハ新国家ヲ相手トシテ之ヲ行フ
六、以上各般ノ施措実行ニ当リテハ努メテ国際法乃至国際条約抵触ヲ避ケ就中満蒙政権問題ニ関スル施措ハ九国条約等ノ関係上出来得ル限リ新国家側ノ自主的発意ニ基クカ如キ形式ニ依ルヲ可トス
七、満蒙ニ関スル帝国ノ政策遂行ノ為メ速ニ統制機関ノ設置ヲ要ス但シ差当リ現状ヲ維持ス

 

資料 矢内原忠雄の論説
「満洲国は一つの国家として満洲人たる執政と大官と官吏と軍隊とをつが、それと共にまた日本人側より質に於(おい)ても量に於ても有力なる大官以下官吏の一隊を供給せられ、協力なる日本軍隊に国防を委ね、日本資本に経済的開発を託するものである。故に満洲国の組織及経営は之を企業に喩ふれば日満合弁である。之が日本帝国発展と満洲独立主義との強調として現はれたる政治的形態である。」

「特殊権益なる概念には上述の三点 、即ち接壌地域としての重要性 、既投経済的利益の列国に比して特に大なること 、並に政治的特殊地位の要求を包含する 。之等は日露戦争以来 、我国の伝統的主張であったが 、殊に近年世界的不況の中に我国民の経済的社会的再組成が行き悩むや 、その圧力は人口問題殊に農村過剰人口の問題として現はれ 、歴史的にも地理的にも接壌地域たる満州に対しては既投の権益防衛のみならず 、我国民発展の為めの独占的地域としての意義をば積極的に再認識するに至った 。かくて満州は生命線なりとのスロ ーガンを生じ 、個々の条約上の権利若くは利益にあらずして一般に満州そのものが我国の特殊権益として見らるるに至った 。ここに於て特殊権益擁護の主張は極点に達したのである 。」

(出典:『満洲問題』)


資料 東洋史学者 白鳥庫吉の見る満洲 
「自分には欧洲遊学中の所感が益々強くなり、東洋の研究は東洋人が率先して事にあたらねばならぬという信念が益々深まった。しかし、実際の状態を見ると、そういう研究は大概既に西洋人に先鞭をつけられて居って、日本人の新に手を下すべき所は殆どない。ただ茲に一つ残された部分がある。それは即ち現に日本の勢力の下に帰せんとしているところの韓地方である。……この地域は戦争によって新たに生じた政治的形勢からも、日本人があらゆる方面について根本的な学術的研究をしなければならないところなのである。」

(出典:『白鳥庫吉全集 第10巻』、満鉄初代総裁後藤新平の下「満線歴史地理調査室」で白鳥は東洋史学を研究した)

 

資料 安易な渡満への警鐘  (『東亜日報 』 (1932年8月8日)
「満洲は良い所だ 。しかし大変極まりない地である 。したがって満洲にくる者 、たんに 「満洲は良い所だ 」とばかり認識してはならぬ 。土地が肥沃で物資が豊富であることから満洲を福地と思うのは過ちではないにしても 、文明が落後し治安が不備であり 、匪賊の跋扈が甚しいことで苦難の感は免れまい 。しかも満洲を追いかける者─満洲の歴史的事実と一般情勢を知らずしてはならず 、経済関係及び政治形態の如何をよく知るべきである 。しかし最近満洲に到来する者のなかには満洲に対する常識も覚悟も全くなく 、まずもって 「満洲は良い 」という漠然たる思いで故土を発ち実際と希望が符合せねば無駄に少なき金銭を消耗して異域客舎で無聊な歳月を過ごし不如帰の長嘆を発する者少なくない 。勿論経済の破滅に当面し生活の根拠を失った避難民 、失業群として満洲へ新国家が建立され門戸を開放して東亜の宝庫─満蒙の富源を公開するというのであるから 、そこに職を求めて仕事を探そうとするのは決して無理ではない 。しかしどんなに新政権が樹立され万民が存栄をともにするとしても 、朝鮮の人がいきなり幸福を享受することはありえず 、たとえ東亜の宝庫が眼前に展開されるとしても一定の計画なしに成功すること能わず。」

(出典:姜尚中・玄武岩『大日本・満州帝国の遺産』講談社、2010=2016年)

 



 満州事変以来の情勢は、大陸に派遣された兵士をもつ家族のみならず、ひろく大衆の関心を大きく集めた。そのため、新聞・ラジオの普及が加速し、マスメディアが世論を形成し、大衆を国家の一員として一体化させていく役割も強まっていった。

資料 昭和戦前期の5紙の部数変化

資料 ラジオの普及率

(出典:https://www.videor.co.jp/digestplus/media/2017/05/8262.html

資料 フランクリン・ルーズベルトの路辺談話(Fire Chat)



資料 東京日日新聞 1931.10.27 (昭和6) 「守れ満蒙帝国の生命線」
「日本はロシアおよび中国から与えられた範囲内において満洲に政治的文化的施設をなすとともに、経済的にも大発展をなし、投資額16億、在留内地人20万、朝鮮人100万に及んだ。こうして日本の満洲における経済的関係は緊密となり、満蒙がいわゆる日本の生命線となるに至ったものである。満蒙の権益をふみにじろうとするような動きに対しては、断乎だんことして排撃するほかない。」

満蒙におけるわが特殊権益は日清日露の二大戦役を経て、十万の生霊と数十億の国帑を犠牲として獲得したるもので実にわが民族の血と汗の結晶というべきものである。しかもその権益は確乎たる条約協定の明文によって裏付けられ、これを国際間に持出して堂々と存在を立証し得る性質のものである。特殊権益の存在を裏書する条約及び協定の根本的重要性を有するものを列挙すれば

一、日露講和条約及び追加条款(明治三十八年ポーツマスにおいて調印)
二、日新満洲善後条約及付属協定(明治三十八年十二月北京において調印)
三、満洲五案件に関する日清協約並に間島に関する日清協約(明治四十二年九月北京において調印)
四、南満洲及東部内蒙古に関する日支条約(いわゆる二十一ヶ条条約で大正四年五月北京において調印)
五、満蒙鉄道に関する諸協定(イ)吉会鉄道借款予備契約(大正七年六月調印)(ロ)改訂吉長鉄道借款契約(大正六年十月調印)(ハ)満蒙五鉄道に関する交換公文(大正二年十月調印)(ニ)満蒙四鉄道覚書及び満蒙四鉄道借款予備契約(大正七年九月調印)(ホ)吉敦鉄道建造請負契約(大正十四年十月調印)(ヘ)吉会、長大鉄道工事請負契約(昭和三年五月調印)


等で条約並に契約を通観して、最も重要なるものは日露講和条約並に二十一ヶ条条約である。すなわちわが満蒙権益の中枢をなす満鉄の経営、関東州の租借権に至っては実に日露講和条約の結果、露国よりその権益を譲り受け、これを明治三十八年の日清満洲善後条約によって清国政府から確認されたもので、更に二十一ヶ条条約によって権利の存続期限を延長して確乎たるものとしたのである。(後略)

(出典:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(101-069)、http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10164943&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1



 1932年には「満洲国」の建国が宣言され、日本政府は日満議定書に調印。
 これは、中国の現状維持を定めたワシントン体制を揺るがすものだった。


資料 「五族協和図」

満洲国における五族協和・王道楽土の建設をうたったポスター。赤=日本民族、青=漢民族、白=モンゴル民族、黒=朝鮮民族を表わす。



資料 陸軍パンフレット(1934年)

 


 リットン調査団の報告に基づき、国際連盟総会は1933年に「満洲国」の不承認を決議したため、日本は脱退を通告した。


資料 満洲国建国宣言

(出典:アジ歴(https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B02030709100))



資料 国際連盟総会における松岡洋右代表の演説(1932年)
On behalf of my Government, I wish to make a declaration. It is a source of profound regret and disappointment to the Japanese delegation and to the Japanese  Government that the draft report has now been adopted by this Assembly. Japan has been a Member of the League of Nations since its inception. Our delegates to the Versailles Conference of 1919 took part in the drafting of the Covenant. We have been proud to be a Member of the League, associated with the leading nations of the world in one of the grandest purposes in which humanity could unite. It has always been our sincere wish and pleasure to co-operate with the fellow-Members of the League in attaining the great aim held in common and long
cherished by humanity. I deeply deplore the situation we are now confronting, for I do not doubt that the same aim, the desire to see a lasting peace established, is animating all of us in our deliberations and our actions.
 It is a matter of common knowledge that Japan's policy is fundamentally inspired by a genuine desire to guarantee peace in the Far East and to contribute to the maintenance of peace throughout the world. Japan, however, finds it impossible to accept the report adopted by the Assembly, and, in particular, she has taken pains to point out that the recommendations contained therein could not be considered such as would secure peace in that part of the world.
 The Japanese Government now finds itself compelled to conclude that Japan and the other Members of the League entertain different views on the manner of achieving peace in the Far East, and the Japanese Government is obliged to feel that it has now reached the limit of its endeavours to co-operate with the League of Nations in regard to the Sino-Japanese differences. The Japanese Government will, however, make the utmost efforts for the establishment of peace in the Far East and for the maintenance and strengthening of good and cordial relations with other Powers. I need hardly add that the Japanese Government persists in its desire to contribute to human welfare and will continue its policy of co-operating in all sincerity in the work dedicated to world peace, in so far as such co-operation is possible in the circumstances created by the unfortunate adoption of the report.
 On behalf of the Japanese delegation, before leaving the room, let me tender its sincerest appreciation of the efforts ungrudgingly made to find a solution of the Sino-Japanese dispute before you, for the past seventeen months, by the President and Members of the Council, as well as by the President and Members of the General Assemblyto whom we offer our sincere thanks.



 中国では、このころ同時に中国共産党に対する国民政府の攻撃が続いていた。しかし、長征の途中であった中国共産党は、1935年にソ連の人民戦線決議を受け、国民政府との抗日民族統一戦線をよびかけた。
 1936年に張学良が蒋介石をとらえて、抗日民族統一戦線の樹立を説得する西安事件を起こし、ようやく蒋介石は翻意することとなった。


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