国際協調体制は、なぜ、どのようにして、崩れていったのだろうか?
■ヨーロッパにおけるファシズムの伸張
ファシズム政党が勢力を伸ばした原因は何だろうか?
世界恐慌によって、資本主義諸国では国内対立が激化した。思い切った政策や実行力のない中道的な政党に見切りをつけた大衆のなかには、自由主義や議会制民主主義を否定するファシズムの思想に引かれる者も現れるようになった。
資料 政治思想の関係を表した図の一例
ファシズムは、排他的・人種主義的なナショナリズムと反共産主義を基盤とし、各種のメディアを通じたプロパガンダを駆使し、暴力によって政敵を抑圧する姿勢を公然と主張した。
反ユダヤ主義
資料 「背後からのひと突き」(匕首)伝説(1919年)
反共産主義
大衆宣伝
ファシズムの元祖は、ムッソリーニのもとで結成されたイタリアのファシスト党にある。
左翼勢力を襲撃しながら勢力を拡大し、1922年には国王の信任を得てムッソリーニが首相となり、一党独裁体制をきずいていた。
これを参考にしたのがヒトラー率いるナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)である。マスコミを利用したプロパガンダや魅力的なイベントへの動員を通して大衆の支持をとりつけ、選挙で第一党となるや、1933年にヴァイマル憲法の民主主義体制を改変し、一党独裁体制を樹立した。
ナチ党は、国民をどの程度動員したといえるのだろうか?
「ナチ党がドイツ国民をプロパガンダによって意のままに操作していた」という見方は、現在では批判されている。
政府が推進する、いかにも「プロパガンダ」的な宣伝を含む文化におもしろみがないのは、いつの時代も同じである。
しかも、当時のドイツには、映画やラジオを通して、アメリカの影響を受けた大衆文化が広がっていた。
政治的な動員と、人々の楽しめる娯楽のバランス。
これをどうとるかが鍵であることは、ゲッベルスの率いる宣伝省も認識していた。
以下、田野大輔氏の『魅惑する帝国』をはじめとする文献から、授業で扱うことのできそうな事柄を挙げていく。
大衆資本主義の波
資料 ナチスのポスター「週5マルクの節約で車を手に入れられますよ!」
史料 映画監督レニ・リーフェンシュタールの作品
レニ・リーフェンシュタールは、1933年にニュルンベルクで開かれたナチス党大会の記録映画で《信念の勝利》を、1934年党大会で《意志の勝利》、36年のベルリン・オリンピックで映画《オリンピア》(《民族の祭典》と《美の祭典》の二部作。1938)を制作した。
意志の勝利
民族の祭典
美の祭典
ニュルンベルク党大会の映像
NHK『映像の世紀』の映像などを通して、教室でこのような映像にふれる機会は少なくないが、このような公式の映像ばかりを見ていると、党大会が大成功を収めたかのように思えてしまう。
だが、その実態はかならずしも満足のいくものではなかったことにも注意を向けさせたい。
田野大輔氏の指摘するように、党大会の運営には当時から批判が向けられていたのである。
また、党大会への関心もさほど高くなく、参加した人々の関心は式典そのものより、「スポーツの試合から大道芸、演劇、ダンス、映画上映、ビアガーデン、打ち上げ花火」といった「ありとあらゆる催し物」に向けられた(田野2007、83頁)。
ゲッペルスの思想
ラジオという新しいメディアの活用
■ドイツとイタリアの同盟とスペイン内戦
1933年に国際連盟からドイツが脱退し、1935年にヴェルサイユ条約で禁止されていた再軍備を宣言すると、イタリアはイギリス、フランスとともにドイツに対抗しようとした。
しかし、1935〜36年にイタリアはエチオピアを武力で併合し、国際連盟から1937年に脱退。1936年にドイツはロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐し、同年からイタリアとともにスペイン内戦に干渉した。
これ以降、ドイツとイタリアは接近し、同じく反共路線をとっていた日本とも接近していくこととなった。
一方、ファシズムの台頭を前に、対抗勢力も浮上する。
1935年にソ連が人民戦線戦術を提唱すると、フランスでは人民戦線内閣が成立し、スペインでも人民戦線が政権を獲得した。いずれも共産党と社会民主主義勢力が、反ファシズムという点で共闘したものである。
しかし、フランスでは政権に参加した政党内での対立によってまもなく崩壊。スペインでも軍人のフランコが反乱をおこし、スペイン内線がはじまった。
ドイツとイタリアは、フランコ側に立って軍事介入したが、イギリスとフランスは不干渉政策をとった。フランコは内戦に勝利し、スペインはフランコによる独裁政権が樹立された。
資料 画家パブロ・ピカソの描いた「ゲルニカ」
この時期には、東欧諸国やオーストリアにもファシズムの影響が広まっている。
■大日本帝国の動き:満洲事変と大陸進出
日本はなぜ、どのように国際協調体制から離脱していったのだろうか?
昭和恐慌による経済危機に直面していた日本では、危機の打開を中国、特に満蒙への進出に求める軍部や右翼の主張が高まっていた。国内では思想、言論への弾圧が強まり、治安維持法の適用範囲も拡大されていった。
そのころ中国では国民政府が外国からの権益を取り戻す動きを活発化させていたが、これに対して関東軍が1931年9月18日に柳条湖事件をおこし、満洲を中国の主権から独立させようと画策した。これを満洲事変という。
満州事変以来の情勢は、大陸に派遣された兵士をもつ家族のみならず、ひろく大衆の関心を大きく集めた。そのため、新聞・ラジオの普及が加速し、マスメディアが世論を形成し、大衆を国家の一員として一体化させていく役割も強まっていった。
資料 昭和戦前期の5紙の部数変化
資料 ラジオの普及率
資料 フランクリン・ルーズベルトの路辺談話(Fire Chat)
1932年には「満洲国」の建国が宣言され、日本政府は日満議定書に調印。
これは、中国の現状維持を定めたワシントン体制を揺るがすものだった。
資料 「五族協和図」
資料 陸軍パンフレット(1934年)
リットン調査団の報告に基づき、国際連盟総会は1933年に「満洲国」の不承認を決議したため、日本は脱退を通告した。
資料 満洲国建国宣言
中国では、このころ同時に中国共産党に対する国民政府の攻撃が続いていた。しかし、長征の途中であった中国共産党は、1935年にソ連の人民戦線決議を受け、国民政府との抗日民族統一戦線をよびかけた。
1936年に張学良が蒋介石をとらえて、抗日民族統一戦線の樹立を説得する西安事件を起こし、ようやく蒋介石は翻意することとなった。