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1.1.7 古代オリエントの統一 世界史の教科書を最初から最後まで

アッシリアがオリエントを統一した

前2000年〜前1000年(今から4000年前から前3000年前)までの期間のうちの初め頃、メソポタミアの北部―つまりティグリス川上流部で「アッシリア人」が王国を建設した。


彼らは小アジア(現在のトルコがあるところ)の方面との貿易で栄えたんだけれども、前15世紀(今から3500年ほど前)には一時的にミタンニ王国に服属してしまう。



しかし、その後に独立を回復し、鉄でできた武器や戦車、よく訓練された騎兵隊の威力で領土を急拡大。


前7世紀前半(今から2700年ほど前)には、オリエントの大部分を統一するに至った。



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最盛期の王アッシュールバニパル王の姿は、ライオンと丸腰で戦う彫刻などからうかがえる。
首都にニネヴェには、古代世界最大の蔵書数を誇るアッシュールバニパル文庫が建設された。現代風にいえば、あらゆる情報が検索可能なGoogleのサーバを独り占めしていたようなものだ。





強大なパワーを集めたアッシリア王は、広い領土を治めるために国内をいくつかの州に分け、命令がすぐ届くように道路と駅を整備。各地に総督をおいて、政治、軍事、宗教を自分でコントロールしようとした。

いくつもの民族や地域を支配するこの大帝国は、強制移住政策をとる一方で、非征服民族の文化をまったく尊重しなかったわけではない。


しかしその広大な支配領域を維持できるほど、アッシリアの統治システムはまだまだ未熟だった。
結果的にバビロニアのカルデア人と、イラン高原のメディア人が連合して反乱を起こし、前612年(今から2600年ほど前)には都ニネヴェが陥落。前609年に最後の王が降伏してその幕を閉じることとなった。



オリエントは4つの王国に分かれた

アッシリア崩壊後のオリエントには、4つの王国が栄えたと伝えられる。

① エジプトにはエジプト王国

② 小アジアには、世界初の金属貨幣で知られるリディア王国(都はサルデス)。

③ イラン高原にはメディア王国

④ そして、メソポタミアには、歴史ある都市バビロンに王宮を置く新バビロニア(カルデア)王国だ。
新バビロニアは、ヘブライ人のユダ王国を攻撃し、首都バビロンに連行した「バビロン捕囚」で知られるよ。

なお、四王国分立時代の存在を疑問視する説もある。

[前略]ポスト・アッシリア時代を「四王国分立時代」と表現するのには無理がある。それは、新バビロニア、リュディア、エジプト、メディアにエラムをくわえた「五王国分立時代」だったかもしれないし、あるいはメディアとエラムには「王国」としての体裁に欠けるところがあるとして失格にするならば、「三王国分立時代」とも呼べるかもしれない。本稿の考察対象とはしなかったが、近年キュロスが滅ぼした国家として、ウラルトゥもその 1 つだった可能性が指摘されている。[中略]
それでは、従来のような「四王国分立時代」のイメージがどこから生じてきたかといえば、メディアの比重を必要以上に大きく見せた、ヘロドトス『歴史』をはじめとしたギリシア語文献史料の責任は無視できない。

阿部拓児、下記論文参照。


ペルシア人のアケメネス朝による統一

だが、その後、前6世紀半ば(今から2550年ほど前)に変化が訪れる。
イラン高原のメディア王国が、ファールス地方出身のキュロス2世によって滅ぼされたんだ。
ファールス地方は馬の産地として知られ、アケメネス家が王を輩出したのでアケメネス朝という。

よく鍛えられた騎馬兵の力でメディア王国、リディア王国を征服。

さらに前539年にはバビロンを開城させて、翌年ここにいたヘブライ人(ユダヤ人)は晴れて自由の身となった。
だからユダヤ人にとって、解放してくれたアケメネス朝の王キュロス2世(在位前559〜前530)は、まさに「救世主」(メシア)にほかならない。


アケメネス朝の支配層は、民族的には一般に「ペルシア人」と呼ばれる。
ペルシアとは「ファールス」が語源の言葉だ。

イラン高原は古くからメソポタミアとインドを結ぶ陸上貿易ルートが盛んで、きらびやかな工芸品を作るアーティストや、豪華な建物を手がける建築家もたくさんいた。
楔形文字をアルファベットが表せるように改良し、ペルシア文字もつくっていたんだ。




第3代のダレイオス1世(位前522〜前486)のときには、エーゲ海(地中海のうち、ギリシャの近くにある海域)から、インド北西のインダス川にかけての大帝国へと発展。

アッシリアの滅亡後に分裂していたオリエントは、こうして再びまとまった。




ダレイオス1世は、各地の多種多様な人々を支配下に組み込むため、巧妙な制度を構築した。

全土の各州に知事(サトラップと呼ばれる)を置き、さらに知事が不正をしないか見張る目的で
「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官(見張り役)を巡回させたのだ。
目とか耳なんて、おもしろい呼び名だね。

アッシリアが厳しい支配をして崩れたことと反対に、アケメネス朝は「服属した民族の文化に対して寛容に対応した」とよく言われる。

宗教的にはゾロアスター教が信仰され、ダレイオス1世もゾロアスター教の神々のパワーによって即位したんだとされることも多いけれど、この時代の信仰が果たして後の時代のゾロアスター教と同じものか、実際に信仰されていたのかは、よくわかっていない。


史料 ダレイオスのべヒストゥーン碑文
余はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大なる王、諸王の王、パールサ(ペルシア)の王、諸邦の王、ウィシュタースパの子、アルシャーマの孫、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。
王ダーラヤワウは告げる、余の父はウィシュタースパ、ウィシュタースパの父はアルシャーマ、アルシャーマの父はアリヤーラムナ、アリヤーラムナの父はチャイシュピ、チャイシュピの父はハカーマニシュ。
王ダーラヤワウは告げる、このゆえに、われらはハカーマニシュ家と呼ばれる。往昔よりわれらは勢家である。往昔よりわれらの一門は王家であった。
王ダーラヤワウは告げる、我が一門にしてさきに王たりしは八人、余は第九位。二系にわかれて九人、われらは王である。
王ダーラヤワウは告げる、アウラマズダーの御意によって余は王である。アウラマズダーは王国を余に授け給うた。

王ダーラヤワウは告げる、余に帰属したこれらの邦々-アウラマズダーの御意によって余はその王となった。パールサ、ウーウジャ、バービル、アスラー、アラバーヤ、ムドラーヤ、海辺の人々、スパルダ、ヤウナ、マーダ、アルミナ、カトパトゥカ、パルサワ、ズランカ、ハライワ(アレイア)、ウワーラズミー、バークトリ、スグダ、ガンダーラ、サカ、サタグ、ハラウワティ、マカ、計、二十三邦(ダフユ)。

ベヒストゥン碑文古代ペルシア語版、第一欄冒頭。伊藤義教 『古代ペルシア』岩波書店、1974年。
ペルセポリスにのこる様々な民族をあらわしたレリーフ Photo by A.Davey, CC BY 2.0 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f6/Xerxes_all_ethnicities.jpg




ともあれ、ここでゾロアスター教について少し説明しておこう。
ゾロアスター教の寺院では火が焚かれ、その火を介して「光の神アフラ=マズダ」を拝むことになっている。「悪の神アーリマン」を打ち破れば、この世が終わるときに開かれる裁判(最後の審判)で光の神の後押しを受けて “楽園” に行けるはずだというわけだ。

神の数を「1つ」に変えれば、ユダヤ教やキリスト教と似ているよね。
ゾロアスター教の教えは、東西に広く影響を与えたんだよ。




また、ダレイオス1世は、金や銀を管理してコインを発行し、税の制度も整えた。
フェニキア人の交易活動に協力することで、富を集めようとしたんだ。
陸上交通においても、アッシリアと同じように道と駅を整備し、メソポタミアのスサという都市から小アジアのサルデスまでの幹線道路(「王の道」)を整備した。

ちなみに”学問に王道はない”―という言葉の「王道」は、もともとはこの”王の道”のことを指すんだよ。それぐらい有名な道だったんだ。

この「王の道」を西に進んだ先にあるのは、ギリシャの都市国家。
前5世紀前半(今から2500年前ころ)に、商業的な進出を狙い、フェニキア人とも連携してこのギリシャの都市国家と戦った。



しかし都市国家アテネを中心とする海軍は強大で、3度の遠征を経て敗北を喫する(ペルシア戦争)。

最終的には、ギリシャ北部のマケドニア王国の王様アレクサンドロスによって、前330年(今から2350年ほど前)に征服されることとなるよ。

追記:2023/01/24


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊