見出し画像

ボリバルとは、何者か? 資料でよむ世界史 11.3.1 ラテンアメリカの独立 ボリバルの『ジャマイカ書簡』

この記事は、「11.3.1 ラテンアメリカの独立 世界史の教科書を最初から最後まで」とリンクしています。


コロンビア、ベネズエラ、エクアドル…。

ラテンアメリカにある国々のほとんどは、19世紀初めにスペインと戦い、独立を勝ち取った国々だ。

しかし、新たに独立した国々には、じつにさまざまな人々が暮らしていた。

まず、植民地に赴任したスペイン人。
さらに植民地生まれのスペイン人(クリオーリョ)。
先住民(インディオ)。
先住民とスペイン人との混血(メスティーソ)。
奴隷としてアフリカ大陸から連れられたアフリカ系の黒人。
などなど…。

このうち、独立を率いたリーダーは、植民地生まれのスペイン人(クリオーリョ)だった。

そのうちもっとも有名な人物の一人が、シモン・ボリバル1783〜1830だ。

ボリバルの名前は、「ボリビア」の名前に残っていて、ベネズエラ、コロンビア、エクアドルの独立に貢献し、現在でもラテンアメリカ諸国の近代化の立役者とみなされている。


ベネズエラでは、ボリバルはどんなふうに扱われている?

たとえば、ベネズエラ大使館のウェブサイトを見てみよう。
日本にとってあまり馴染みのないベネズエラという国の正式名称は、実は「ベネズエラ・ボリバル共和国」。
名前からして、いかにもボリバルを讃えているようだ。

画像1

このなかで、ボリバルの思想は次のように紹介されている。

ボリバルの政治的・社会的な思想や姿勢は、ボリバル主義(Bolivarianismo)と呼ばれる潮流の起源となりました。これは特に、団結・正義・自由・平等・民主主義という原則に基づいています。

このうち「平等」の項には、次のように記されている。

あらゆる人が、その出自、肌の色、社会階級、ましてや背が高いか低いか、肥っているか痩せているか、肌が白いか黒いかにかかわらず、社会の中で同じ権利と義務を持ちます。

しかし、彼自身は、アメリカ大陸生まれの白人(スペイン人)だ。
いまだに黒人奴隷が当たり前のように存在した時代である。
そんな彼が、本当にラテンアメリカに「平等」な国をつくろうとしていたのだろうか?

***

ボリバルのたどった道

ボリバルの生まれは、ベネズエラ。
彼はヨーロッパに学ぶものの、ベネズエラで独立運動が起きると、居ても立っても居られず、独立運動に加わることになった。
彼が着目したのは、イギリスだ。
イギリスの後ろ盾を得て、独立後はイギリスのような国づくりをするのが良いと考えていた。
1810年にはイギリス国王のもとに使節として派遣されたものの、交渉には失敗。その後、ラテンアメリカに舞い戻るも、スペイン王国派に反撃され、カリブ海のジャマイカへと亡命することになった。
『ジャマイカ書簡』は、このときに現地の新聞社編集長宛てに書かれた文章で、イギリス式の政治体制をもつ国の建設を構想したものだ。

しかし、イギリスからの援助をとりつける作戦は、結局うまく運ばず、ボリバルはその後、1815年には同じくカリブ海のハイチに渡ることに。
すでに1804年に独立を勝ち得ていた国だが、その後の島は、フランスの残したプランテーション農園をめぐり、共和国と王国に分裂してしまっていた。ボリバルはこのうち、共和国の大統領に近づき、援助を得ることに成功する。その代わり、ラテンアメリカ諸国が独立した際には、奴隷を解放することを約束した

彼はその後、現在のベネズエラ、エクアドル、コロンビアのスペインから解放に成功し、ここを大コロンビア共和国を建設し、彼自身は大統領任1819〜1830に就任する。
大統領に就任したボリバルは、ハイチでの約束どおり、1819年に奴隷制を廃止した。

***

ジャマイカ書簡


ボリバルは黒人奴隷を解放した。

この事実だけを抜き出して、ボリバルを語ることもできるだろう。

しかし、実際の彼の思想は、そんなに単純なものではない。

ボリバルは「黒人奴隷」のことを、どのように考えていたのか?
そして、
ボリバルは「白人」のことを、どのようにとらえていたのか?

黒人奴隷と白人に対する彼の見方に注目することで、スペインからの独立と、さまざまな人種を含む元・植民地の近代化に直面していたボリバルという男の多面性を浮かび上がらせていくことはできないだろうか。

***

「ベネズエラ国民」とは、誰のことか?

それを探っていくのに、うってつけの史料がある。
彼の残した『ジャマイカ書簡』という手紙だ。

シモン=ボリバル『ジャマイカ書簡』(1815年)

(前略)この広大な大陸の各地にわたって住んでいる原住民、アフリカ人、スペイン人、そして混血人種の諸集団からなる1500万から2000万におよぶ住民の中で、白人がもっとも規模の小さな集団であることは確かな事実です。

しかしながら、白人こそが知的資質を備えていることも事実で、そのおかげで白人は他の集団に劣らぬ地位を獲得し、道徳の面でも物質的な面でも、他の集団にはいずれも不可能だと思われるほどの影響力を発揮してきたのです。

有色人種
との数の上での差異にもかかわらず、こうした白人に与えられた条件からは、あらゆる住民の統一と調和にとって最良の考えが産み出されるのです。...
(出典:『世界史史料7』岩波書店、2008年、207-208頁)

ボリバル自身は、植民地(ベネズエラ)生まれの白人である。


その彼は、黒人をはじめとする有色人種を、独立後の国のメンバーに加えるかどうかについては、きわめて慎重な立場をとっていた。
むしろ有色人種に対する「恐れ」に似た感情を持っていたようだ。

では、もともとアメリカ大陸で暮らしていたインディオ(先住民)については、どのように扱うべきだと考えていたのだろうか。

(続き、中略)新世界にスペイン人が到来した際、インディオは彼らを、人間ではあれ、人間を超越した存在だとみなしました。注目すべきは、白人にたいする彼らのそうした見方は、今もなお完全に消え失せてはいないということです。


こんなふうにボリバルは、インディオは穏やかな性質を持っており、スペイン人に歯向かったりはしないとして評価する。ようするに無害だから問題ないということだ。その上で、

「......インディオと白人は全住民の5分の3を占め、これに双方の血を受けついだ混血メスティーソ住民を加えるなら、その合計は著しい数にのぼり、結果として有色人種に対する怖れは弱まることとなります。(後略)」

(出典:『世界史史料7』岩波書店、2008年、207-209頁)


とし、なるべく白人に導かれる形で有色人種を封じ込め、しかも次第に先住民の血を薄めていくべきだとも考えていたのだ。


このように、ボリバルにとっての夢は、ラテンアメリカ諸国を、あくまで白人主導で解放し、イギリス型の共和政国家を樹立すること、さらに、ゆくゆくはラテンアメリカ全体をひとつの連邦国家としてまとめることにあった。
もちろん当時の情勢や彼の立場を考えれば、彼がこころみようとしていたことに一定の限界があったのは無理もない。
しかし、『ジャマイカ書簡』を紐解いてみると、そこにラテンアメリカ諸国が歩むこととなる複雑な道のりの芽が、すでに顔をのぞかせていることにも気付かされるのだ。

参考文献


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊