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1-3-4-2. 新科目「歴史総合」をよむ 「西洋の衝撃」と東アジアの国際関係

※1-3-4. 「明治維新と東アジアの国際関係」から「東アジアの国際関係」を分割しました



メイン・クエスチョン
「ウェスタン・インパクト」によって、東アジアは大きな影響を受けた」という説明は、どの程度正しいと言えるだろうか?

よくある説明
「1840年に始まるアヘン戦争を皮切りに、欧米諸国によるアジアに対する進出は激しさを増していった。
 西洋の衝撃(ウェスタン・インパクト)を受ける中、例外的に日本は近代化=西洋化を果たし、近代化=西洋化を果たせなかった中国(清)や朝鮮をしのぐ存在となっていった。」



 この説明(下図のα)は、「西洋の衝撃」(ウェスタン・インパクト)に対して、東アジア諸国が受動的に対応を迫られたという点、それに(2)「西洋」と「東アジア諸国」(日本・中国・朝鮮など)の対立という単純化した構図によって把握するものである。

 
 そうした説明に代わり、(1)「西洋の衝撃」を踏まえた、東アジア諸国による主体的な対応に注目すること、さらに(2)「東アジア諸国」内部の諸国・諸地域
(日本、中国、朝鮮、琉球など)の相互の絡み合いに注目してみると、この時期の東アジアの国際関係の変容を、どのようにとらえることができるだろうか?(下図のβ


■東アジアの国際関係

サブ・クエスチョン
「ウェスタン・インパクト」によって、東アジアの国際関係はどのように変化したのだろうか?

サブ・サブ・クエスチョン
「開国」によって、開港場ではどのような状況が生まれたのだろうか?

 当時の東アジアの国際関係は、中国(清)を中心とする|冊封《さくほう》=朝貢体制に基づいていた。

 しかしすでに、清の場合は戦争、日本や琉球王国の場合は砲艦外交により、欧米諸国に対する「開国」を強制され、開港場における貿易が始まっていた。
 東アジアにおける「開国」は、ヨーロッパに対する「開国」のみならず、アジア諸国・諸地域相互に対する「開国」でもあったのである(米谷2006)。



 とはいえ清は、欧米諸国とは条約を結んで通商を行いながら、他方でそれまで取り冊封・朝貢関係を周辺国と維持していた。
 清の冊封を受けていた朝鮮は、攘夷じょうい政策を堅持しており、海禁を保っていた。

 そのような中、勝海舟かつかいしゅうのように、清と朝鮮と日本が対等な関係を取結び、交易によって国力をつけ、欧米列強に対抗していこうとする主張も存在した。

資料 勝海舟(1863年4月27日)が木戸孝允らを迎えた際の回想
文久の初、攘夷の論、はなはださかんにして、摂海守衛の説、亦囂々ごうごうたり。予、建議して曰く宜く其規模を大にし、海軍を皇張し、営所を兵庫、対馬に設け、其一を朝鮮に置き、つい支那シナに及ぼし、三国合従連衡がっしょうれんこうして、西洋諸国に抗すべしと。朝廷〔孝明天皇〕、予の建議を賞美し、昭徳公〔将軍家茂いえもち〕亦之を嘉納す。

(出典:『勝海舟全集1幕末日記』講談社、1976年、86-87頁)

 明治新政府は、幕末から新政府成立後に締結された不平等条約(幕府の締結した安政の五カ国条約、改税約書、新政府の締結した日墺修好通商条約)を、安政の五カ国条約の改定期限(1872年7月1日)前に改定するために、欧米の国際法(「万国公法ばんこくこうほう」と呼ばれた)に立脚して国内法を整備し、欧米諸国を中心とする主権国家体制への参加を進めようとした。



 1871年には岩倉具視いわくらともみ(1825〜83)を代表とする岩倉使節団が、「(1)米欧の条約締結国14 カ国へ聘問の礼をとること、(2)条約改正の予備交渉をすること、(3)西洋諸国の制度・文物の視察・調査を行うこと(参考:長谷川栄子「岩倉使節団成立過程の再検討—『岩倉具視関係史料 』所収の新出書簡を用いて」)」を目的として、欧米に派遣された(実際に条約交渉を行ったのはアメリカとの間のみ)。
 欧米の政治・経済・文化を目のあたりにしたことで、新政府を欧米をめざす近代化に向かわせることとなった。

 以後、日本は主権国家体制の論理を、東アジアに持ち込んでいこうとする。
 日本と清との間には、1871年に日清修好条規が結ばれた。両国の間では、これにより国交と通商関係がはじまった。
 条約は基本的に平等な条約だったが、この条約の位置付けには、日本と清の間でズレがあった。

【資料】『大久保利通日記』(1874年10月31日)
1874年に清政府との外交交渉を終えた大久保利通の感想
「今日和議成条約調印相済み、実に安心この上なし。(中略)是迄これまで焦思苦心言語のつくす所にあらず、生涯またかくのごときことのあらざるべし。」

(出典:国立国会図書館デジタルコレクション、 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075745 『大久保利通日記 下巻』コマ番号180を参照)


 清の冊封を受けつつ薩摩藩に服属していた琉球王国に対しては、1872年に琉球藩を置き、琉球と清との冊封関係を断絶しようとしていたが、1879年には沖縄県を設置して日本の一部であることを明確化しようとした。これを琉球処分という。

 そんな中、琉球宮古島の島民が台湾の住民に殺害される事件が起きる。これを口実に、日本政府は台湾に派兵した。これを台湾出兵という。
 しかし、日本にとって、軍備の西洋化を進めていた清はなおも脅威であった。清の戦争を避け、琉球が日本統治下にあることを認めさせようと、政府の中心にいた大久保利通おおくぼとしみちは、みずから北京で和平交渉をおこない、事件の処理にあたっている。


サブ・クエスチョン
明治維新以降、日本では朝鮮の文明化を推進しようとする議論や運動が高まっていったのだろうか?

 日本は、朝鮮との関係にも変更を加えていった。 
 日本は、外交文書に日本の君主をあらわす語として「皇」の文字を用いようとした。中国を中心とする華夷秩序において「皇」の文字は、中国皇帝のみが使うことのできるものとされていたからだ。しかし、朝鮮は、日本側が上位に立とうとしていると判断し、文書の受け取りを拒否した。
 |西郷隆盛《さいごうたかもり》(1827〜77)は朝鮮に軍事行動をおこすべきとする征韓論の論陣を張ったが、政府内で否定されると、下野げや。西郷らは、身分制の解体に不満をもっていた旧武士(士族)勢力とむすびつき、西日本を中心に反乱をおこした。このうち最大のものが、西郷の率いる西南戦争だった(1877年鎮圧)。

 西郷隆盛の主張は、武力による朝鮮の侵略という面のみが強調されることが多いが、実はアジアの連帯を説く点で、勝海舟の主張に連なるものとみなすこともできる。
 そこには、欧米列強に立ち向かうために、アジア諸国の連帯を目指す動き(=連帯の側面)を、武力で強制する(=侵略の側面)の両者が混在している

 果たして1875年、日本は軍艦を朝鮮に送り、戦闘をおこした(江華島事件)。これをきっかけに日朝修好条規が結ばれ、朝鮮は開国された。1882年に朝鮮は、清のすすめもあり、清との冊封関係を維持したまま、アメリカ合衆国などと条約を結んだ。

 当時の朝鮮王宮内では、大院君が支配権をにぎっていたが、これに敵対す閔氏びんし側に日本が接近していた。
 しかし、同年、日本の支援を受けて行われた朝鮮の軍政改革に不満を持つ兵士が反乱をおこし、日本公使館が襲撃された。これを|壬午軍乱《じんごぐんらん》という。
 これを機に閔氏は清に接近し、日本から距離をとるようになった。

 しかし、朝鮮国内には、朝鮮王朝に批判的な勢力もあった。金玉均キムオクキュンや朴泳孝らの開化派(独立党)である。
 金玉均は、外務卿がいむきょうの井上かおる、福沢諭吉、自由党の後藤象二郎ごとうしょうじろうとも接触し、近代化を果たしつつあった日本と連携する道を探っていた。

資料 福沢諭吉「朝鮮の交際を論ず」
「其〔朝鮮の〕内国の治乱興廃、文明の改進退歩に就ても、楚越の観を為す可きに非ず。彼の国勢果して未開ならば、之を誘ふて之を導く可し。彼の人民果して頑陋がんろうならば、之にさとして之に説く可し。…(中略)我武威を示して其人心を圧倒し、我日本の国力を以て隣国の文明を助け進るは……あたかも我日本の責任と云ふ可きものなり。

(出典:「朝鮮の交際を論ず」『時事新報』1882年3月11日、『福沢諭吉選集』第7巻所収。米谷:2006より重引)


 金は漢城(現・ソウル)の日本行使と連絡をとりあい、閔氏政権に対するクーデタ(1884年、甲申政変こうしんせいへん)を決行した。
 しかし、閔氏と結んだ清軍の介入を招き、失敗に終わる。

資料 写真:ソウルの独立門

Photo by Rtflakfizer、CC 表示-継承 4.0 File:Seodaemun Monument, Seoul.jpghttps://ja.wikipedia.org/wiki/独立門#/media/ファイル:Seodaemun_Monument,_Seoul.jpg

同地にかつてあった迎恩門
(パブリックドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/迎恩門#/media/ファイル:Yeongeunmun_Gate.JPG)

 壬午軍乱、甲申政変ともに、日本と清の軍隊が朝鮮半島で軍事行動をとったことから、両国関係は急速に悪化した。そこでいったん同時に撤兵し、今後朝鮮に派兵する際には相互に通知することを取り決め、事態の収束が図られた。結果として、朝鮮半島に対する清の発言力が高まることとなった。

 1884年の甲申政変の失敗は、従来より朝鮮の近代化を目指していた日本の支援者らに衝撃を与えた。1885年の3月16日、新聞『時事新報』に「脱亜論」と称する論説を掲載した福沢諭吉も、その一人である。

資料 福沢諭吉「脱亜論」(https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96)
世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、至るところ、草も木もこの風になびかないことはない。西洋の人物は古代と現在に大した違いはないのだが、その活動が古代は遅鈍、今は活発なのは、ただ交通の機関を利用し、勢いに乗じるがためである。ゆえに最近、東洋に国がある民のために考えると、この文明が東に進んでくる勢いに抵抗して、これを防ぎきる覚悟であれば、それもよい。しかし、いやしくも世界中の現状を観察し、事実上それが不可能なことを知る者は、世の移りにあわせ、共に文明の海に浮き沈み、文明の波に乗り、文明の苦楽をともにする以外にはないのである。文明とは全く、麻疹はしかの流行のようなものだ。目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするにしても、果してその手段はあるだろうか?筆者はその手段は断じてないことを保証する。有害一辺倒の流行病も、その勢いにはなお抵抗できない。いわんや利益と害悪がともない、常に利益の多い文明はなおさらである。これを防がないばかりではなく、つとめてその普及を助け、国民を早くその気風に染ませることが知識人の課題である。
近代西洋文明がわが日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる老害の幕府というものがあり、これはいかんともできなかった。幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができない。なぜかといえば近代文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからである。だからといって、文明をふせいてその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できなかった。なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからだ。ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、また、さいわいに神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立てた。政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。
わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移っている。しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないのである。だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べれば支那・韓国はよほど似ているのである。この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすことにならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たない者のようだ。筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・韓国の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれを避けようとして室内に閉じこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大不幸というべきである。
そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。
(青空文庫、https://www.aozora.gr.jp/cards/001138/files/47057_57486.html)

 『脱亜論』は、慶應義塾に朝鮮人留学生を受け入れ、朝鮮を近代化させることで、いまだに文明を知らない朝鮮を導こうとしていた福沢の挫折を物語る論説であったということになる。



 この甲申政変の失敗後、金玉均や朴泳孝は日本に亡命。これに対し、自由党左派で自由民権運動を推し進めていた大井憲太郎おおいけんたろうらが1885年、開化派を支援し政権を樹立する計画を立て、事前に発覚し検挙されるという大坂事件がおきた。
 朝鮮で配布される予定であった檄文においては、「文明」や「自由」をもたらすために、清の影響力を排除し朝鮮の政府を打倒するべきことが論じられているが、自由党左派は日本国内においても、「自由」の障害であった藩閥政府を打倒する運動を同時に展開しようとしていた。ここには「文明」を自認し、欧米の文明をとりいれることで、アジアの隣国に介入しようとする姿勢がうかがえる。

資料 「朝鮮ノ地主ヲ告グル檄」
「日本ノ義徒、檄シテ宇内うだいノ人士に告ぐ。朝鮮ハ自主ノ邦ナリ。……(中略)
 朝鮮ノ先業ヲ恢復かいふくシ、自主ノ邦トナシ、以テ清人ノ羈絆きはんぎょシ、清人暴タルノあとヲ絶チ、欧米文明ノ化ヲ播カント欲スルハ、
まことニ朝鮮国王ノ心ナリ。朝鮮国民ノ志ナリ。」

Q. この檄文を通して、自由党左派は、朝鮮に何をもたらそうとしているだろうか?

(出典:松尾章一・松尾貞子編『大坂事件関係史料集』上巻、日本経済評論社、1985年。米谷:2006より重引)

 なお、甲申政変と大坂事件が起きた1884年から1885年にかけて、清と冊封・朝貢関係にあった阮朝ベトナムに対して、フランスが植民地進出を強め、ベトナムをめぐり1884〜1885年に清仏戦争が起きている。
 これに清が大敗すると、ベトナムはフランスの保護国となり、のちにフランス領インドシナの一部に組み込まれることになった。
 また一つ、清を中心とする華夷秩序かいちつじょが、欧米列強によって崩されていったわけである。


 末尾になるが、幕末から進出していた蝦夷地(アイヌ=モシリ)は北海道と改称され、その他の府県とは別の統治体制がしかれた。日本本土から移民が増加し、アイヌの人々の生活の場は失われていった。


 

参考文献
南塚信吾秋田 茂高澤紀恵・編(2016)『新しく学ぶ西洋の歴史:アジアから考える』ミネルヴァ書房
坂野ばんの潤治(1977=2013)『近代日本とアジア: 明治・思想の実像 』創元社(『明治・思想の実像』)=ちくま学芸文庫
米谷 匡史(2006)『アジア/日本』(思考のフロンティア) 、岩波書店
・赤野孝次(1995)「福沢諭吉の朝鮮文明化論と「脱亜論」」『史苑』 56(1)、5-22頁、https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1394&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

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