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1.3.8 迫害から国教化へ 世界史の教科書を最初から最後まで

ユダヤ人だけではなく人類全体が救われる―一つの「民族」の枠を超える宗教へと発展したキリスト教は、ローマで着実に信徒を増やしていった。

しかし、ローマ帝国の皇帝は、ローマの神々をまつる儀式を市民に強制。これに対してキリスト教徒は儀式への参加を拒否した。

するとキリスト教徒は、市民としての義務を履行しない「反社集団」とみなされ、激烈な弾圧を受けることとなったんだ。

たとえばネロ帝(在位54~68)のとき、ローマの大火の責任がキリスト教徒に向けられ、使徒のペテロやパウロが殉死に追い込まれたとされている。

みずからを神として崇拝させたディオクレアヌス帝のときには”最後の大迫害”といわれる迫害も起きている。

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しかし313年に、コンスタンティヌス帝が信仰を公認。
324年には教義を確定させるための聖なる会議がニケーアというところで開かれた。これをニケーア公会議というよ。
この会議では、キリスト教の正統教義として、イエス=キリストと神を同一視するアタナシウス三位一体説(さんみいったいせつ)が採用された。

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それに対して「異端」(いたん)とされたのが、イエス=キリストを人間と見なすアリウス派だ。
それじゃあ、イエス=キリストの言葉は、単に「人間の言葉」になっちゃうから、ありがたみがなくなっちゃうでしょ。
人間は”間違える”存在だからね。

アタナシウスの説のように、「イエス=キリストと神は”同質”だ」と言ってしまったほうが、たしかに理屈は通らなくなるかもしれないけど、神秘的で奥も深い。



そういうわけで、ニケーア公会議での決定事項は、その後381年のコンスタンティノープル公会議でマイナーチェンジされ、ながらくキリスト教の正統教義となっていくんだよ。
異端とされたアリウス派は、ローマ帝国の外で布教され、特にゲルマン人の間に広まっていくことになる。


ローマ皇帝のユリアヌス(在位361~363)のときに一時期ローマの多神教が復活されたものの、ゲルマン人の大移動後の即位したテオドシウス帝は、キリスト教を国教とし、それ以外の宗教を禁止した。ローマ帝国をキリスト教のネットワークを使って統一しようとしたようだけれど、ローマ帝国の衰退を止めることはもはやできなかった。

ともあれ、ローマの国教というポジションを獲得したキリスト教は、教会組織を発達させ国との結びつきを強めていくよ。

パレスチナで生まれてローマの弾圧を受けたイエスの教えが、ローマ帝国の国教にまで発展するなんて、なんだか皮肉だね。

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