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新科目「歴史総合」を読む 1-3-9. 植民地支配と植民地の近代、そして人種主義

サルコジ大統領は、フランスの植民地支配についてどのようにとらえているのだろうか?

資料 サルコジ大統領による演説(2007年7月26日、ダカール大学 シェイク・アンタ・ディオップ 講堂にて)―植民地主義者の「記憶」
「私は過去を消すために来たのではない。なぜなら過去は消すことができないからである。私は過 ちや罪を否定するためにきたのではない。なぜなら幾度の過ちや罪が存在したからである。奴隷 貿易があった、奴隷制があった、男や女、子どもが商品として売買された。そしてこの罪はアフリカ 人だけに対する罪なのではない。人間に対する罪であり、人道全体に対する罪であった。......こ の黒い人間(l’homme noir)の苦悩は、すべての人間の苦悩でもある。黒い人間の魂にある消える ことのない傷は、すべての人間の魂にある消えることのない傷である。」 「過去の過去の世代によって犯されたこの罪を償うことを現在の世代に要求することなどできな い。父親たちの過ちを悔い改めるよう息子たちに要求することなどできない。私は奴隷貿易や奴 隷制を人道に対する罪であると強く感じている、と言うために来たのである。私はあなた方の別離 や苦悩は私達のであり、私のでもあると言うために来たのである。私は、アフリカ人とフランス人が そのような別離や苦悩を乗り越えて、お互いに見つめ合うことを提案するために来たのである。」
「植民地主義者が来て、植民地主義者たちのものではない資源や富を奪い、利用し、搾取し、だまし取っ た。植民地主義者は植民地化された人々から人格、自由、土地、成果、労働を奪った。植民地主義者は奪ったが、私は植民地主義者はまた与えた、と敬意をもって言いたい。植民地主義者は橋を、道路を、病 院を、診療所を、そして学校を建設した。植民地主義者は手つかずの土地を豊かにし、苦労し、労働し、知恵をつかった。すべての植民者が盗人ではなく、すべての植民者が搾取者ではない、と私はここで言いた い。植民者のなかには悪い人間もいたと同時に、良い志をもった人間もいた。そのような人たちは文明化の 使命を達成することを考えていた。善を行うことを考えていた。...植民地化が現在のアフリカにおけるすべ ての困難に責任を負っているのではない。......植民地化は大きな過ちであったが、この大きな過ちは共通の運命への萌芽を生み出した。......」

(出典:加茂省三「フランスからみたアフリカ:サルコジ大統領のダカールでの演説より」『地域研究』 9(1), 168-188, 2009年


■植民地の政治的・経済的支配

メイン・クエスチョン
上記の資料内でサルコジ大統領は「植民地主義者は奪ったが、私は植民地主義者はまた与えた」と述べている。実際に帝国主義諸国は、植民地をどのように支配したのだろうか?


 帝国主義の政策をとった国々は、どのように植民地を支配したのだろうか。

アフリカの事例


イギリスの場合

 列強諸国がアフリカ大陸を植民地支配していく際、特許会社、宣教師や探検家を派遣して、現地の首長と個別に条約を締結し、保護下に置く形をとった。しかし特許会社の経営が立ち行かなくなると、列強諸国は直接支配に切り替えていった。

 イギリスの東アフリカ保護領(現ケニア。1920年7月以降は、ケニア植民地・ほごりょう)では、1902年に王地条例が発布され、ケニア中央部の広大な農業適地をイギリス国王の土地とみなすと宣言し、農民からとりあげた。これをホワイト・ハイランドという。


 取り上げた土地は99か年の期限で白人入植者に貸付け、茶のプランテーション経営などが活況を呈した。
 そこで働く農業労働者として、南アフリカのボーア人やイギリスの没落貴族・農民が入植したほか、住民たちに人頭税・賦役を課し、インフラ整備や労働力を徴収した。
 その徴収制度として導入されていったのが行政首長制である。

資料 イギリスのケニア支配

 税金が導入されると、それを効率的に徴収する制度が必要になってくる。それが行政首長制であった。もともと首長など存在しなかった無頭制の社会に、むりやりチーフやアシスタント・チーフ〔という役職〕を「捏造ねつぞうし」て「原住民による原住民支配」を装おうとしたのだ。こうした発想の背景には、ヨーロッパの「未開社会」に対するパターン化した認識がある。つまり、ヨーロッパの「文明国」は民主的な契約に基づいて国家を形成するが、「未開」なアフリカ人は首長のもとで停滞的な「部族生活」を営んでいるというイメージである。それは、アフリカ社会に彼らが実際に侵入する以前にヨーロッパにおいて発明されたものだった。
(中略)
植民地の成立によって、ケニア社会は世界経済の中に周縁部として組み込まれた。そこにおいてはサイザル麻やコーヒー、皮革、トウモロコシなどの一次産品をヨーロッパに提供することが求められた。この巨大なシステムへの包摂の過程で、アフリカ人農民の中にはそれに積極的に適応して商品生産に励む者も出現した。その結果、第一次対戦前には皮革、トウモロコシ、胡麻などを中心にケニアの輸出総額の4分の3近くは、アフリカ人農民の手によって生産されていた。
(中略)
トウモロコシで成功したケニアのアフリカ人農民は、次に、より利潤のある輸出商品としてコーヒーに着目した。(中略)〔白人の〕入植者の組織であるケニア・コーヒー会議は、政府に絶対にアフリカ人に栽培を認めないように強力に働きかけた。(中略)彼らはアフリカ人が植えたコーヒーの気を引き抜き、1933年にはロンドンまで出かけてイギリス政府や議会の実力者に強談判こわだんぱんした。その結果、最後には思い通りにアフリカ人排除の保証をとりつけてしまったのである。
(出典:宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史 改訂新版』講談社現代新書、2018年、341-344頁)


Q1. イギリスは東アフリカをどのように支配したのだろうか?
Q2. 植民地支配は、ケニアの人びと自身による経済活動にどのような影響を与えたのだろうか?

(参考)「間接統治方式とは、現地の支配者・支配機構(伝統的首長や王)をそのまま利用して住民を統治する図式を言う。伝統的首長を(住民がそう認めているかどうかは別として)住民の支配者としてイギリスが認め、アフリカ人住民をアフリカ人首長が支配し、イギリス植民地行政官はその監督にあたるというきわめて巧妙なやり方である。」(出典:宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史 改訂新版』講談社現代新書、2018年、347頁)

 


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フランスの場合

 一方、フランスの植民地では、イギリスと異なる統治方式がとられた。
 植民地をフランス本国の延長として扱う「同化アシミラシオン」政策がとられ、「人権宣言」に盛り込まれたフランス革命の理念を植民地に裨益させようとしたのだ。

資料 植民地膨張政策の強力な推進者、ジュール・フェリーの演説
「繰り返し申し上げますが、優等人種には(武力によって植民地化するという)一つの権利があるのです。なぜなら優等人種には一つの義務があるからです。すなわち劣等人種を文明化するという義務です」

 その発想の原点はフランス革命中の1795年に制定された共和暦三年の憲法中の、植民地を「共和国の不可分の一部」とする規定であり、1848年に成立した第二共和政(1848〜1852)下では、セネガルのサンルイとゴレ島から、「完璧なフランス語」を話す黒人議員がフランス国民議会に送られることになった。


資料 フランスによる植民地統治
「セネガルの4つの「コミューン」〔筆者注:フランス本国の地方自治体と同一の地位をもつ〕住民はフランス市民権をもった「黒いフランス人」となったのである。……完璧なフランス語を話す黒人議員がフランスの国民議会に登場し、セネガルの4つの「コミューン」はフランスの同化政策の輝かしい見本となったのである。しかし、こうした制度的「同化」は、第二次世界大戦後の第四共和政(1946〜1958)の成立までは、セネガルの4つの「コミューン」以外のアフリカ植民地には適用されることはなかったし、また、アフリカ人の市民権には実はさまざまな制約がもうけられていた。
 フランス植民地主義の「同化」思想が最も大きな影響を与えたのは、植民地エリート養成のための教育においてだった。イギリス領でミッションによる現地語教育がしばしば行われたのとは対照的に、フランス領アフリカ植民地では、実質的にフランス語のみが教育言語とされた。」(出典:宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史 改訂新版』講談社現代新書、2018年、357頁)

Q. フランスによるアフリカの植民地統治は、イギリスのものと比べ、どのような特徴があったのだろうか?

資料 ダホメ王国の王

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The King of Dahomey's levee, 1793. Plate 1 from The History of Dahomey by Archibald Dalzel 
ダホメ王国(現ベナン)は奴隷貿易で栄えたが、1892年にフランスに保護国化された。現地のアフリカの人びとの社会は「野蛮」なものとして、「文明」に対置された。


 フランス式の教育を身につけ、高等教育を受けることのできたごくわずかなアフリカ人たちは、やがて自らのアイデンティティに対して懐疑の目を向けるようになっていく。
 先取りする形で、フランツ・ファノン(1925〜1961)というカリブ海植民地出身の精神科医・思想家を紹介しておこう。

 彼は主著『黒い皮膚・白い仮面』において、植民地支配を受けた植民地のアフリカ系の人びとが、白人=フランス人よりも劣った「黒人(ニグロ)」としての自己イメージを持つに至り、それがいかに植民地の人びとの精神を引き裂いていったのか、彼自身の心の奥底にも立ち入りながら論証していった。

資料 植民地におけるフランス語の意味
「『黒い皮膚・白い仮面』の「黒人と言語」のなかで、ファノンは白人の黒人(およびアラブ人などの被植民者)に対する言葉遣いの傾向に注目します。多くの白人たちが、黒人に対して対等な言葉遣いをせず、まるで小さな子供を相手にするときのような片言で話しかけるところに、抜きがたい差別意識を見てとります。
 この「片言で話す」の「片言で」の原語は、petit-negreという表現ですが、これはフランス植民地の黒人たちが話すとされる単純化された構造のフランス語、ひどいフランス語のことです。「二グロの話すフランス語」という差別的なニュアンスがあります。(中略)

〔フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』より引用〕
ニグロに対して片言で話すということは、彼を不快にする。なぜなら、彼は「片言を話すもの」となるからだ。もとより、不快にしようという意図も、意志もないのだと言うかもしれない。これは認めてもよい。だが、まさに、この意志の欠如、この無造作、この無頓着、このくつろぎ、こういった態度で彼を見つめ、彼を身動きできなくさせ、原始人扱い、非文明人扱いすることこそ、不快を与えるのである。
(出典:小野正嗣『NHK 100分 de 名著 2021年2月 フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』』NHK出版、2021年)

資料 「バナニア」というフランスのチョコレート飲料の広告

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「おいしいバナニアあるよ!」という文法的に間違ったフランス語とともに描かれたセネガル兵のイラスト


資料 カリブ海のマルティニーク島出身の詩人エメ・セゼールの見方
『植民地主義論』改訂版(1955 年)
「現代社会における植民地事業は、古代世界におけるローマ帝国主義に均しい。すなわと災厄の露払い、破局の先触れなのだ。何だって? 虐殺されたインド人たち、事故を奪い去られたイスラーム世界、たっぷり 1 世紀にわたって汚され、歪められ続けた中国世界、価値を失墜させられたニグロ世界、永久に消し去られてしまった厖大な声、散り散りに引き裂かれた家族、これらすべての破壊、これらすべての消費、対話者不在(モノローグ)に陥った人類、あなた方はこうしたことすべてがただで済むとでも思っているのか? 真実はこうだ。この政策の中には、ヨーロッパ自身の破滅が内在している。そして、放置しておけば、ヨーロッパは自らが周囲に作り出した空隙のゆえ に破滅することになるだろう。」
(出典:エメ・セゼール『帰郷ノート/植民地主義論』平凡社、1977 年、171 頁)




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サブ・クエスチョン
列強諸国の支配に対して、植民地の人々はどのように対応したのだろうか?


 列強諸国とアフリカの人々の間には、圧倒的な軍事的格差があった。支配に当たっては機関銃が用いられ、大量虐殺の命令がくだされたこともあった。

 植民地化され初めてから、あるいは植民地化されて間もなく引き起こされたアフリカ人による抵抗のことを「初期抵抗」と呼ぶ。その多くは鎮圧されたが、このときに主張された多様な民族意識は、その後自治・独立運動の際に再び呼び起こされていくことになる。

資料 ドイツの東アフリカ植民地(現タンザニア)におけるマジマジ反乱(1905〜1907年)
「キロサの駐在所ボマが実行ある支配を開始した当初、人々は雑穀を税金として支払っていた。その後すぐに、ヤギによる納税が導入され、最終的にルピーによる金納となった。雑穀やヤギは、どの家でも入手可能だったので難しくはなかったが、金納は混乱を招いた。人びとは、モロゴロ近くの豆やゴムのプランテーションに出稼ぎに行かねばならなかったからである。(中略)
 ホンゴ〔霊媒師〕と呼ばれていたチタリカが、イリンガ方面からやってきた。明かに、彼はへへ人だった。……ホンゴ自身は来なかったが、彼の追随者たちがヴィググにやってきた。ヴィぐぐ・チュミラという村の人々は、この報せを歓迎しなかったため、村は焼かれた。追随者たちは、ホンゴの薬を飲み雑穀の茎を身につければ銃弾から身を守れる、というメッセージを広めた。そうすれば、ヨーロッパ人の銃弾は水に変わるというのだ。そこで、ヴィドゥンダからムソンゴズィに至る村々のすべてのジュンべ〔村長〕は、村民が戦闘に参加し、ホンゴを支援することを許可した。(中略)」
(富永智津子訳『世界史史料8』岩波書店、310-311頁)

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インドの事例

サブ・クエスチョン
イギリスはインドをどのように植民地支配したのだろうか?
 インドは17世紀以降、イギリスによって各地の王国が支配下に組み込まれ、イギリス東インド会社が統治を担当した。

 しかし1857〜59年のインド大反乱の後、東インド会社が解散され1877年にインド帝国としてイギリス本国の直接支配下に入った。


 インド帝国では、現地の支配の頂点に立っていたのはイギリス人の総督で、高級官僚のほとんどがイギリス人だった。
 しかし、圧倒的多数のインド人を支配するためには、現地の協力者を得ることも不可欠だ。

 そこで重視されたのが、高等教育だ。英語を用いるエリートを養成することで、西洋的な価値観を身に付けさせ、イギリス人側に立たせようとしたのだ。こうして育った西洋的エリートの中には、ロンドンで学んだ弁護士ガンディーのように、民族運動に立ち上がる者も現れるようになる。一方、初等教育機関(小学校)の整備は立ち遅れ、多くの人々は教育から置き去りにされた。


資料 インド人として初めてイギリス議会の議員に選出されたD・ナオロージーの議会初演説(1892年)
「私がイギリスの選挙区で選出されたのは注目すべき出来事です。イギリスの統治が確立して1世紀以上たち、初めてインド人がイギリスの選挙区から議員として下院への登場を認められたのです。……いかなる躊躇もなく、西欧的教育、文明、政治的諸機関をインドに導入する措置が採られました。そしてその結果、インドの青年たちが教わり始めた高尚かつ崇高な言語に助けられて、偉大な政治的生命…の運動が、幾世紀にもわたって衰微してきたその国に注入されたのです。」
(内藤雅雄訳『世界史史料8』岩波書店、69-71頁、太字は筆者による)

※ナオロージーはインドのボンベイのゾロアスター商人の家に生まれ、ロンドンで貿易業に携わりつつ、政治活動に携わり、「富の流出」論として知られる理論のなかで、莫大な富がイギリスに「本国費」と称する植民地費用の捻出のために運び去られているとの批判を展開した。


 イギリスはインドを原料供給地とし、プランテーションや鉱山が開発・経営された。商品が現地人の手を介することなく安全かつ迅速に輸送されるため、鉄道の敷設は不可欠だった。
 しかし、インド人による産業がまったく発達しなかったわけではない。19世紀後半にはインドの綿花商が紡績業に進出し、利益をあげるようになったのだ。アメリカで起きた南北戦争でアメリカ産の綿花輸出が減ったため、インドの綿花が俄然注目を集めたのだ。


資料 アジア間貿易

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「世紀転換期〔筆者注:19世紀末〜20世紀初〕のアジアでは、日本・中国をふくむ東アジア、シンガポールや蘭領東インド(現インドネシア)、シャム(現タイ)をふくむ東南アジア諸地域、さらにインド・ビルマをふくむ南アジアを相互に結ぶ、アジア独自の地域間貿易が形成された。杉原薫が提唱した「アジア間貿易」(intra-Asian trade)がそれである。このアジア間貿易は、帝国主義の時代にありながら、欧米列強の植民地と、日本・中国・タイを経済的に結びつけ、成長率では植民地支配の本国である対欧米向けの貿易を上回った。……
世紀転換期以降のアジア間貿易の発展は、「インドの棉花生産⇔日本(大阪)とインド(ボンベイ:現ムンバイ)の近代綿糸紡績業⇔中国の手織り綿布生産⇔太糸・粗製厚地布の消費」という連鎖を中心に、その半分近くが面工業に関わる「綿業基軸体制」によって支えられていた。」
(出典:秋田茂・細川道久『駒形丸事件—インド太平洋世界とイギリス帝国』ちくま新書、2021年、25頁)

 日本からは綿糸・綿布のみならず、マッチや石鹸、洋傘などの日用雑貨品がインドに輸出された。1880年代から、大阪・神戸で軽工業(消費財生産)が盛んになっていたからだ(これら日用雑貨品のことを、歴史学者の秋田茂は「アジア型近代商品」と呼ぶ)。

 インド洋を取り囲む東南アジアやアフリカに移民として移住するインド人(印僑)も増えていった。南北戦争中に奴隷解放宣言が発表され、19世紀初め以降の黒人奴隷の廃止も、着々と進んでいたため、奴隷に代わる安価な労働力が求められたからだ(現在、インド国外でインド人の比率の多い国々には、どのようなところがあるだろうか? 調べてみると、かつてイギリスの植民地支配を受けた国々が多いことがわかるはずだ)。

 とはいえ、イギリスがインドに対する限定的な自治を認めたのは、第一次世界大戦後のこととなる。

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■日本の植民地支配

サブ・クエスチョン
大日本帝国は、植民地をどのように支配しようとしたのだろうか?



 日本は日清戦争で台湾を割譲され、台湾の植民地支配を開始した。
 さらに日露戦争中から戦後にかけて大韓帝国を保護国化していき、1910年には韓国併合を実施した。

 植民地の支配にあたっては、フランスの植民地統治の一部に見られるように植民地を本国の延長として統治するか、イギリスの植民地統治の一部に見られるように現地の自治を重んじるかという2パターンがある。


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台湾の場合

サブ・クエスチョン
台湾の人びとは、フランス型とイギリス型のどちらに近いものだったといえるだろうか?


 台湾の統治は台湾総督府が担うことになった。初代総督は海軍大将の樺山資紀かばやますけのりだ。

 しかし、当時はまだ台湾内陸の山岳地帯の諸民族は征服にいたっておらず、征服戦争は続けられていた。
 議論の結果、1896年3月に台湾総督府条例が制定された。軍政から民政に移行するも、総督には陸海軍の大将または中将が就任することとされ、「台湾ニ施行スベキ法令ニ関スル法律」(六三法)により立法権(律例りつれいという法律に等しい効力を持つを交付する権限)を含む強大な権限を持った。

 しかし、その後第4代総督の児玉源太郎こだまげんたろうは、後藤新平を民生局長に任命し、台湾統治の方針を台湾の地域の慣習を残したまま、警察官によって支配する体制に転換される。

資料 「統治二〇年の回顧」(『台湾日日新報』1915年6月17日)
領台以来まさに二〇年、大別して二期に区別することを。第一は創業時代にして第二は即ち統一時代なり。(中略)三一年三月故児玉卿の台湾に莅任りにんするに当り、後藤民政長官と共に鋭意台湾の秕政ひせいを革新するにつとめ姿勢の方針として(第一)土匪どひを鎮定する事(第二)文武官僚の権限をあきらかにして民政の主義を確立する事(第三)土地調査及び戸口調査を実行し行政の基礎を定むる事を急施するに決したり。……鉄道を敷設し、道路を開修し、港湾を修築し、衛生を勧め、教育を奨め、土地及び戸口を調査し、理蕃政策を定め、……(後略)(川島真訳『世界史史料9』岩波書店、133頁)

 
 インフラを整備し、産業を発展させる一方で、先住民の抵抗の鎮圧と同化を進めようとしたのだ。

 しかし、昭和5(1930)年10月27日未明、台湾中央部の山地に位置する霧社を中心として、タイヤル族が蜂起を開始。霧社公学校で開かれていた公学校・蕃童教育所・小学校の連合運動会が襲撃され、周辺の施設や駐在所12 ヶ所を襲撃し、日本人134名や、日本人と誤解された台湾人2名が殺害された。総督府は警官隊、さらには台湾軍を出動し、飛行機、機関銃、毒ガスなどによって鎮圧に約2ヵ月後を要した。

 この霧社事件は台湾総督府や日本政府に大きな衝撃をもたらし、1931年には理蕃政策大綱という新たな統治方針が策定された。

資料 理蕃政策大綱
第1項 理蕃は蕃人を教化し、其の生活の安定を図り、一視同仁の聖徳に 浴せしむるを以て目的とす
第2項 理蕃は蕃人に対する正確 なる理解と蕃人の実際生活を基礎として 其の方策を樹立すべし
第3項 蕃人に対しては、信を以て懇切に、之を導くべし
第4項 蕃人の教化は、彼等の弊 習を矯正し、善良なる習慣を養ひ、国民 思想の涵養に意を致し、実科教養に重きを置き、且つ日常生活に即した る簡単な知識を授くるを以て、主眼とすべし
第5項 蕃人の経済生活の現状は 、農耕を営むを主とすと雖も、概ね、輪 耕作にして、其の方法、極めて幼稚なり。将来、一層集約的定地耕を奨 励し、或は集団移住を行ひ、彼等の生活状態の改善を計ると共に、経済 的自主独立を営ましむるに努むべし。又、蕃人に関する土地問題は最も 慎重なる考慮を払ひ、其の生活条件を圧迫するが如きことなきを期すべ し
第6項 理蕃関係者、殊に現地に 於ける警察官には沈重重厚なる精神的人 物を用ひ、努めて之を優遇し、漫りに其の任地を変更せしむるが如きこ となく、人物中心主義を以て、理蕃の効果を永遠に確保するに努むべし
第7項 蕃地に於ける道路を修築 して、交通の利便を図り、撫育教化の普 及徹底を期するに努むべし
第8項 医薬救療の方法を講じ、 蕃人生活の苦患を軽減すると共に、依て 以て理蕃の実を挙ぐるの一助たらしむべし
(出典:渡邉昌史『身体に託された記憶 台湾原住民の土俵をもつ相撲』明和出版、2012年、https://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=23602&item_no=1&attribute_id=20&file_no=6&page_id=13&block_id=21)



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朝鮮の場合

 日露戦争後、1905年の第二次日韓協約によって、日本は韓国の外交権を獲得し、韓国統監府が置かれた。初代統監は伊藤博文だ。

 その後、ハーグ密使事件を機に、伊藤博文は高宗を退位させ、1907年7月の第三次日韓協約で内政権を掌握し、韓国軍を解散。ロシアも同月、密約によりこれを承認した。伊藤博文が1909年10月に朝鮮人の志士・安重根により暗殺されると、1910年8月に韓国併合ニ関スル条約が調印・公布された。

 これにより朝鮮総督府が設置され、初代総督に陸軍大臣の寺内正毅が就任した。
 朝鮮は大日本帝国憲法の対象から外され、従来の朝鮮王朝の政策を利用しながら、土地所有権の不明な土地を国有地とし、日本企業に払い下げる目的で土地調査事業が実施された。


資料 鵺亀ぬえがめ『東京パック』(1908年11月)

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Q1. 甲羅には何と記されている?
Q2. 伊藤博文(=鵺亀)の抱えているのは韓国皇太子だが、皇太子は何語で書かれた文章を読んでいる?



 実は日本は、公式に「植民地」という用語を用いていない。1920年代末より、植民地は「外地」と呼ばれ、律令とよばれる法律と同等の効力をもつ命令が出されていた。つまり、内地と植民地の間では、法的な体系が異なっていたのだ。


資料 「(1905年(明治38年)の帝国議会において下記のようなことがあった。)衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。

(出典:小熊英二、『〈日本人〉の境界 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』新曜社、1998年7月、第5章、142頁 f)


資料 我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺 太等地名を呼ぶ。但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。

(出典:矢内原忠雄、『植民及植民政策』有斐閣、1926年、pp. 17-25)



 台湾の場合は、大日本国憲法は適用されなかったし、自治も容認されなかった。
 台湾には議会は設置されず、住民の選挙権も認められなかった。

 植民地では、イギリスのインド支配と異なり初等教育の整備が優先されたが、高等教育機関の設置は遅れた(京城けいじょう(現・ソウル)に1924年、台湾の台北タイペイには1928年に設立されたが、学生の多数を日本人が占めた)。
 また徴兵制度は施行されず、帝国議会に議員も送り出されなかった(兵役法は第二次世界大戦末期の朝鮮(1944〜)・台湾(1945)に施行。台湾・朝鮮では1945年に貴族院議員を勅選する制度が導入されたが、未実施)。


 経済的にみると、台湾は米、砂糖、樟脳、朝鮮は米の供給地とされ、大豆粕の供給地として繁栄した満洲の大連とともに、帝国内の経済的な結びつけが強められた。とくに台湾の製糖業には日本企業が積極的に進出した。産業の振興のために鉄道や港湾、ダムなどのインフラが整備されていった。
 こうした、植民地化された状況下における近代化(植民地近代)をどのように考えるべきか、議論が続いている。


■植民地支配と人種主義

サブ・クエスチョン
人種主義は、植民地支配にどのような影響を与えていたのだろうか?

 19世紀を通して進行した「近代化」(工業化と資本主義、自由主義や立憲主義、そして国民主義)に成功した国々は、1870年代頃から海外膨張政策、いわゆる帝国主義政策に転じることとなった。

 帝国主義政策を正当化する役割を果たしたのが、人種の区別や優劣を説く言説だ。

資料 アルテュール・ド・ゴビノーの人種主義(『人間の不平等に関するエッセー』(1853、55年刊))
「(前略)原初においては白色人種が、容姿の美しさと、優れた知力と体力とを、3つとも兼ね備えて専有していた。ところが、白色人種と他の種とのあいだの性的結合が進み、美しいが体力のない混血、体力はあるが知力のない混血、あるいは知力はあるが醜くて虚弱な混血が生まれた。……不幸なことに、この人種混淆を止めることはできない。優れた人間たちの犠牲のうえで、最下級の人間たちから凡庸な人間が形成される。(後略)白色人種の貢献なしには、どのような文明も存続しえない。ある社会の偉大さと輝きの程度は、その社会を創造した高貴な集団がその社会の中に維持される期間に比例するのだ。そしてこの集団こそが、白色人種のなかの、あの、もっとも輝かしい一派〔アーリア人〕に属しているのである。(後略)」
(杉本淑彦訳『世界史史料6』岩波書店、343-355頁)


資料 社会ダーウィニズム
「今日の諸国を観察して、それらが進み行く方向を注意するならば、進歩的な民族はどこであろうと等しく独自の特徴をもっているという結論に達せざるを得ないようである。彼らの中での精力的、活動的で男性的な営みは、可能な限り最高度で持続している。彼らは競争に対して最高の動機を有している。すなわち、彼らの間では、個人はきわめて自由であり、淘汰はきわめて盛んであり、競争はきわめて幸平である。しかしながらそれとともに、闘争はきわめて苛烈であり、精神的軋轢はきわめて大きく、緊張はきわめて甚だしい。これらの諸民族が辿ってきた道を振り返ってみるならば、彼らに後れをとってしまった競争相手の間では、こういった資質や条件が、これまた紛れもなく欠けているということに気づく。」
(出典:ベンジャミン・キッド『社会進化論』(1894年刊)、松永友有訳『世界史史料』岩波書店、355-356頁)

 このような人種に関する言説は、非欧米諸国の人々にも、人種主義に関する欧米の書籍の訳書や交流を通して、「人種の優劣が現実に存在しているもの」として実体化・内面化されていくこととなった。

資料 久米邦武による欧州の人種論
「欧米の人種論ではこんな風に言われている。いわく、東アジア(すなわち中国、日本地域)の人種は匈奴きょうど(トルコ及び近隣)人種よりは高等で、早くから政治理念を考究し、道徳を重んじ、野蛮な状態からいち早く脱して農業に励み、工業にも進んで文明水準は高く、君主は仁慈に富んだせいじを行う慣習があった。(中略)すなわち中国(日本も含まれるとする)の上層階級は高尚な道義に励むものの、下層民は貧しくて、ただ上に頼り、怠け暮らして恥じることがなく、自主独立の気風が一般に乏しいことを言っているのである。欧州人は、これとは反対に、上下ともに、自分の欲望を遂げ、快い暮らしを送ることを願う念が甚だ盛んであることからそれぞれの自主の権利を主張し、あらゆる物事がそこから発するので、財産や欲望に執着して追い求めることを止めようとはしない。……西洋の政治はこうした人種に適応した法りであれば、人種の団結、婚姻の忌避事項、言語風俗の違い、信仰の自由などは最も政府の尊重するところであって、少数民族に対してもあえてこれを矯正させようとしないことを仁政とし、自由の原理とする。」
(出典:久米邦武編著(大久保喬樹・訳註)『現代語縮約 特命全権大使 米欧回覧実記』KADOKAWA、2018(2021再版)、434頁)

Q. この筆者の説明する人種観は、どの程度的確であったといえるだろうか?


資料 政治学者・加藤弘之(1836〜1916)による人種に対する見方

(1)『強者の権利の競争』
「吾人人類モ亦萬種ノ生物ト其源ヲ同クスルモノニシテ本来特種ノモノニ非サルカ故二萬種ノ生物ト倶二同一ノ天則二支配セラル・コトナレハ其心身ノ優劣強弱ノ異同ニョリ常二強者ノ権利ノ競争起リテ強者力遂二弱者二打勝ツヲ得ルノ天則ハ豪モ生物界ト異ナル所アラサルナリ。」
(出典:黄家華「日本と中国における西欧進化論の受容 : 加藤弘之の権力国家思想と厳復の「郡道」の理念を中心として」『年報人間科学』20-1,1999年、195-210頁)
(2)『人権新説』
「およそ動植物世界において、前条論ずるところの諸原因よりかならず生存競争起こるゆえん理は、読者すでにその趣旨を了したるべしと信ず。しからばすなわちこの競争は、ついにいかなる結果を生ずべきや。けだし一言もってこれを尽くすべし。曰く、その競争の一対手なる優者が捷を占めて、他の一対手なる劣者を圧倒するにあるのみ。しかしてここに優者というのは、あるいは体質の強健なる者、あるいは生力の旺盛なるもの〔以上動植物ともにいう〕、あるいは心性の豪壮なる者〔以上動物についていう〕、等その他種々あるべしといえども、要するに他に対して優等なる者はみなこれを包括す。また劣者といえる中にも、体質の羸弱(るいじゃく)、生力の衰耗、神聖の怯惰、あるいは魯鈍等、要するに他に対して劣等にある者はみなこれを包括するなり。」
(出典:『日本の名著 (34) 西周・加藤弘之』418頁)

「…またアメリカの土人の中には、身体羸弱にして事に堪えざる者を、公衆の有害物として曠原に餓死せしめ、あるいは父母老衰しもしくは疾病に罹りて作業につくあたわざるときは、これを社会の無用物として生存のまま埋葬するの風あり。その他、野蛮諸人種が今日なおいまだ道徳倫理の何物たるを知らず、悪行罪犯の何物たるを悟らざるはけっして珍しきことにあらず。…これによりてこれをみれば、今日の文明人民といえども太初にありてはかくのごとき蛮俗をまぬかれざりしものおそらくは少なからざりしならん。しかのみならず敵人を征服するときはこれを奴隷とするは、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ等においては古来一般に行なわれたる風習なり。スペンセル氏〔イギリスのハーバート・スペンサー〕の説に、敵人の肉を食うの風俗ようやく進歩して、これを奴隷となすの風俗となりしならんという。…」(上掲、424-425頁)

資料 清朝末期の思想家・厳復(1854〜1921)による人種観 (「原強」『直報』、天津、1895年)
「物競というのは、物の種がその自存を争うことであり、天択というのは、(天道が)その適宜の物種を保存することである。言うのは、民と物が共にこの世で雑然と生存し、共に天地自然の利を食らうのである。然れとも接触・関係づけの期間に、民や物の何れにしろ皆それぞれ自存のため争い合う。その初めに、種と種が争い合うが、その少しの進みに伴って、群と群が争い合い始める。弱者は常に強者の肉となり、愚かなものは常に上智のものに使役させられる。」

(黄家華「日本と中国における西欧進化論の受容 : 加藤弘之の権力国家思想と厳復の「郡道」の理念を中心として」『年報人間科学』20-1,1999年、195-210頁)

資料 アイヌに関して記した日本人記者の記事「土人の子」『北海道毎日新聞』(1897年6月10日、札幌市所蔵) 
「今は何處いづこに行きしか有良村には住み捨てし土人の家道の両側に多く、手前の一部落には小売店一戸外尋常の漁家一二戸の外何れも土人小屋にて中には其中に和人の住む者も多く、時々路上に見ゆる土人の子髪の毛振り乱し、徒跣とせんのまヽにて着物はひつかけたまヽ帯もせずにチヨコ/\と駆け廻るが有り、彼等は多く顔色蒼灰色を為し、身体痩せて一体に軟弱なるは其親々の猛々しく強健なるに似ず、此れも種族衰滅のちょうと見へて哀れなり…」

(出典:リチャード・シドル(マーク・ウィンチェスター訳)『アイヌ通史—「蝦夷」から先住民族へ』岩波書店、2021年、99頁)


資料 下等人種の滅亡 『函館新聞』(1886年9月3日)
「優勝劣敗の理に因り上等人種の跋扈すると共に下等人種の滅亡に歸するは爭うべからざる事實なり。現に我國の「アイノ」卽ち土人を以て見るも充分之を證する……」

(出典:リチャード・シドル(マーク・ウィンチェスター訳)『アイヌ通史—「蝦夷」から先住民族へ』岩波書店、2021年、100頁)「1868年以降の北海道の植民地化と経済発展の結果であったアイヌの貧困と社会的周辺化は、ほとんど例外なく、このような補足的言説において解釈された。アイヌは「生存競争」に敗れる運命にあるとみなされるようになった人々の中にいて、その不平等は生まれつきの劣等性に起因するとされたのである。こうした説明の他にも、「人種」の言説は、支配関係と国の経済的・政治的な活動からアイヌをより一層排除することを正当化した。…日常的なレベルでは、大和「人種」[民族]と想像の共同体である国民との一体化は、(滅多に名言されることがなくても)和人移住者の大多数に常識的な世界観として広く共有されるようになり、差別の社会的な進行を通じて植民地社会におけるアイヌの従属を確かなものにした。」(同上、100-101頁)




資料 伊波普猷(1876〜1947)による社会進化論的な沖縄観
「実に沖縄人は慶長十四年島津氏に征服されて以来、この政治的圧迫の強い処で、安全に生存するために、その天稟てんぴんの性質を失って、意気地ない者と成りおわったのである。活気の少い朱子学が盛に行われて、諸子百家の書や活気ある宗教が禁ぜられたのは、専もっぱら沖縄人の生存上の必要からであった。此処ここではグズグズしてはいけないということは、やがて自滅をすすめることになる。世界の中で如何いかに強い武士もこの場では扇子一本を持った沖縄人と競争は出来ぬ。このフジツボ的社会組織は、こういう境遇には最も適当なるものであった。現今沖縄人が沖縄群島に五十万というほど盛に生活しているのは、即ち其処そこの生活に適していた証拠である。風波の荒い所では、誰が何と言っても、無言で現地位にかじりつくに限る。(沖縄群島のような風の強い所には高く高く天にまで舞い昇るような雲雀は一匹も※(「皐+栩のつくり」の「白」に代えて「自」、第3水準1-90-35)翔こうしょうしていない。)仮りに沖縄人に扇子の代りに日本刀を与え、朱子学の代りに陽明学を教えたとしたら、どうであったろう。幾多の大塩中斎が輩出して、琉球政府の役人はしばしば腰を抜かしたに相違ない。そして廃藩置県も風変りな結末を告げたに相違ない。世の中では通例優った者が勝ち、劣った者が敗れるというが、優勝劣敗といって我々が優者と見做す者が何時いつも必ず勝ち、劣者と見做す者が敗れるとも限らぬ。ただその場合に於て生存に適する者が生存する。それはとにかく廃藩置県で、政治的圧迫は取去られたが、沖縄人は浪が打当てなくなった岸上のフジツボのように困った。そして三十年も経って足が生はえ眼が明あいても、なお不自由を感ぜざるを得ない。思うにこういう三百年間の圧迫に馴れた人民には意思の教育が何よりも必要であろう。意志教育なるかな。これまた沖縄教育家の研究に値すべき大問題である。
(明治四十二年十二月十二日稿『沖縄新聞』所載・昭和十七年七月改稿)」

 19世紀に勃興した国民国家という新しいタイプの国家や、そのもとで暮らす人びとの世界が、植民地支配や人種主義に支えられる形でどのような変容を遂げることとなるのか。そらは続く「国際秩序の変容と大衆化」の単元で検討していくことになる。


■帝国主義批判のネットワーク

サブ・クエスチョン
帝国主義に対抗する動きは、植民地とされた地域の人々の中に生まれなかったのだろうか?

(加筆予定)

 

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