
文症
柄にもなく、恥も外聞もなく、Instagramや Twitter(現X)でnoteの宣伝をしてみたものの、やっぱりちょっと柄も恥も外聞も気にしちゃう今日この頃です。
そしてなかなかnoteの更新ができず、文章くらいしか取り柄がない自分への不甲斐なさも感じてきてしまっていたのが最近の僕です(ToT)
年が明けて気持ちも改まり、気が向いたのでnote書いてみよ〜っとなってみたのですが、いざ書こうとするとあんまり筆が進まないのですね。
「筆」じゃないか。
いや、もっと言ったら「書く」でもないよな。
こういう余計な表現のことを考えちゃうくらいには思考が止まっている。
流れはだれている。
そもそも僕は文章を書く仕事をしているじゃないか。
なのに文章が書けないってどういうことや。
いやそうはいうけども、仕事で書く文章は客観的な情報に基づく事実であって、お前自身の思想を書き殴るそれとは訳が違うんじゃないかと。
芸人さんが書くエッセイが好きでして。
あの人たちは文字もおもろいんかと。
なんの実力もない僕がたまにおこがましくも嫉妬してしまうくらい、文字のみの世界へと引き込まれることがある。
そこから彼らの性格や芸風が読み取れて、彼らの"存在"を知っている僕らは、彼らが書く文章に"すべて"を写し出すことができる。
そこにあることが彼らの"すべて"だ。
と思わされることができるから好きなんだと思う。
いやでも、
そうは言ってみたけど
本来はそうじゃないんじゃないか。
文字はいくらでも着飾れる。
かっこいい単語や小難しい言い回しでなんとなくそれらしく誤魔化せるのが文章だ。
少なくとも、
結果的に彼らの性格っぽくなったのが、僕らが見ることができる彼らの文章なだけであって、その文章自体に何かの存在はない。
じゃあ僕はなんだ。
文章を書くのが得意?
きっしょいこと言いやがって。
己の文章かて、ただなんとなく、それらしい言葉を使って作ってきた文字の羅列じゃないかと。
綺麗に綺麗に誤魔化してきた、僕の人生そのものじゃないかと。
生身で表現する、台詞や、動き、スポーツや芸術、他なんでもいい、料理でも教育でも哲学でもいい、それらにあって文章で簡単に表現できないものがあると思う。
泥臭さだ。
きっと求められているのは小手先だけの小綺麗な文章なんかじゃない。
もっと人間味あふれるきったない、おじいちゃんがやってるあんま口つけたくないようなコップを提供している小料理屋みたいな、そんな文章を書きたいんだと、思った。
いやお前別に文章も取り柄じゃねえから。
うるせえばーか。