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いい会社に入るための、いい大学に入るための、いい高校に入るための勉強

そのために勉強を頑張ってきた。いい会社に入るためには有名な大学に入る必要があると。
そんな大学に入るためには進学校と呼ばれるような、受験に力を入れている高校に行くのがいいらしい。

それが人生のために素晴らしい選択だと信じてやまなかった。
そのためにはもちろん中学生の頃からたくさん勉強もしなければならないだろう。

僕は高校に入るときに初めて受験というものを経験したけれど、周りを見れば中学受験や、小学校、幼稚園に受験した人も大勢いる。

小学校や幼稚園に受験をすることを”お受験”とよく呼ぶのは、受験をするような家庭の人たちが自分たちのやっていることに誇りを持つために”お”をつけたのだろうか。

それとも小学校や幼稚園の頃から子供が受験をするような家庭を、そうではない家庭が冷笑するような形で”お”をつけ
”お受験(笑)”と自分たちの人生には関係なさそうなものを 笑うことでその納得のできなさ、その世界線との距離を誤魔化そうとしたのだろうか。


僕はというと、高校受験を頑張って、大学受験も頑張って、就活も頑張って、いわゆる”意識高い系”の人たちが見るニュースメディアの会社から本を出版するようなグループ会社に入社した。よし!と思った。

で、2年持たずにうつ病で退職した。

いい会社の肩書きが消えた。
新卒採用はもう使えないのでいい大学の肩書きの意味がなくなった。
それに伴い高校での受験勉強の意味も価値も消えたんだと思う。

今まで、中学の頃から数えて少なくとも10年間の、いい会社に入るためのいい大学に入るためのいい高校に入るための勉強や努力はあっさりと消えた。

中学生の時、いつも22時まで塾にこもっていた日々を思い出す。

高校の頃から下宿をして、3年生の時は”年越し模試”という大晦日と元日に模試が合ったため、実家にも帰らず正月返上で勉強していたことを思い出す。

1月3日、センター試験の直前に食中毒を起こし今までの努力が全て水の泡になるのかと泣きたくなったあの時を思い出す。

周りの人間から溢れないように真似をして生きてきたのに、「あなたの個性は?」と聞かれ戸惑った就活を思い出す。

「ワタシノコセイ」を伝えて不合格の通知を受け取った時、まるで「ワタシノコセイ」がこの社会には必要ないと言われているようでショックを受けた日々を思い出す。

内定が決まった途端、「あんなに不安になっていた自分は馬鹿馬鹿しい。」と急に強気を取り戻したのを思いだす。

「東京のどこどこに本社ビルがある」と言っただけで自分の会社のことなんて何も知らない人たちが「すごい!すごい!」と言っていたのを思い出す。

全部が溶けて消えた。
11月に初めて精神科に行った時、まだ降ってない雪が溶けて消えたみたいだった。雪解け水は用水路を経由して海に流れ、海月やイカや秋刀魚や海洋プラスチックごみの中を漂いながら、何者でもなくなった。


今、会社を辞めて、肩書きも消えて、本当に何でもない人間として、僕自身が何者かということは肩書きが規定するものではないということは毎日ひしひしと感じながら、「じゃあ何が”私”を規定してくれるんだよ」と悩み生きている。

私を認めてほしい!と強く主張する人を、「すでに私が何かを知っているんだな」と羨ましく思う。

私を規定していたはずのものが消えてしまった今、一体何が私を規定するのだろうと苦しむ。何一つ疑わず、”私”の規定を資本主義社会に置いてきたことのつけが、今更回ってきたのだろう。

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