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人口密度と生きづらさ。

引き続きうつ病療養生活を続けている。

働いていた名古屋を離れ、地元に引っ越した。
都市部とは程遠く、高収入を喧伝する色とりどりのトラックも走っていなければ、東西南北どこを見ても山か川で、緑色と水色に画一化されたような町だ。都会に住む子供達は巨大広告に彩色された街を見て僕よりも若く、多くの色を知ったのかもしれない。

いくつかの不便さと引き換えに家族ごと確立した土地を得たこの町では、同じ土地に上下何層にも重なって住むことなど滅多にない。足音に気を使うこともなければ、上の階の掃除機が僕の起床を促すこともない。

隣の家との距離も十分にあり、右隣から彼氏の射精を早めるための喘ぎ声を聞くことも無く、左隣から酔っ払った大学生たちが警察に注意されるまでの一連を耳にすることも無くなった。

庭に延びた雑草たちにも届くように、大きな窓を開け放ってスピーカーと共に喉を震わせる。自分の体と一緒に草木も揺れているように感じながら、今まで自分はどこかに住んでいたのか、暮らしていたのか、それとも、高層階は豊かさを象徴するはずだったけど、それは狭い場所に効率的に労働人口を収容するための幻想で、僕は都市という何かに閉じ込められていたのではと、疑心が視界を掠める。

田舎であっても、僕が帰ってきていることがわかると「どうしたの?」「もう卒業したんだっけ?」「今はどこで働いているの?」「いつ帰るの?」とプライバシーもデリカシーも存在しない田舎特有の”コミュニティ”に対する気色悪さは消えない。都会の生活に疲れ”脱成長コミュニズム”に幻想を抱いている人たちを見ると、「あぁ、コミュニティの豊かさにばかり目がいって繋がりと引き換えに生活の全てに干渉される不快さを知らないのだな」と少し馬鹿にする。

結局僕みたいな人間は都会であれ田舎であれ、何かしら不満を言い続けて生きるわがまま者であるのだけど、それでも都会の詰め込まれた生活空間は非常に生きづらかったと感じる。

職場でも、寝床でも、電車でも、公園でも、常に周りの誰かの目を気にする生き方が僕には向いていなかった。自意識過剰と都会は相性が悪い。

時々、日本がもっと中国やアメリカ、ロシアのように広大な土地を持っていたらもっと生きやすかったのだろうかと想像する。

過剰な人口密度があったからこそ新宿や原宿、渋谷など、世界に誇れる奇妙な都市トーキョーが出来上がったという恩恵はあると思う。
いろんな国を旅して、改めてスクランブル交差点の奇妙さがわかった。あれだけの人が一斉に歩き出してもぶつからないジャパニーズピープルという生命体も混みで確かにあれは面白い。インスタに載せたくなる外国人の気持ちもわかる。

しかし過剰な人口密度のせいで誰もが自分の安心できるスペースに飢えていて、他人を思いやる余裕がないという見方もできないだろうか。

人口の偏りがますます加速すると同時に、日本人はムラ社会を手放し、家業性を抜け家族による自己の確立も手放し、会社名も個人の肩書きを規定するには機能せず、時代はますます”個”の時代へと歩みを進めながら、それでいて”個”の居場所は狭い都会で逼迫されている。

その先に何があるのか僕は学者ではないのでわからない。しかし、自分の安心できるスペースがもう少しあれば、人に寛容になれる人も増えるのではないかなと少し希望を抱いている。

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