「陰キャ」という言葉が昔からどうしても好きになれない。

こんばんは、なかにしです。
なんとなく記事を書きたくなったので、2つ目の投稿をかましたいと思いま~す!

今回ぼくが主張したいことは、中学生の頃から心の中で思いながらも声を大にして発言できていなかったことです。何か皆さんにも響くことがあれば嬉しいです。

注)「陰キャ」という言葉を使っている人や過去を否定したいわけでは全くありません。何気なく存在して当たり前化している現状に対して、こういう風に捉えている人もいるという示唆を感じてほしく思い、記事を書きました。何か心の琴線に触れられるものがあれば幸いです。

なぜ「陰キャ」という言葉が好きではないか

結論ファーストとか言わず、まずは言葉の意味を考えていきたい。

まず、「陰キャ」という言葉に含まれる「陰」という語は、「陽」という語と対比される語であるが、この2語の関係は「裏」と「表」の意味を含んでいるとぼくは感じる。
(光の当たる「陽」と光の当たらない「陰(かげ)」のように)

そこから考えると、ぼくはこの「陰キャ」という言葉から、
・大人しい性格の人→社会の脇役
・外交的な人間→社会の主役
とでも言わんメッセージ性を感じてしまうのだ。

このメッセージ性を感じるが故に、「陰キャ」という言葉があまり好きではない。

他者の個性を理解し、尊重しようという姿勢を感じない言葉だ。

しばしば「陰キャ」という言葉は、比較的おとなしい性格であり、心地よいと感じる外部からの刺激レベルが低位な人を揶揄して使われる場面がよく見られる。

だが、心地よいと感じる外部からの刺激レベル・コミュニケーション量というのは、人の特徴に過ぎない。その特徴が短所になるのか長所になるのかは、極めて環境や文脈に依存するのではないだろうか。

例えば、他人と密なコミュニケーションを取ることよりも、淡々と1人で作業を進めなければいけない仕事や、主張することよりも他人の意見に耳を傾け、寄り添わなければいけない仕事など。
特性が生きる環境は沢山あるはずだ。

つまり、刺激レベルに応じた環境は必ずあるはずなのだ。

にもかかわらず、
外向的→優勢な特性
内向的→劣後する特性
と捉えるのは、他者の特性を理解・尊重する姿勢に乏しいだけでなく、社会の捉え方もバイアスがかっているように感じる。

私たちは誰もが人生・社会の主役であり、適した環境は誰にでもあるという意味では、全員「陽キャ」であると思うのです。

ひょっとすると、学校社会という極めて閉鎖的かつ限定的な環境が、
「外向的=正義」という勘違いを生み出す大きな要因になっているかもしれないですね。

「この言葉」と過去から現在までの自分

この記事を書くにあたって、過去から今までの対人関係を振り返っていました。

その中で、人として魅力を感じ、よく交流させてもらっていたor現在も仲良くさせて頂いている人の多くは、思いやりにあふれている人が割合としてかなり多いなぁと感じます。

一方で、自分に近しい人以外にはリスペクトをあまり持てない人とは、めちゃめちゃ仲が良い状態にはなれていないかもしれないなぁと感じます。

中学2年生の時もそうでした。ぼくは人と話をすることはかなり好きで、当初よく交流していたのはクラスの中でも最も活発なグループの人たちでした。

ですが交流を深めるにつれて、「ガイジ」や「陰キャ」などという言葉を乱用するメンバーが多いことに気が付きました。
先に断っておきますが、別にその人たちが極悪非道な人たちだったわけでは全くないです。多分何気ない言葉だったんだと思います。

ですがそんな環境にいると、いつの間にか自分の倫理観が声を上げたのか、心をざわつかせている自分がいたんですね。次第には、一緒にいることで「罪悪感」に近い感覚を感じるようになってしまいました。

そして、その人たちとは深く交流することをやめ、適度に話す程度に留め、他の友達と多くの時間を過ごすようになりました。

今も未熟なぼくですがですが、当時のぼくは更に未熟だったので、敏感に反応していたのだと思います。

ですが、やっぱりぼくにとっては、聞いていてあんまり気持ちのいい言葉ではなかったんです。

これからどのように「この言葉」と付き合うのか

差別的な意味合いをも含むが、多くの人が使っているために日常の中に入り込んでいる言葉たち。

この記事で取り上げた「陰キャ」という言葉だけでなく、「ガイジ」や「アスペ」などという言葉もあると感じます。

正直言って、ぼくも周りに流されて上記の言葉たちを使ってしまったことはあります。これは白状します。
まだ周りに迎合して、信念を持てずにいた自分の未熟さのせいではあったのですが、心に大きくモワっとしたものが残っており後悔しています。
これからも使いたい言葉ではありません。

もしぼく以外にも、
「自分も周りに流されて使ってしまった経験はあるが、あまりいい気持ちではなかった。しかし、周りに波風を立てたくはないので、なんともしていない。」
という人がいらっしゃったら、まずは自分から使わないようにするのはどうでしょうか。

他人の言葉を訂正するというのはとてもとても勇気がいる行為です。
だったら、まずは自分の言葉から変えていく。それも大いなる一歩だと感じます。

そして、何気なく上記の言葉たちを使ってしまっていた人は、こういう風な考え方をしている人もいるんだと思ってもらえるだけでもうれしいです。


めちゃめちゃ偉そうな発言をしてきましたが、結局は僕自身が「周りが使っていても、自分が使いたくない言葉は使わない」ということを貫き、「魂に恥じない生き方をしたい!」という意思表明をしたかったのです!

その中で、何か心の中で思いながらも声を上げられていなかった人がいるなら、その人の思いを代弁したかったのです。

長くなってしまいましたが、お付き合いありがとうございました!
今回は以上となります!
反対意見も含めて何かご意見などございましたら、お気軽にコメントください。

何か皆さんの心に響くものがあれば幸いです。

では!





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