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医療とはなにかを考える Vol.1 『自己満足』

こんにちは。大空の下大前陽介です。

最近、なにかをしなければいけない。大きく根底から自分を変えなければいけない。そんな想いとは裏腹に、特別大きな行動を起こすエネルギーもなく、悶々とした日々を過ごしています。

なにかをやる気が起きないのであれば、まずは自分が今までやってきたことを整理してみようと思い今この記事を書いています。

「医療とは何か?」

これは、いままでもずっと考えてきたことではあるのですが、改めて綺麗事を抜きに整理したいと思っていて、全何回の連載?になるのかわかりませんが、自分宛に自分が納得のいくまで、書いてみたいと思います。

みなさんに向けた文章ではないので、有益な情報なんかはありませんが、何かに迷った時のヒント程度にはなるかもしれません。

もし、読まれる方は気を抜いて流し読みしてください。

ここ数ヶ月。自分の中では激動の時間を過ごしてきました。当然はたから見ればそうでもないようにみえたかもしれません。
いや、そうはみせないようにしてきただけかもしれませんが、色々な想いが四方八方から湧き上がり、それと向き合いたくない自分、ごまかし続けて好きなことだけをやって生きていたい自分、なにかを否定することで自分を保ちたい自分。それでもなんとか足掻こうとしている自分、怖気付く自分。色々な自分を垣間見てきました。

そして、僕は大きく変わった。

と、カッコつけて言いたいところですが、実際には「以前と何ら変わっていない自分を認識した」だけ。いやむしろ、何かを恐れて変わりたくない自分を強烈に自覚した分、ストレスフルです。正直、しんどい。

「医療とは何か?」

そんな問いを1mmも感じなかった十数年前のままなら、どれだけ楽に過ごすことができたのだろう。その問いが目の前にある今、当時よりもはるかにサボって楽をしたい自分がいますが、それを許さない自分もいる。
誰なんだ、お前は?

この記事の連載が何本構成になるかも、どんな内容を書くかも全く決めていませんが、自分なりに今までやってきたことと、その背景にある思いをできる限り正直に書いていきたいと思います。

第一回目なので、一応宣言しておくと、僕は文章を書くのは割と好きな方なので、今までかなりの数の文字数を書いてきました。(本も書きました)
その文章のほぼ全ては、読んでくださる方々にどんな価値を提供できるかを念頭に書いたものです。今回のこの「医療とはなにかを考える」連載は、自分が今まで考えてやってきたことを整理したいがためだけの文章なので、自分用の自己満足文章です。興味ない方は全然読まなくても、みなさんの人生には1mmも影響はないので、読まないもよし、適当に読むのもよしです。

それでも結果的に、みなさんの人生のお役に立てたならそれはそれで嬉しいですけども…。

今回のテーマでもある「医療とはなにか?」を考えるにあたって、自分がどんな想いを根底に医療を行ってきたのか?を考えなくてはいけないと思います。

僕が身体を学びたいと思ったきっかけは遡ること20年以上前、高校生のときです。決して上手ではありませんでしたが、野球が大好きだった僕は、県内では強豪校と言われるところに進学しました。
そこで待っていたのは、強豪校なだけあって、自分が想像していたよりも遥かに野球がうまい人が集結していて、「こんなにうまい人が試合にも出れないの?」という人がゴロゴロしているような環境でした。
その中で僕は、どう足掻いてもベンチ入れれば奇跡といった状況で、おまけに県内有数の進学校でもあったので、頭のいい人もたくさんいる環境で、野球は下手だし、勉強はそれに輪をかけたようにできない。(勉強する意味がわからなかった)

そんな環境でも、野球は上手くなりたかったので、当時100人近くの部員がいたチームに定期的にきてくれていたある一人のトレーナーさんに僕はよく相談にいっていました。どこか身体が痛くて相談に行くのではなく、「どうすればあのうまい奴らとの差を埋められますか?」ということを常に課題をもって質問に行ってました。

大勢の部員がいる中で、レギュラーでもない僕にも相当なエネルギーを持って接してくれたそのトレーナーさんを尊敬していたこともあり、次第にそんな仕事ができるようになる道を行きたいなと思うようになり今に至ります。
身体のことを学び始めたきっかけは、その一人のトレーナーさんでした。(先生は今は、どこでなにをしているんだろう…)

そして、何の疑いもなくぼくは身体のことを学びトレーナーになるための専門学校に通うことになります。それが僕が医療に関わるスタートです。

先にも述べましたが、僕は勉強は死ぬほどできません。やればできるのかもしれませんが、なんせ興味が湧かないんです。でも、医学のこと、身体のことは全く違いました。のめり込むように勉強が楽しくて、休み時間も先生を捕まえては質問攻めし、納得がいかなければ、それをまた調べて…の繰り返しをしていました。

高校時代の勉強をこれくらいのモチベーションで勉強してれば国公立大学にももしかしたらいけたかもしれません。笑
それはさておき、とにかく身体に関する勉強は楽しかったんですね。

ここまで読むと、結局は人は好きなものとの出会いが大切だよね。みたいな話なんで、僕もそう思ってきたのですが、よくよく振り返って冷静に考えると少し違う感覚が今はあります。

自分が医学の勉強が楽しかった理由。

それは多分、「他者から褒められる」という状況がとても心地よかったのだと今は思います。

学生時代は、勉強はもちろん、野球(スポーツ)も決して褒められるようなレベルではなかった。常に出来る人と比べて、できない自分が嫌で辛かった。おそらく自分の居場所(認めてもらえるような場所)ではなかったのだでしょう。医学を学び始めてのめり込むにつれ、自分という存在が認めてもらえるようになると、まるでレギュラーを獲得したかのような嬉しさがあり、それが原動力になり、もっといろんなことを勉強して…というふうに一見良いループになっていました。

そして、医学の現場にでるようになると、今度は、職場の人だけではなく、「患者様」という僕を認めてくれる存在が現れるようになります。
表向き、患者様や同僚のために出来ることを模索して、やれないことはやれるようになるためにまた努力を重ねる…ということを繰り返してきました。

それは裏を返せば、患者様のために…ではなく、同僚のために…ということでもなく、ただ自分が満足したいためだけに医療知識と技術を利用していたに過ぎない。

一見崇高な人生にみえたとしても、崇高でもなくただのオナニーです。

自分にとっての医療は、まさかのオナニーだったとは。それを突きつけられる瞬間はなかなか受け入れ難いものはありますが、たしかにそれは自覚がありありなので、受け入れることでしか次にはいけません。

大切なことは、患者様のために…という想いと、他者からの評価を集めたい!という想いが、同時に存在していたことで、前者は前面にだしていても、後者は「みたくない自分」です。

他者からの評価を集めたいというのは、言い換えれば、何かを知っていたり、特別な技能をもっていなければ、自分は他者評価を集められないと思い込んでいることで、それを補う好都合なことが僕にとっての「医療」だったのだと思います。

つまり、自分の自信のなさをみなくて済む手段としての「医療」であり、それを学びそれを知っている自分は、そのままなら理論上は一生楽に自分の心地よい環境を手に入れたことになります。それが僕の選択してきた道なのです。僕が医療をおもしろい!と感じてきた理由には、素直に身体のことを探求する楽しさもありますが、他者評価を集められる!だから面白い!という腹黒い自分も確実に存在していました。そんなことと少しずつ向き合い始めた今、楽なはずがないのも当然です。

その上で、医療とは何か?
を考えることが始めてできるし、素直に自分なりの医療とは?を表現することもできてくるのではないかと思います。

これから僕は、どんなことを表現していく人生になるのか皆目見当もつきませんが、そこおもしろさを感じています。
「わからない。」だからやる意味がある。これからなにをやるかは今もわかりませんが、そのためにまずやるべきことは、「これからなにをやるべきか?」を考えるよりも、「これまで何をしてきたのか?」ということを明確にすべきだと思っています。それができてはじめて、これからこれをやってみよう!と言えるわけですから。
誰でも人生で途方に暮れることは1度や2度あると思います。そんなときこの先どうすればいいか?を考えるよりも、これまで何をやってきたのか?を考えるのはかなり大切なことなのでしょう。それに気づけたのは、大きな学びです。

今回はこの辺で一旦終えます。
次回の内容はまだ決めていませんが、身体が治る原理原則について書いてみようかと思っています。自己満足な文章ですが、興味ありましたらまた読んでいただければ幸いです。





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