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医療とはなにかを考える Vol.5「医療を医療とさせる働き」

こんにちは。大空の下大前です。
「医療とはなにかを考える」第5回目の記事になります。
ここまで、医療と称して自分自身がやってきたことを振り返ってきました。こうして、自分を振り返りつつ記事にしてきたのは、自分なりに医療とはなにか?を明確にするために、まず自分が今までやってきたことを細かく振り返る必要がありまして、そこが明確になって初めて自分が成すべきことが浮き彫りなるのではないかと考えています。

そうして自分自身を振り返って、自分がなぜをそれをしてきたのか?と自問すると、なかなか自分では見たくない自分の黒い部分とも向き合わざるを得なくて。それはなかなかしんどいことでもあります。

今までこういうことをやってきたから、これからはこうして生きてみよう。と初めて言えるのであって、今までやってきたことがなんだかわからない状況では、次の新しいことをはじめたとしても、ただ新しいことをしている気になって終わるだけで、根本的に視点を変えるには、現状の自分自身をより深く知っておくことが不可欠だと思うわけです。

そういった意味で、「医療とは何かを考える」という記事を書き始めて、5回目の今回は、「医療を医療として作用させている働き」について考えてみたいと思います。

ここについては著書、「自宅出産を経て」で書いたことの続きになると思います。興味のある方は僕の本も下記からチェックしてみてください。


医療は身体に対する破壊である。

ということを第何回目の記事か忘れましたが、どこかに書きました。
この文字だけを見ると、医療者から怒られそうですが、医療が破壊であるということは紛れもなく事実だと思います。

注射や、手術、基本的に毒である薬、身体に刺激を与える指圧などの行為も、破壊といえば破壊です。

「破壊」という言葉に対するイメージはなんだかネガティブな感じがしますが、こと身体(生命)において、破壊とはとても大切なプロセスで、ここについては福岡伸一先生の「動的平衡」で科学的かつ哲学的に説明されていて、こちらを参照されるとよろしいかと思います。

『福岡伸一 動的平衡』で検索するとたくさん著書を出されています。とてもおもしろいので、おすすめです。

福岡先生曰く、生命とは、破壊が常に先に行われていて、合成するよりも、自己複製するよりも、積極的に自らを破壊して、それによって肉体を維持していると。

ここからは僕の仮説ですが、「病気やケガ」という破壊現象も、ある意味では身体が自ずから破壊を促している反応として捉えると、病気になるプロセスそのものが、生きていく上で必要ともいえるかもしれません。

そして、身体に対する破壊行為が「治療効果」として作用できる理由も、破壊しているからこそかもしれません。

壊れるとは、肉体を維持する上でも大切なプロセスで、「生」とは壊れ続けていることでもあり、「死」とは自らを積極的に壊せなくなった状態といえるかもしれません。

僕たちは日常的に身体が壊れることを忌み嫌いますよね。
出来るだけ身体を壊さないように…というのが普通の感覚です。しかし、いくら破壊を遠ざけようと対策したところで、僕たちの一生で何の病気や怪我もすることなく生きていくことは不可能で、それを避けようと抗うことで、身体本来の「破壊と再生」のプロセスを忘れ、より破壊を必要とする状況を作ることもあると思います。

今の医療に不可欠なことは、こうした身体の仕組み、病気とはそもそもなんなのか?健康とはなんなのか?について、多角的に考えていくことだと思います。病気の怖さや、予防策、それに対する民間保険などは盛んに宣伝しますが、そもそも病気とはなに?ということはあまり議論されていない印象もあります。

単に病気がなってはいけないもの。避けるべきもの。としか認識していない状況での治療は、一時的な安堵感こそあれ、それでは日々行われ続ける身体の破壊活動が起こる度に、大きな不安を生み出し、本来悩むべきではない悩みを医学によって作ることにもなりかねないわけで。

僕は無自覚的にそうしたことを繰り返してきたと言えます。

僕自身がそうだったように、一時的な安堵感というのはやはり双方にとって麻薬的な作用があります。患者様はもちろん安心するし、ニーズもある。医療者自身も感謝されたり、金銭的に売り上がったりもする。
麻薬も、時と場合、用法用量によっては薬にもなり得ますので、このこと自体も有効活用することもできますが、ここに終始してしまうと、医療の本質から遠ざかり、誰のためにもならないただ患者を生み出すことなるリスクがあることも、医療者は理解しておかなければいけません。


この記事で「医療とはなにかを考える」Vol.5になりますが、ここで医学とはなにか?という問いに現時点での自分としての定義をまとめようと思います。

医学とは、単に定義された身体の正常と異常を学ぶだけではなく、それらを成り立たす働き。すなわち医療を医療として成り立たせている働き「生命」を学ぶための学問であり、それを基に自他共に人生を謳歌するためにこそ存在すべき学問なのではないか?と感じています。


その医学を取り扱う医療者は、医療知識や技術の裏付けとして、それらが効能を発揮出来る「生命の原理原則」を知り得た上で、治療を施すだけではなく、「生命の働き」を一般の方々へ指導教育すべき存在でもあるべきで、それを持ってして医療はスタートできるものだと思います。医療が医療者の自己満足のためであることも事実だけれど、そこを自覚しているからこそ、眼前の人の役に立つことの意味もまた考えようと試みられると思うわけです。

どこまでいっても医療は、その人の生きようとする力の上にしか成り立たず、それ以上でもそれ以下にもなり得ないものです。現代医学の多くは、主体が患者ではなく、医療側にあるとしている部分もあって、あくまで主体は患者様自身であり、人の擦り傷に絆創膏を貼ってあげることはできても、人の擦り傷を治すことは医療者にはできません。

つまるところ、当然医療者は神様ではないので、人が人を治すことなど、1mmも出来ないといったことだと思います。
では、なぜ治ることができるのか?病む(破壊)ことができるのか?こういう部分を医療はもっと突き詰めていく必要があるのだと思います。

微力ですが、少しずつ自分なりに進めてみます。

今日は以上です。
まだ続くかもしれません。

最後まで読んでいただきありがとうございます。



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