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子供の頃の素朴な大発見や「なぜ」が今の自分の力になる

数ヶ月前のこと。家の近くの庭園に、2歳の息子と2人で散歩に行った。

川を流れる水が好きな息子。小さな石橋の下を覗き込んでいた。べったりうつ伏せになり、白い洋服が茶色くなっていく。何も構うことはない。今は洋服より目の前の川が気になるのだ。

落ちないようにこっそり支えながら静かに見守っていると、「お??」と何かに気づいた息子。

がばっと立ち上がり、私をみて、両手を広げて、「お!お!」と何かを伝えようとする。まだ「わんわん」とか「ブーブー」のような単語しか言えない息子なりに、気がついたことを必死に伝えようとする。石橋の両側を指差し、川の流れに沿って両腕を広げていた。

石橋の両側を指差す息子

私にはすぐピンときた。「すごいね!この下で川が繋がってるね!」

「うん!」と大きく頷き、わかってもらえたことに満足げな息子。まだ興奮冷めやらぬといった感じで、再び石橋の下を指差す。「ココ!この下!」と言わんばかりである。

石橋の下を覗き込む息子

そう。息子はこの日、大発見をしたのだ。いつも何気なく渡っていた石橋の下で、実は川がつながっていたのだ。石橋に隠れて見えないところで、水が片方から片方へ、絶えず流れていたことを発見したのである。

なんと素朴な大発見。こんなことに気がついただけで大喜びできる、素直で素朴な心が、自分に残っているだろうか。いや、残ってはいないだろう。

それにしても…確かに、石橋の下がどうなっているか、川が本当につながっているか、私は自分の目で見たわけではないのだ。その点、息子は自分の目でそれを見た。石橋の下がどうなっているか、自分の目で確かめた。そして、自分が今まで気がつかなかったことを発見したのだ。2歳の息子にとって、これはもう世界を揺るがす大発見である。

息子の様子を見ながら、私は昔の体験を思い出していた。今の今まで忘れていたことだ。幼稚園の時だったか、小学生の時だったか。私はある日、川を流れる水を見ていた。ざあざあと、川上から川下へ水が流れていく。絶えず、延々と流れていく。

私はそれを見ながら、ふと思った。この水はどこからきて、どこへいくのだろう。家の庭や近所の公園で作る川でさえ、バケツいっぱいに汲んだ水はあっという間に流れてしまう。こんな大きな川を絶えず流れているなら、それは想像を絶する水量であるはずだ。そんな膨大な水がどこにあって、どこに流れていくというのか。

親や学校の先生に聞くと、「川の水は海へ流れて、蒸発して巡り巡って山の上からまた流れてくる」というような説明があった。だが、その説明で「ははーん、なるほどね」と納得することは、私にはできなかったのだ。

その疑問は、その瞬間の私にとっては大問題であったが、おそらくその日の夕方には忘れていただろう。だが、その問題が再び私の前に出現する機会があったのだ。

それは、私が大学に入ってから。地球科学を専攻していた私は、気象学や地球科学全般の講義を受けていた。その中で、地球における水の循環についての講義があった。

水の循環だけではない。太陽から降り注ぐ熱量と、それを地球が吸収し、また放射する量。地球を覆うプレートがどの程度の速さで動いており、それを地震がどのように解消しているのか。どういう仕組みで雲ができ、雨が降り、雷が鳴り、風が吹いているのか。そういうことを、小中高と積み上げてきた物理や化学、数学の知識で計算できることを知った。

私は感動したのだ。息子がそうであったように、私も幼い頃、目の前の自然を、積み木やブロックや、ミニカーやプラレールの振る舞いを観察して、多くのことを何気なく疑問に思った。その全ては覚えていない。しかし、ふとした瞬間に思い出し、記憶に紐づけられた好奇心が頭をもたげる。

ブロックと積み木は叩いても違う音がするのはなぜだろう。
いちごはいちごでも、いちごそのものといちごジャムでは味が違うようだ。
お風呂と外で、音の聞こえ方が違うのはなぜだろう。
なぜ昼は明るくて夜は暗いのか。
なぜ遠くのものはゆっくり動くのか。
なぜ地平線は丸いのか。

今は、なぜと思った一瞬後に忘れていてもいい。でも、いつかそれが、君の力になる。原動力になる。その種になる経験は、いくらでもさせてあげたい。

今分からなくてもいい。
「なぜ」と思えること自体、とても大切なことだから。

今しかできないから。

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