「ワンオペ育児」という言葉に感じる違和感
育児はオペ(作業)なのだろうか。
「ワンオペ」という言葉はそもそも、2014年に牛丼店「すき家」で、一人で深夜の業務を回していた労働体系が問題になったことがきっかけで、広がりはじめた言葉だそうだ。
その後、共働き家庭で、夫婦のうちどちらか1人のみが育児などを行う状態が「ワンオペ育児」と言われはじめ、浸透していった。
現在ではもっとフランクに、「今日は旦那が飲みに行くのでワンオペ育児」「奥さんが美容院に行くのでワンオペ育児」のように使われている。
しかし、私は「ワンオペ育児」という言葉を聞くたび、小さな違和感を感じるのだ。
「ワンオペ育児」の何が気になるのか、私はずっと深く考えずにいた。だが、つい最近、それについて深く考えるタイミングがあり、しばらく考えてみた。
その結果、個人的にしっくりきたのは、「育児はオペなのか」ということであった。
「バイトをワンオペで回す」というような話は、まあわかる。バイトをワンオペで回すことの是非はさておき、日本語として違和感は感じない。しかし、「育児をワンオペでする」ということには、何か違和感を感じるのだ。
その主たる要因は、おそらく、「育児はオペなのか」というところにあったのではないかと思う。
オペレーション、つまり作業とは、一定の手順に従って効率的に行われる業務やタスクを指すことが多い。例えば、飲食店での調理や接客、工場での製品組み立てなどが典型的だ。これらはマニュアル化されており、誰が行っても同じ結果が求められる。
一方で、育児はどうだろうか。確かに、おむつ替えや授乳、寝かしつけといった日々のルーティンは存在する。しかし、それらは単なる作業として片付けられるものだろうか。子どもの成長や個性、機嫌によって、その都度対応が変わるのが育児である。マニュアル通りになんていかないことの方が当然である。
育児には感情や愛情が深く関わっている。子どもとの信頼関係を築き、喜びや悲しみを共有し、一緒に成長していくプロセスである。これらは機械的な作業や効率性だけでは測れない価値があるように思う。「オペ」という言葉で表現することで、育児の持つ良い点、愛情に溢れた豊かさな体験であることや、親にしか体験できない素晴らしい体験という点が見落とされてしまうのではないか。
「ワンオペ育児」という言葉を使うことで、育児がまるで労働の一種であり、しかも過酷な環境で行われているというイメージばかりが強調される。もちろん、育児が大変であることは事実だと思う。一人で子どもの世話をすることが、心身ともに負担になることも理解できる。しかし、それを「オペ」と表現することで、本来の育児の喜びや意義が霞んでしまうのではないか。
では、どう表現すればよいのだろうか。例えば、一人で育児をする日ということを言いたいなら、単に「ソロ育児」と言ってみてはどうだろう。あるいは「今日はパパが子どもを独り占めできる日」とか。そう言う方が、育児のネガティブな点が主張されすぎないような気がする。
言葉は時代や流行とともに変化し、新たな言葉が生まれることは自然なことだとも思う。特に、バズりやすいというか、社会問題を反映させた言葉は広まりやすいと思う。しかし、その言葉が持つ意味や影響については、考えておいた方がいいと思うのだ。「ワンオペ育児」という言葉が広まることで、育児に対する見方や社会の価値観が偏ってしまう可能性があるのではないか。
「この言葉しっくりくる!」という共感が共感を呼び、「ワンオペ育児」という言葉は広まってきたのだと思う。しかし、それは「一人での育児はきつい。やってらんない。」というような深層意識を反映したものであり、同時にそうした意識を改めて形作る力を持っていると思う。「ワンオペ育児」という言葉を無自覚に使うことで、知らず知らずのうちに育児を作業的・労働的なものと見なし、「今日は効率よくやっていこう」というような意識を持ってしまっているかもしれない。
「子育て」は「親が子どもを育てること」であると同時に、「子どもが親を育てること」でもあると思う。あと何年か、十何年かすると、子どもは親を遊んでくれなくなるし、抱っこして、一緒に遊ぼう、なんて言ってくれなくなる。いま、その時間を子どもと親が共に楽しみ、そこからお互いに何を得ていくか、そういう視点が大切ではないか。
育児を「オペ」としてではなく、「共に生きる時間」として捉える言葉が広まっていくと良いなと思う。結局のところ、私が「ワンオペ育児」という言葉に違和感を感じたのは、育児が単なる作業や業務として扱われているように思えたからだ。
育児は確かに大変だが、同時に、人生の中で最も豊かで、かけがえのない経験の一つでもある。それを踏まえて、改めて、「ワンオペ育児」という言葉について、考え直してみてはどうだろうか。