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シーラカンスの焼死体

目が覚める。見上げれば開きっぱなしの網戸の外に、燃えるピンクの夕方の空、午後5時を告げる町内アナウンス。ピンポンパンポーン、無気質な女の声は何度も何度もリフレインして、気が狂いそう。まぁそう言って狂ったことは一度も無いから私はこんなつまらん日々を今まで繰り返している訳だけど、そう思ったらこんな音声なんかより私の人生のほうがよっぽどがらんどう。もしもこれが昨日の夢の続きであるのなら、それなら夢でくらいは満たされるかなって願って起き上がる。裸のままでベランダに出て干しっぱなしの一週間分の私の殻を拾えば、目が合っちゃった遠くのジジイが勃起する。(逸らすな。)そう、そのまま、そのまま。首筋から胸にかけての皮膚をねっとり這うのは、お前がずっと熱望していた他者の視線だ、なぁどうなんだよきもちがいいだろ、そう言いながら鶴が鳴いたら耳元に雨、そのままそいつは白のシーツを濡らして灰色にしていく。気が付けばジジイは何処にも居なくて、5時のチャイムも打って変わってちょっと昔の邦ロック。聞き覚えのないのに知ってる声だと思えばそれはカバーで、気の毒なくらい真面目で独りよがりで不気味で、でもだからこそ羨ましかった、あいつのゆきちゃん賛歌が流れてる。ゆきちゃんゆきちゃんゆきちゃんかわいいゆきちゃんだいすきゆきちゃんあいしてる、あの子は弱くて間抜けでだからかわいい、男が好きな感じの女の子。アーモンド型のその目を覗くと春の湖沼で泳ぐシーラカンスの鱗みたいな柔らかな光に満ちていて、だから私は壊したくなる。すべての憎悪は愛であるとか言う人がいるけど、それはただの呪いで愛じゃない。愛は絶対呪いじゃないし私のこれは愛じゃない。その潤った皮膚を見るたび鱗包丁を掲げて追って皮を剥ぐことばかり考えるのは、そしてそのたび枯れた緑の葦に足を取られて沼に沈んでいくのは、きっとただの執着と傲慢だ。地上で素手で触ると魚は火傷をするらしい。それなら包丁なんて使わなくてもこの身で包むだけでいい。あいつが来ようとしても来れない距離まで近付いて、それでも彼女は警戒しないし、そのままそっと抱き締めたってきっと彼女は拒まない。女でよかった、何度も何度も思うセリフをこんな理由でなぞるだなんて思わなかったし、或いはそもそも私は私が女だからこそ彼女を呪っているかもしれなくて、つまりもしかしたらそこには倒錯が起こってるかもってことなのだけど、難しいことはよく分からんからこの手を伸ばし彼女を抱いて、そのまま鎖で繋がった。私の熱のぜんぶを預けてつくる、シーラカンスの焼死体。それはきっと腹を裂くより苦しいはずで、私の下で、私の舌で、顔を顰めてふんふん唸るゆきちゃんを見てるとだんだん私が壊そうとしてるのはこの女なのかあいつの心か私自身かわからなくなる。うるさい、もっとだ。もっともっともっともっと壊れてはやくめちゃくちゃになれ、願えばどんどん息が荒くなり、いつの間にやら彼女の部屋には水が満ち、最後の気泡が私の口から逃げていく。呪いは己の身を祟る、だからそのまま私は死にました。I died。You died!って鶴が鳴く。ジジイの視線を連れてわらったあの鶴だ。鶴の一声なんて言葉があるけど、その鳴き声ひとつでたしかに途端に景色が変わる、そこは私の部屋の網戸の外れたベランダでも彼女の水のベッドでもなく今まで幾度もわたしが沈んだ湖沼で、あーこっちが正解だったか、残念。と思う。相変わらず足は枯れ草に取られたままで、春らしく桜の花まで携えている水面を覗けばそこには虚ろな瞳が映り込む。お前は誰を呪って誰を愛して誰を壊そうとしたの?って、ベッドにあの子を押し倒すまで明白だった問いにもう答えられない。桜の花はとめどなく揺れて、やがて一枚一枚乖離していく。花弁同士は暫く一定の距離を保って近づいたり離れたりを繰り返し、あるものは重なり合って沈んでいき、あるものはハチドリに似た白亜紀の鳥に啄まれ、またあるものはただ散り散りになって黒ずんでいく。そんなことを何度も何度も繰り返す、あの墓の前に白百合が咲くほど、とまではいかないけれど、長い長い時が過ぎていく。そうして悟る時が来る。呪いは己の身を祟る、水底の主に体を繋いでそのまま堕ちた、私が死んだ理由はそれだと思った。でもちがった。確かにそこに愛はあったはずなのに、その方向を、こっちを見ろと投げつけた、その方法を、間違えたから祟られた。すっかり冷えた両足に確かな力を入れて、泥に呑まれる十秒前の身体を支えて屈みこむ。水鏡の向こうに映るゾンビに手を伸ばす。わたし今度こそ間違えないから。手を伸ばしながら確かに叫ぶ。花弁を、その目を、世界を、「ひらいて」。わたしのことを眼差して、逸らすな、逸らすな逸らすな逸らすな。あいつじゃない、あの子でもない、お前だ、私のこれは私自身に言っている。過剰な愛が呪いになるんじゃない。愛の名の元に溺れるな、お前のそれは暴力だ。もしもそこにわずかでも愛の姿を認めるならば、その正体は自己愛だ。手を伸ばせば水面の向こうのわたしも近付いてくる。その眼差しに潜むのはこんどこそ獣性ではなくただしい愛で、水と地上の境界線でどうしようもないほどわたしたちは抱き合って、抱き合ってもうどっちが己か分からなくなるほどに溶けあって、どっちもわたしでどっちの身体もわたしじゃないからきもちくて。火傷のための暴力じゃなく、今度こそぬるいぬくもりに絆されていく。おやすみおやすみ花嵐。吹く風に凪ぐ、春色の美しい沼になっていく。瞳をひらけば18歳の、裸のままの私がただそこにいる。

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