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Vol.18 懐疑論って面白い!-我思う故に我ありを疑う-

こんにちは西進塾国語・英語・歴史講師の島倉です。

以前高校生相手の現代文の授業で扱った評論がとても興味深い内容でありました。曰く、本当に実在する世界は原子と法則だけからなる無機的な物理学的世界で、我々はその物理学的世界を感覚器官(目とか)を通じてしか認識できず、世界の真の姿(=物理学的世界)を認識することはできないということでした。我々は世界を常に感覚器官のような媒介者を通じて得た情報を脳内で再構成するから、我々が世界の姿だと思って認識する情報というのは本当の世界の姿ではないということです。

このように、我々の見る現実は本当に現実なのか?と疑うことを懐疑論と言います。そして我々の認識全てを疑うべきである!と懐疑論を確立させたのが哲学者デカルトです。デカルトは認識するもの全てを疑った結果、全てのものを疑っている自分自身は疑えないではないか、という結論に至ります。有名な「我思う故に我あり」です。

確かに私自身は存在しているなあと納得してしまうところですが、デカルト以後多くの思想家がデカルトの考え方を批判します。まずイギリスの哲学者ヒューム。彼の主張はデカルトの考え方は「自分自身」という絶対に疑ってはいけない存在を前提として設けている時点で保守的であり、自分自身という考える主体こそを疑うべきだというものです。

それから『失われたときを求めて』で有名なフランスの著述家マルセル=プルースト。『失われたときを求めて』では主人公は一つのマドレーヌからあらゆる過去を思い出します。このように、思考というものは能動的にするものではなく、何かによってさせられるものである、という主張をし、デカルトは自分自身が能動的に疑っていると考えている点で間違っていると主張します。ドイツの哲学者カントも、認識される客体が存在するから認識する主体というものが成立しうるのであって、客体が存在しなければ主体は存在できず、自分自身という存在は疑うべきものであるというようにプルーストと同様の趣旨の主張を行なっています。

このように、自分自身は疑うべきか。という論点で色々な思想家の思索に触れてみました。デカルトの主張もヒューム・カント・プルーストの主張も正反対でありながら一理ある、なるほどと思ってしまいます。おそらく正解はないのだと思います。私も受験生の頃は正解を求めていましたし、合格が目標の受験生にとってはそれが正しい生き方であると思います。でも正解のない問いを考えることはとても魅力的です。私も大学に入ってから今まで関心のなかった哲学や倫理学・思想史学というものに関心を持ち、専攻にこそしていませんが本を読んだり授業を受けたりして、知的好奇心を刺激しています。大学に入るということはこのように今まで正解を求められる世界から、答えのない問いにチャレンジする世界に飛び込むことです。少し怖かったり不安かもしれませんが間違いなく楽しいです。受験勉強が煮詰まってスランプに陥ってる人がもし読んでくれていたら、そんな大学での勉強を少しイメージしてモチベーションを上げてみてくれたら幸いです。

西進塾
国語・英語・歴史講師
島倉孝介


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