「檸檬」  梶井基次郎


仲のいい友達が好きな小説だったので、いつかは読みたいと思い、この前古本屋で買った。



えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終押さえつけていた。

この文から始まる。

心がもやもやした日。街から街へと浮浪しているなか、自分が好きな果物屋さんに立ち寄り、檸檬をひとつ買う。

一体私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから絞り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰った紡錘型の格好も。(〜省略)その檸檬の冷たさは例えようもなきよかった。(〜省略)実際あんな単純な冷覚や触感や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなった程私にしっくりしたなんて私は不思議に思える

檸檬の香りから原産地のカリフォルニアを想像したり、
「つまりはこの重さなんだな。」と呟き、この重さは美しいものを重量に換算してきた重さであるとか馬鹿げたことを考えてみたり。
たった一つに檸檬から様々なことに考えを馳せる。


いつの間にか、心のもやは消え去り、幸福な感情で心が包まれていた。


ふらりと丸善に入ると、画本の本棚で、本の高く積み上げ、その上にに檸檬を置いてみたらどうだろうと思いつく。そして、それをそのままにして、何食わぬ顔をして外に出る。


変にくすぐったい気持ちが街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。


たったひとつの檸檬で、多くのことを感じとり、こんなにも感情が揺れ動くなんて、想像した事となかった。


この話は、お金がなくとも、日常的なものでも、贅沢はできるんだという、想像力の可能性を教えてくれたように思える。


例えば、ガラスのおはじき。あれを舐めた時の味を、これほど幽かな涼しい味は味わったことない、と表現している。

例えば、みすぼらしくどこか親しみのある道を通った時。どこか遠い街へ来ているような錯覚を起こそうと試みる。そしてその状態でゆっくり時を過ごし、本当にどこか遠くに来て、寝っ転がったりしているような錯覚を味わう。



僕の贅沢は、ちょっと高価な美味しいご飯だったり、旅行だったりする。
お金を多く使うことでしか贅沢は手に入らないと、なんとなく思っていた。
でもこれも幻想かも知れない。


昔はバナナは値段が高く、贅沢品であった。
しかし現在は、昔贅沢であったバナナは手軽に味わえる。

旅行だってそうだ。目を瞑って一気に福岡から北海道に飛ばされたとしよう。ここはどこでしょうって言われても、すぐに当てることは難しい。確かに方言や食など地域ごとに特色はあるが、同じ日本ならそこまで変わらない。それならば、錯覚を利用して、旅行気分を味わえるのなら、それでいいのかも知れない。


贅沢は幻想であり、
想像力さえあれば、お金がなくとも贅沢はできる。
なんともない日常を楽しむことができる。


この本は、檸檬を通して、豊かな人生を生きるための、何か忘れてはいけないものが詰まっているような気がした。


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