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東京五輪を外から見た私が「五輪スタイルは30年以内に消滅する」と感じた3つの理由


東京五輪が続いている。五輪に関して指摘される様々な問題が浮上している。私は五輪の問題は根本的に取り組む必要性は低いと感じている。なぜなら東京五輪のようなスタイルは30年以内に消滅すると確信しているからだ。


私が小さかった時、オリンピックというのは世界的なイベントなんだと思っていた。例えば、ロス五輪のロケットマンなんて世界中の人が見つめてると信じていた。だから停戦協定とかがあるのだろうと思っていた。


今、私は東南アジアで東京五輪を遠くから見ている。特に報道メディアを契約していない&立場的に今回の五輪に関しる自分の方向性を決められないので五輪はネットで見れる範囲で後追いで見てる。家族は全く興味がない。

そのような状況から朧げな未来が見える。


五輪のような国際総合スポーツ総合大会は30年以内に確実に消滅する


そう感じる理由を東南アジアに住むZ世代の親であるアラエイティの個人的な意見としてまとめてみた。

現在の五輪スタイルが消滅すると思う理由は大きく分けると3つ。


1:観る人がいなくなる
2:やる人がいなくなる

3:得する人がいなくなる


では順番にみていきましょう。


1:観る人がいなくなる

そもそもZ世代で東京五輪を夢中に見てる人がどれだけいるのだろうか

「オリンピック始まったよ!」と言ってもZ世代である15歳息子は全く興味を持ってくれない。国別で対抗してどうするの?というのが彼の意見。確かにそうだ。私たちは現在マレーシアのクアラルンプールに住んでいる。彼の通うインターナショナルスクールの友人には両親の国籍が違う人も多い。そうなると子供は複数の国籍を持つ場合がある。そうなるとその人が応援するのは「国ではなくて個人」になる。複数国籍があると応援しにくいそうだ。だって両方自分の国だから。そして今は国際情勢的にどこの国を応援すると他の国からクレームが来る場合がある。

そもそも国別にしたらその国の状況もそれぞれ違うのだから競技によってはアンフェアになるのでおかしいと意見もあった。確かにそうだ。サッカーならサッカーの相応しい時期、野球なら野球の相応しい時期に同等の環境の相応しい選手を集めて競わないとフェアじゃないじゃんって。はい、その通りです。

そして放送の環境も変わった。五輪じゃなくても今はインターネットの普及により別に放映されなくてもいわゆるマイナースポーツの情報を得ることは本当に容易になった。興味を持った競技を見たければみるし、見れなかったら自分で見る場所を作る。用意された総合的な舞台をわざわざ見る必要性は確実に減少している。

そしてどんなに技術が発達しても埋められない「時差」問題がある。時差がある限りライブで見れない地域が必ず発生する。Liveで見られないのなら、と思うひとは多いというのは北米やカナダの視聴率を見れば明らかだ。

もう五輪は世界中の人がライブで見るものではない。だって他に見るものがたくさんあるから。


2:やる人がいなくなる


スポーツが種目によっては「選ばれたものしか出来ない娯楽」になった

スポーツそのものは、とても楽しいものだ。しかしそのスポーツに利権が伴うことにより楽しさは競技者からどんどん奪われていく。そしてその利権に見合う人だけのものになっていく。サッカーやバレーボール、野球などの球技は日本では「練習できる環境に連れて行ける子供のみ」が続けられる。空き地でボールを蹴ったり道でバドミントンをしたりするような生活は環境的に厳しくなった。学校の部活も存続が厳しい状況だ。私の住む東南アジアでは元々子供が運動できる環境が少ない。そもそも学校の授業に日本的な体育がない。そしてこのコロナ禍。運動をするという環境が子供達から強制的に取り上げられいるのに選ばれた民が五輪にて「スポーツをやってる」。自分が出場したかった水泳大会もサッカー大会も学校の旅行も中止になったのに「五輪は開催されている」。

この状況に理不尽さを感じない青少年は流石にいないのではないか。

もちろん、日本的な学校教育における体育や部活に関しては十分改善しなくてはいけない余地がある。そして学校でも民間スポーツクラブでもそして自由な遊びでも「子供が運動を楽しい」と感じる環境が少なくなっているのが現状だ。そしてこの状況が1年だけでなく数年続いている。そんな中行われている五輪。なぜ自分たちだけが我慢を?という感情から「五輪に対する複雑な感情」は確実に増えている。複雑な思いを感じる大会をわざわざ目指す若者がどのくらいるのだろうか。


3:得する人がいなくなる

従来の方法では巨万の富は得られない時代がそこまでやってきてる

ではなぜ五輪のような国別対抗スポーツ大会が巨大化を続けているのか。それは国別対抗の国際大会で儲けられる人がいるからだろう。一部への富の集中はテレビ放映や広告や中抜きシステムなどの従来のビジネスモデルだからこそできること。この件に関しては英語でも日本語でも数多くの報道があり、読んでいて辛くなる。しかし、それもこの儲かるビジネスモデルが終わったらは必要なくなる。

NFTや仮想通貨など、新しい富の獲得方法がスポーツの世界と繋がるのも時間の問題だろう。そうなると富の得方が変わってくる。古来の方法はもう通用しない。


以上3つ挙げただけでも時代が、環境が確実に動いていることを感じる。その動きは「ここがおかしい」という指摘がSNSでライブで指摘される。今までなら隠していたことがどんどん見えてくる。もちろん見えてくることでのストレスもあるのだけど「見えてくるから変えられる」ことも事実である。



40代以上が次の世代にできることを考える時がきた

以上の点を踏まえてみると「五輪のような国際総合スポーツ大会はあと30年以内に確実に消滅する」という私の予測に「そうかも」と思って下さる人も多いのではないだろうか。少なくとも今の規模はこの東京五輪で終わると思う。予想としては規模が縮小され、オリパラが一体化して、そして参加者の年齢層が確実に上がるのではないかと思う。富裕層の健康的な娯楽に落ち着くのではないか。

そして国際総合スポーツ大会は消滅するけど、それぞれの競技がそれぞれのやり方で国際大会が実施される。もちろんネットでも実際にも見れる、そして鑑賞者もそれぞれのスタンスでスポーツを楽しむようになる。

例えば、うちの息子はトライアスロンをやってる(現在はコロナ禍で出来ない。五輪はできるのにと本人は複雑な感情を持っている)。アマチュアトライアスロンは競技者の階級別にどんどんスタートしていくシステム。実際の競技の自転車とマラソンでは(子供のレースのトップ者が大人初心者の後尾グループを追い抜くなど)階級が混合しまくる。


つまり、階級内の順位などわからん!状態になる。つまり順位などどうでも良くなる。自分自身を、個人を応援するのだ。


このようなスタイルだとスポーツは「自分がいかに楽しむか」に感覚がシフトしていく。トライアスロンに限ったことではない。スケートボードやフリースタイルバイクなどは「いかに自分が楽しむか」が重要。そしてそのようなスポーツは既に「Xゲーム」や「アイアンマン」など独自の大会様式が構築されている。


オリンピックで順位だなんだっていう感覚はもう古い、と言われる時代が確実に近づいている。五輪はもちろん大きな大会。でも同時に大会の1つでしかない。そこで前述のような複雑な感情を持つ層が一定数いるのにわざわざ開催を続ける必要があるのか?という根本的な疑問が生まれてもおかしくは、ない。


では40代以上が若い世代にできることは何か。それは「自分たちで新たな世界を探す気力体力をつける」「相槌力を高める」ではないか。

ここで重要なのは「若い世代の世界に前世代が「教えてやる」と入り込むことはご法度である」ということだ。40代以上が若い世代から「子離れ」しなくては次の世代はいつまでたっても前世代に自分たちの思いを教えてくれないだろう。この「どうせ伝わらない」「伝えても変わらない:と流してきた結果、多くのものを失ってきたのがこの平成の30年だったのだから。その「思いを伝えないこと」で多くのものを失った現状を見て思うことがあるのなら、我々は若い世代のやりたいことができるようにメイン財布を渡してその場を去るべきだ。


大丈夫。心配するな。我々は自分たちの別の財布を持って別の場所でまた始めればいい。その始めたことをその場所で思う存分楽しめばいい。そうしたらきっと別の世代でちょっと変わった若者が覗きにきてくれる。その際に「どれだけ楽しいか」だけを伝えて後は若者の思いをただ聞くのだ。


それぞれが築いた世界で「楽しい!」って楽しんでれば、その世界に穏やかな交流が生まれる。え?楽しむ方法がわからない?楽しむ方法なら若い世代に素直に聞こう。そこからまた新しい世界が始まる。っていうか始めようや。